第九章
栞の過去を知った朔。
朔は住人との話の中で、
この町を知っていく。
川沿いを離れたあと、二人は無言のまま商店街へ戻っていた。
夜なのに、いくつかの店はまだ灯りが点いている。
霧は昼間より低く垂れこめ、軒先の提灯の光を柔らかく滲ませていた。
「……ねえ」
栞が立ち止まる。
朔が振り返る。
栞は、古びた写真館を見つめていた。
店の看板には、かすれた文字で
《八代写真室》
と書かれている。
昼間は閉まっていたはずの店だった。
だが今は、シャッターが半分だけ開いている。
奥から、弱い電灯の光が漏れていた。
「開いてる……」
栞が小さく呟く。
朔は少しだけ眉を寄せる。
「……やめとくか?」
「ううん」
栞は首を横に振る。
「なんか……呼ばれてる気がする」
朔は一瞬だけ迷った。
だが、すぐに言う。
「一緒に行くよ」
二人は、シャッターの下をくぐった。
店内は、古い薬品と乾いた紙の匂いが混ざっていた。
壁一面に、白黒写真が並んでいる。
結婚式。
家族写真。
町内の運動会。
どれも、ごく普通の記念写真だった。
だが——
朔は違和感に気付く。
どの写真にも、どこかに一人、視線がほんの少しだけ、外れている人物がいる。
栞が小さく息を呑む。
「……この人たち」
「どうした」
「なんか……」
栞は一枚の写真をじっと見つめる。
「帰れなかった人が、いる気がする」
「帰れないから、ここに居るんだろ?」
「違うの。そうじゃなくて…」
そのとき。
奥の暗室から、声がした。
「よく分かったね」
二人が振り向く。
暗がりの奥から、老人が現れた。
白髪で、背が少し曲がり、
首から古いカメラを提げている。
「いらっしゃい」
穏やかな声だった。
朔は警戒を隠さない。
「ここ……営業してるんですか」
老人は柔らかく笑った。
「もうずっと、記念写真だけを撮ってる」
「記念?」
栞が聞き返す。
老人は壁の写真を見上げた。
「ここにいる人たちのね」
沈黙が落ちる。
「……ここにいる人?」
朔が尋ねる。
老人は静かに頷いた。
「帰れなかった人たちだよ」
店の空気が、ほんのわずかに重くなる。
「元の世界の…古い写真を持ってきて、預かって欲しいという人もいるけどね」
老人は、一枚の写真を指差した。
若い女性が写っている。
優しく微笑んでいた。
だが、その景色は、この町の景色ではなく、元の世界の景色だった。
「これは、元の世界の写真なんだけどね。この人はね…」
老人が言う。
「恋人を待っていた」
栞が静かに聞く。
「待っていた……?」
「約束してたんだ」
老人は写真を見つめたまま続ける。
「恋人が、迎えに来るって」
朔が聞く。
「今でも…待っているんですか?」
老人は少しだけ目を細めた。
そして、ゆっくり言った。
「今はもう待っていないよ。ずいぶん昔の話だしね。」
朔と栞は、黙って老人の話の続きを待つ。
「……霧はね」
店内の空気が、わずかに沈む。
「迎えが来ないことだけを教えてくれる」
朔が思わず聞き返す。
「迎えに来れるんですか?この町に?」
老人は、朔を見て優しく微笑む。
「この町に迎えに来るのは、難しいだろうな…。迎えに来るということは、元の世界の人が、ここに来た人を忘れないということなんだよ」
栞の指が、かすかに震える。
「理由は分からない。だけど…元の世界の家族…恋人、友達…そういう人達から、ここに来た人の記憶が薄れるだろ。そうすると…わかるんだ。」
老人は静かに続ける。
「霧が——」
写真に触れる。
「待っても来ないと、教えてくれるんだ」
長い沈黙が落ちた。
「……この町は……」
朔が口を開く。
「どういう場所なんですか」
老人はすぐには答えなかった。
しばらく写真を眺めてから言う。
「“選ばない人”を留める場所だと、私は思ってる」
栞の呼吸がわずかに浅くなる。
「帰れる人はいる」
老人は続ける。
「でも、帰るには——」
そこで言葉を切る。
「何かを選ばなきゃいけない」
店の蛍光灯が、かすかに瞬いた。
「帰れなかった人は……」
朔が慎重に聞く。
「後悔してるんですか」
老人は少し考えた。
「している人もいる」
「していない人もいる」
そして、ゆっくり付け加える。
「ただ……どの人も」
視線が栞へ向く。
「選ばなかったことだけは、忘れない」
栞は動けなかった。
店を出た。
二人は、しばらく無言で歩いた。
霧は、さっきより少し濃い。
街灯の光が、ぼんやりと浮かんでいる。
栞が立ち止まる。
「……怖い」
正直な声だった。
朔は黙って待つ。
「もし帰ったら」
栞が言う。
「また、あの現実に戻る」
「うん」
「自分で決めなきゃいけない世界」
沈黙。
「……でも」
栞がゆっくり顔を上げる。
「ここに来た理由は、分かってきた」
朔が見る。
栞は震えながら言った。
「私は……ずっと、誰かに選んでほしかった」
霧が、静かに揺れる。
「でも、それじゃ駄目なんだよね」
その言葉に、朔の胸が強く鳴る。
栞は続ける。
「私が選ばなきゃ」
長い沈黙。
そして。
「……帰りたい」
その一言は、小さいのに確かな重さを持っていた。
朔は、何も言えなかった。
ただ、胸の奥が痛む。
それでも。
「……そっか」
それだけ言った。
栞は、少しだけ笑う。
「まだ怖いけどね」
「うん」
「でも、逃げたままは嫌だ」
朔は霧の奥を見る。
「……じゃあさ」
静かに言う。
「帰る方法、探そう」
栞が振り向く。
「一緒に」
その言葉に、栞の瞳が揺れた。
霧の向こうで。
一瞬だけ、道がまっすぐ伸びたように見えた。




