第十章
霧の町を歩く、朔と栞。
二人の前に、先日、写真館で会った老人が現れる。
老人が語る内容は…
霧は、いつもより低く垂れ込めていた。
足首のあたりまで、白が沈んでいる。
町は静かだった。
静かすぎるほどに。
「……なんか」
栞が呟く。
「今日は、音が少ないね」
朔も気付いていた。
風鈴が鳴っていない。
屋台の煙も見えない。
どこか、町が息を潜めている。
「散歩、やめようか?」
朔が言う。
栞は少し考え、首を振った。
「大丈夫……行こう」
そう言って歩き出す。
通りを抜け、二人は住宅の並ぶ区域へ入った。
ここは、人の気配が薄い。
古い木造家屋が並び、障子越しに灯りが滲んでいる。
朔は、ふと違和感を覚えた。
視界の端で、何かが揺れた気がした。
振り向く。
誰もいない。
「……?」
再び前を見る。
栞が、少し先を歩いている。
霧の中に、半分ほど溶けるように。
「栞さん…」
呼びかける。
「ん?」
振り返る。
その瞬間。
栞の輪郭が、わずかに滲んだ。
まるで、水面に映った像のように。
朔の心臓が跳ねる。
「……今」
言葉が詰まる。
「何?」
栞は普通の顔をしていた。
「いや……」
朔は首を振る。
「なんでもない」
二人は歩き続ける。
だが朔は、視線を外せなかった。
栞の足音が、時々聞こえなくなる。
歩いているのに。
存在の重さが、薄くなる瞬間がある。
「ねえ」
栞が突然言った。
「ここに来てからさ」
「うん?」
「夢、見る?」
朔は少し考える。
「……見るよ」
「どんな?」
「帰る夢」
自分でも意外な答えだった。
栞は、少しだけ微笑む。
「私はね」
歩きながら続ける。
「向こうの夢、見るんだ」
胸がざわつく。
「元彼の?」
栞は少し迷ってから頷いた。
「うん」
霧が、二人の間を流れる。
「最近ね……」
栞は続ける。
「顔、思い出せなくなってきた」
朔の足が止まりかける。
「声は覚えてるのに」
栞は空を見る。
「顔だけ、ぼやける」
その言葉が、異様に重かった。
そのとき。
背後から、低い声がした。
「止まりなさい」
振り向く。
写真館の老人だった。
いつの間にか、そこに立っている。
霧の中から現れたように。
「……写真屋の……」
朔が言う。
老人は、じっと栞を見ていた。
「最近、歩く距離が増えたね」
「え?」
栞が首を傾げる。
老人は答えない。
朔の方を見る。
「気付いてるかい」
低い声。
「何に」
「霧に馴染み始めてることに」
空気が凍る。
「どういう意味です?」
朔の声が強くなる。
老人は静かに言う。
「この町はね」
少し間を置く。
「長く居るほど、軽くなるんだよ」
栞が眉をひそめる。
「軽く?」
「向こうの重さが、剥がれていく」
老人は続ける。
「名前」
「顔」
「約束」
「後悔」
「一つずつ、霧に溶けるように」
「待ってよ」
朔が一歩前に出る。
「それって――」
老人は遮る。
「消えるわけじゃないよ……でもね……」
「戻れなくなんだ」
その言葉は、刃だった。
栞が、静かに息を吸う。
「……どれくらいで?」
老人は首を振る。
「分からん」
「ただ」
視線を朔に向ける。
「自分が軽くなってることに、気付けなくなった時」
沈黙。
「その時はもう、戻る理由が消えてるんだ…」
朔は栞を見る。
栞は、霧の中で立っている。
その姿が、少しだけ遠く感じた。
「栞さん……」
名前を呼ぶ。
「ん?」
「元彼のこと」
躊躇いながら言う。
「まだ、好き……?」
霧が揺れる。
栞はすぐに答えなかった。
長い沈黙。
やがて、言う。
「……分からない」
その言葉が、一番残酷だった。
「でも」
栞は続ける。
「忘れたくない」
小さな声。
「忘れたら……私じゃなくなる気がする」
朔の胸が締め付けられる。
老人が、静かに背を向ける。
「覚えておきなさい」
振り返らずに言う。
「霧は記憶を奪うが、帰らせもする」
足音が遠ざかる。
「どっちを選ぶかは、自分次第だからね」
やがて老人の姿は、完全に消えた。
二人だけが残る。
霧の中。
「……朔」
栞が呼ぶ。
「もしさ」
声が、ほんの少しだけ震えている。
「私が、ここに馴染んでいったら」
朔は遮る。
「させない」
反射だった。
栞が、少し驚いた顔をする。
「帰る」
朔は続ける。
「一緒に」
言った瞬間。
自分が、初めて“断言”したことに気付く。
栞は、ゆっくり目を伏せた。
その表情には――
嬉しさと。
恐れと。
そして。
まだ消えていない迷いがあった。
そのとき。
霧の奥で。
一瞬だけ。
栞の影が――
朔の影と、ずれて揺れた。
まるで。
別の方向へ歩き出そうとしたように。
朔は、気付かない。
だが。
霧は、確かに動いていた。
静かに。
確実に。
二人の距離を測るように。




