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霧の町  作者: 相田 依人


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第十一章

 霧は、夜になるほど濃くなる。


 町の灯りは、白の奥でにじんでいた。


 さくは一人で歩いていた。


 しおりと別れてから、胸の奥がざわついている。


 老人の言葉が、離れない。


――長く居るほど、軽くなる。


――戻る理由が消える。


 足が自然と、町の中央広場へ向かっていた。


 ここは、霧の町で一番人が集まる場所だ。


 小さな露店。


 古びたベンチ。


 動かない時計塔。


 そして――


 帰れなかった人たちが、静かに時間を過ごしている場所。


 広場の端に、若い男が座っていた。


 見覚えがある。


 以前、しおりとすれ違ったとき、軽く会話をしてきた人物だ。


 さくは少し迷い、声をかける。


「……ここ、よく来るんですか」


 男は振り向く。


「ああ」


 柔らかい笑み。


「暇だからな」


 その笑みが、どこか寂しい。


「……帰れなかったんですか」


 さくは思い切って聞いた。


 男は、少しだけ空を見た。


「……」


 霧はゆっくりと流れていた。


 建物の輪郭が、古い写真のように淡く滲んでいる。


 男は柱にもたれるように座り、白の向こうを見ていた。


「帰るつもりだったんだ」


 低い声だった。


 さくの胸が、わずかに締まる。


「恋人のところに?」


 男は小さく頷く。


「喧嘩してさ」


 乾いた笑いが漏れる。


「俺が悪かったのに、意地張って」


 霧が二人の間をすり抜けていく。


 湿った空気が、わずかに冷たかった。


「迎えに来るってわかってたんだ。俺を探してくれるって」


 沈黙が落ちる。


 霧の向こうで、どこかの扉が軋む音がした。


「……でも」


 男は続けた。


「俺、信じ切れなかった」


 さくは眉を寄せる。


「どういう……」


 男は視線を落としたまま言う。


「来てくれるって分かってたのに」


 指先で、路面のざらつきをなぞる。


「“もし来なかったら”を考えてた」


 その言葉が、さくの胸に刺さる。


 男は苦笑した。


「だから、帰る準備をしなかった」


「準備?」


「向こうに戻った時に、何を伝えるか」


 男は肩をすくめる。


「謝る言葉も、決めてなかった」


 霧が少し濃くなる。

 

 空気が、静かに重く沈む。


「……迎えは?」


 さくが問う。


 男は、ほんのわずかに目を細めた。


「来たよ」


 さくが息を止める。


「……恋人が?」


 そんなこと、あり得ないと頭ではわかっているつもりなのに、「迎え」という言葉の響きについ聞き返してしまった。


 男はゆっくり首を振った。


「霧が、変わったんだ」


 静かな声だった。


「出口が開いた」


 さくは黙ったまま、男の横顔を見る。


「分かるんだよ」


 男は続ける。


「霧が変わるからな」


 霧の奥を見据える。


「霧が薄くなってな…道ができる」


 さくの背筋に、薄く寒気が走る。


「道が……」


「ああ、道ができる。……お前は……帰れる……と道が教えてくれる」


 男は言う。


「だが……」


 短く息を吐く。


「迎えが来ないことだけを教えてくれる時もある」


 朔は思わず聞き返す。


「教えてくれる?」


 男は頷く。


「理由は分からない」


 霧が、ゆっくり揺れる。


「ただ、待っても来ないと分かるだけだ」


 さくは、写真館の老人の話を思い出した。


 沈黙。


 遠くで、風鈴のような音が鳴った。


 さくは唇を結ぶ。


「……じゃあ、その時は」


 男は、わずかに笑った。


「何も出来ない」


 白を見つめたまま続ける。


「でもな」


 少しだけ、声が低くなる。


「帰れる霧が来た時は違う」


 さくが顔を上げる。


 男は言った。


「ちゃんと、自分が決めないと……道は消える」


 その言葉は、静かに落ちた。


「霧は、待たない」


 さくの喉が乾く。


「俺は……」


 男は目を閉じる。


「怖くて、動けなかった」


 霧が、ゆっくりと二人の足元を流れていく。


「気づいた時には、閉じてた」


 男は肩を離し、まっすぐ立つ。


「それからだよ」


 振り返りもせずに言う。


「霧の流れを、見るようになったのは」


 さくは息を整えながら尋ねる。


「……霧が……道が二度開くことはあるんですか?」


 男は少しだけ首を傾けた。


「どうかな」


 霧の奥へ視線を向ける。


「二度も道が開くなんて話は、聞いたことがないな」


 一歩、霧の中へ足を踏み出す。


「ここは、優しいようで残酷だ」


 さくは何も言えない。


 男は、振り返らずに続けた。


「帰れるやつには、ちゃんと道を見せる」


 白の向こうに、背中が溶けていく。


「でも」


 最後の声だけが残る。


「歩かなかったやつは、置いていく」


 霧が、ゆっくりと閉じる。


 さくは、その場に立ち尽くしたまま――


 白く滲む空を見上げていた。


 静かな声。


 広場に、風が吹く。


「それからは、ずっとここだ」


 さくは立ち尽くす。


 胸の奥が、強く疼く。


 自分が、同じことをしてきたと理解してしまった。


 怒らない。


 合わせる。


 嫌われないようにする。


 それは――


 向き合っていなかっただけだ。


「……ありがとう」


 さくは深く頭を下げる。


 男は驚いた顔をする。


「僕は……まだ間に合うかもしれない」


 さくは言う。


「そうか」


 男は微笑む。


「なら……迷うな」


 さくは走り出していた。


 霧の中を。


 しおりの家へ。

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