第9話 彼女の選択
王宮の審問室は、重苦しい空気に満ちていた。
高い天井から差し込む光が、中央に立つ一人の男を照らしている。宰相ゲオルク・フォン・ヴァイザー。かつてこの国の政務を一手に担った男が、今は罪人として裁きの場に立っていた。
俺は、父王の隣で審問を見守っていた。
「ゲオルク・フォン・ヴァイザー」
法務大臣が、厳かな声で告げた。
「汝は、王太子妃候補の排除を企て、虚偽の証言を用いて断罪劇を画策した。さらに、聖女の権威を利用して王家の実権を掌握しようとした。これらの罪について、何か申し開きはあるか」
ゲオルクは、青ざめた顔で立っていた。
三日前の威厳は、どこにもなかった。
「私は……」
彼が口を開きかけた、その時だった。
「お待ちください」
若い女の声が響いた。
マルグリット・ヴァイザーだった。宰相の姪。断罪劇の証人の一人。
彼女は震えながら前に出た。
「私は……真実を申し上げます」
「何だ、マルグリット」
ゲオルクの顔が歪んだ。
「黙っていろ」
「いいえ、叔父上。もう、黙っていられません」
マルグリットが顔を上げた。その目には、涙が光っていた。
「証言は……全て、叔父上に命じられたものです」
審問室がざわめいた。
「リリアーナ様が聖女様を侮辱したという話は、嘘でした。私たちは、叔父上の指示通りに証言するよう命じられたのです」
「マルグリット!」
「カロリーネもベアトリスも、同じです。私たちは家の命令に逆らえなかった。でも、あれは嘘でした。リリアーナ様は何も悪いことをしていません」
マルグリットが膝をついた。
「陛下、お許しください。私は偽証をいたしました」
続いて、カロリーネとベアトリスも前に出た。
「私も同じです。宰相閣下に命じられました」
「私もです。申し訳ございませんでした」
三人の令嬢が、床に頭をつけた。
審問室が静まり返った。
ゲオルクの顔から、最後の血の気が引いていくのが見えた。
「ゲオルク・フォン・ヴァイザー」
父王が、玉座から立ち上がった。
「証人たちが自白した。もはや言い逃れはできまい」
「陛下……私は……」
「五十年、お前を信じてきた。共にこの国を治めてきた」
父王の声には、怒りと悲しみが入り混じっていた。
「だが、お前は王家を裏切った。許されることではない」
ゲオルクが、膝を折った。
「全ては……私の野心でした」
搾り出すような声だった。
「ヴァイザー家を、王家に並ぶ地位に引き上げたかった。そのために、聖女を利用し、リリアーナ嬢を排除しようとした。全て、私の罪です」
「ゲオルク・フォン・ヴァイザー」
法務大臣が宣告した。
「宰相職を剥奪し、領地への永久蟄居を命じる。ヴァイザー家の当主の地位は、親族会議で改めて決定される」
ゲオルクは、何も言わなかった。
衛兵に両脇を抱えられ、審問室から連れ出されていく。
その背中は、かつての威厳を失い、老人のように小さく見えた。
翌日。
教会の大聖堂で、もう一つの審問が行われた。
セレスティア・ノーブル。聖女の地位にあった女。
「セレスティア・ノーブル」
大司教が、厳かな声で告げた。
「汝は聖女の権威を私欲のために濫用し、虚偽の断罪劇に加担した。これは聖女としての誓いに背く行為である」
セレスティアは、白い囚人服を着ていた。
あの華やかな白いドレスはなく、銀の十字架も外されている。
「私は……聖女として……」
「聖女の資格を剥奪する」
大司教が宣告を下した。
「汝は、北部の修道院へ送られ、残りの生涯を祈りと贖罪に捧げることとなる」
セレスティアの目が、見開かれた。
「そんな……私は聖女です! 女神に選ばれた者です!」
「聖女の力は、純粋な信仰心によって与えられる。私欲に塗れた者に、その資格はない」
「嘘よ! 私は……私は……!」
セレスティアが叫んだ。だが、その声は虚しく聖堂に響くだけだった。
彼女は衛兵に連れられ、聖堂を後にした。
最後に俺を見た目には、純粋な憎悪が燃えていた。だが、もう何の力も持たない。
全ては、終わった。
その日の夕刻。
俺は、王宮の庭園にいた。
春の風が吹き抜け、花々が揺れている。夕陽が空を茜色に染め、庭園全体が柔らかな光に包まれていた。
「殿下」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、リリアーナが立っていた。
淡い緑のドレス。髪は緩やかに結われ、夕陽を受けて金色に輝いている。
「来てくれたか」
「はい。お呼びと聞いて」
俺は、庭園の奥にある東屋へ彼女を導いた。
あの日、初めて二人きりで茶を飲んだ場所だ。
「座ってくれ」
リリアーナが、俺の向かいに座った。
その表情は穏やかだったが、どこか緊張しているようにも見えた。
「宰相と聖女の件は、聞いているか」
「はい。審問の結果は、エミリアから聞きました」
「そうか」
俺は、深く息を吐いた。
「これで、君を脅かす者はいなくなった」
「殿下のおかげです」
「俺だけではない。兄上や、影の目や、多くの者が動いてくれた」
「でも」
リリアーナが、俺を見た。
「最初から最後まで、私の傍にいてくださったのは殿下です」
俺は、彼女の目を見つめた。
翡翠の瞳。六年前から変わらない、澄んだ色。
「リリアーナ」
「はい」
「改めて、君に伝えたいことがある」
俺は、言葉を選びながら話し始めた。
「俺たちの婚約は、十二年前に王命として決められたものだ」
「はい」
「君に選択の余地はなかった。俺にも、なかった」
リリアーナが、静かに頷いた。
「だが」
俺は、彼女の手を取った。
「俺は、王命だから君の傍にいるわけではない」
リリアーナの目が、僅かに見開かれた。
「六年前、記憶が戻った時、俺は初めて気づいた。自分が君にどれほど酷いことをしてきたか。そして、君がどれほど美しく、強く、気高い人であるか」
「殿下……」
「それから、ずっと君を見てきた。君の強さに惹かれた。君の優しさに心を奪われた。君の笑顔を、もっと見たいと思った」
俺は、彼女の手を握りしめた。
「俺は、君を愛している」
リリアーナの目が、大きく見開かれた。
「六年前に気づいた時から、ずっと。君だけを、愛している」
涙が、彼女の頬を伝った。
「殿下……」
「だから、君に選んでほしい」
俺は、彼女の目をまっすぐに見た。
「婚約は王命だった。だが俺は、君自身の意思で俺の傍にいてほしい。君が望まないなら、婚約を解消することもできる。俺は、君の意思を尊重する」
リリアーナの手が、震えていた。
「選んでくれ、リリアーナ。君の人生を、君自身で」
沈黙が流れた。
夕陽が沈みかけ、庭園が薄暮に包まれていく。
リリアーナは、俯いたまま動かなかった。肩が小さく震えている。
俺は、待った。
六年間、待ち続けてきた。あと少しくらい、待てる。
彼女が何を選ぼうと、俺は受け入れる覚悟だった。
「殿下」
やがて、リリアーナが顔を上げた。
その頬は涙で濡れていたが、瞳は澄んでいた。
「六年間……私は、殿下を恨んでいました」
「ああ」
「近づかれるのが怖かった。また傷つけられるのではないかと」
「わかっている」
「でも」
彼女が、俺の手を握り返した。
「殿下は変わってくださった。六年間、ずっと私を守ってくださった。私が信じなくても、私が避けても、それでも傍にいてくださった」
リリアーナの声が、震えていた。
「最初は、信じられませんでした。何か裏があるのではないかと、疑っていました」
「当然だ」
「でも、茶会で私を庇ってくださった時。廊下で聖女様の嘘を暴いてくださった時。図書室で、あの日の料理のことを覚えていると言ってくださった時」
彼女の涙が、また頬を伝った。
「少しずつ、殿下を信じられるようになりました」
「リリアーナ……」
「そして、卒業式の日」
彼女が、俺を見た。
「殿下が私を守ってくださった時、私は気づいたのです」
「何に?」
「私は」
リリアーナが、俺の手を胸に引き寄せた。
「殿下の傍にいたい、と」
俺の心臓が、大きく跳ねた。
「それは、王命だからではありません。婚約者だからでもありません」
彼女の翡翠の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめていた。
「私自身が、そう望むからです」
リリアーナが、微笑んだ。
涙を浮かべながら、それでも確かに微笑んだ。
「私は、殿下の傍にいたいです。ユリウス様」
俺は、言葉を失っていた。
六年間、待ち続けた答えが、今、目の前にあった。
「リリアーナ」
俺は、彼女の手を握りしめた。
「ありがとう」
「殿下こそ」
「いや、俺こそ……君に、どれだけ感謝しても足りない」
俺は、彼女を引き寄せた。
そっと、抱きしめた。
彼女の温もりが、俺の胸に伝わってくる。カモミールの香りが、ふわりと漂った。
「ずっと、待っていた」
「私も」
リリアーナが、俺の胸に顔を埋めた。
「私も、ずっと……待っていたのかもしれません」
「リリアーナ」
「はい」
「愛している」
「……私も」
小さな声だった。
だが、俺の耳には、はっきりと聞こえた。
「私も、殿下を……ユリウス様を、お慕いしております」
俺は、彼女を強く抱きしめた。
夕陽が沈み、庭園に夜の帳が降り始めていた。だが、俺の胸の中には温かな光が灯っていた。
しばらくして、リリアーナが顔を上げた。
「殿下……いえ、ユリウス様」
「何だ?」
「私からも、お伝えしたいことがあります」
彼女が、俺の手を取った。
その瞳には、決意の光があった。
「あの日、お約束しましたよね」
「約束?」
「いつか、お料理を作ると」
俺は、目を見開いた。
「覚えていたのか」
「はい。ずっと、考えていました」
リリアーナが、微笑んだ。
「明日、お作りしてもよろしいですか?」
俺は、彼女の手を握りしめた。
「待っている。ずっと、待っていた」
リリアーナの頬が、赤く染まった。
夜の庭園に、二人の影が寄り添っていた。




