第8話 断罪、再び
卒業式の朝は、晴れていた。
春の陽光が王立グランツェル学園の校舎を照らし、庭園の花々が風に揺れている。だが、俺の心に平穏はなかった。
今日、全てが決まる。
「殿下」
学園の控え室で、リリアーナが俺の前に立っていた。
淡い桃色のドレス。髪は丁寧に結い上げられ、首元には母親のエメラルドが揺れている。卒業生としての正装だ。
「リリアーナ」
俺は彼女の手を取った。
「何があっても、俺を信じろ」
彼女の翡翠の瞳が、俺を見上げた。
「……何か、あるのですか」
「わからない。だが、今日は波乱があるかもしれない」
嘘はつけなかった。彼女には、覚悟してもらう必要があった。
「どんなことが起きても、俺は君の味方だ。それだけは、忘れないでくれ」
リリアーナの手が、僅かに震えた。
だが、彼女は目を逸らさなかった。
「……はい」
小さく、だが確かに頷いた。
「殿下を、信じます」
その言葉が、俺の胸に染み渡った。
六年間、待ち続けた。彼女がその言葉を口にしてくれる日を。
「行こう」
俺はリリアーナの手を引いた。
卒業式の会場へ。そして、決戦の場へ。
大講堂は、人で溢れていた。
卒業生たちが前方の席に座り、その後ろに保護者や来賓の貴族たちが並んでいる。壇上には学園長と教師陣。そして、来賓席の最前列には父王と母后の姿があった。
俺は父王の隣に座った。リリアーナは卒業生の席だ。彼女の姿を目で追うと、背筋を伸ばして座っているのが見えた。
宰相ゲオルクは、来賓席の端にいた。その隣には、セレスティアが座っている。
俺と目が合うと、セレスティアは微笑んだ。だが、その目は笑っていなかった。獲物を狙う獣のような光が、そこにはあった。
そして、宰相派の令嬢たち──マルグリット、カロリーネ、ベアトリス──が、卒業生の席の一角に固まっている。
舞台は整った。
あとは、どちらが先に動くか。
式は滞りなく進んだ。
学園長の挨拶、来賓の祝辞、優等生の表彰。俺は表面上は穏やかに見守りながら、内心では緊張を高めていた。
いつ来る。いつ仕掛けてくる。
そして、その時が来た。
「それでは、卒業生代表の挨拶を──」
学園長がそう言いかけた時だった。
「お待ちください」
凛とした声が、講堂に響いた。
セレスティアだった。
彼女は立ち上がり、壇上に向かって歩き始めた。白いドレスに銀の十字架。聖女の正装。その姿は、光に包まれているかのように神々しかった。
「聖女殿? 何事ですか」
学園長が困惑の声を上げる。
「卒業式の前に、どうしても申し上げなければならないことがあるのです」
セレスティアが壇上に立った。その瞳には、涙が光っていた。
「私は……ずっと我慢してきました。でも、もう黙っていられないのです」
会場がざわめく。
「何を言っているのだ、聖女殿」
父王が眉を顰めた。
「陛下、お許しください。私は告発をいたします」
セレスティアの声が、講堂に響き渡った。
「この場にいる卒業生の一人が、聖女である私を侮辱し、呪いをかけようとしました」
悲鳴のような囁きが広がった。
「誰だ」
「それは……」
セレスティアが、リリアーナを指差した。
「リリアーナ・ベルモンド嬢です」
会場が、騒然となった。
「リリアーナ様が?」
「聖女様を侮辱?」
「まさか……」
リリアーナは、蒼白な顔で立ち尽くしていた。周囲の視線が、一斉に彼女に集中している。
「証人がおります」
セレスティアが手を挙げると、三人の令嬢が立ち上がった。
マルグリット、カロリーネ、ベアトリス。
「私たちは、見ました」
マルグリットが前に出た。その声は震えていたが、台詞を暗記したかのように淀みなく続けた。
「先月の二十三日、学園の中庭で、リリアーナ様が聖女様に向かって『偽善者』『民を騙している』と罵倒していたのを」
「私も聞きました」
カロリーネが続く。
「さらに『呪ってやる』と、聖女様に向かって手をかざしていました」
「私も目撃しました」
ベアトリスも同調する。
「三人の証言が一致しております」
「これは重大な罪です。聖女への冒涜は、教会法でも王国法でも厳しく罰せられます」
会場の空気が、一変した。
非難の視線が、リリアーナに向けられる。囁き声が、毒のように広がっていく。
「やはり悪役令嬢だったのね……」
「聖女様を呪おうとしたなんて……」
「断罪されるべきだわ……」
リリアーナは、唇を噛みしめていた。反論しようにも、声が出ないようだった。
「陛下」
宰相ゲオルクが立ち上がった。
「三名の証人が一致した証言をしております。これは看過できない事態です。リリアーナ・ベルモンド嬢の断罪を求めます」
会場がどよめいた。
断罪。その言葉が、重く響く。
父王が眉を顰めた。
「王太子、お前はどう思う」
全員の視線が、俺に集まった。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
「その証言には、矛盾がある」
俺の声が、静まり返った講堂に響いた。
「矛盾……?」
セレスティアの顔が、僅かに強張った。
「証人は、先月の二十三日と言ったな」
俺はマルグリットを見た。
「はい……」
「場所は、学園の中庭」
「はい……」
「時刻は?」
「じ、時刻……?」
マルグリットが言葉に詰まった。
「証言するなら、正確に答えろ。何刻ごろだ」
「……午後の、三刻ごろ……だったと、思います」
「三刻。なるほど」
俺は、懐から一枚の紙を取り出した。
「これは、先月二十三日の王宮の公式記録だ」
会場がざわめく。
「午後二刻から四刻まで、リリアーナ・ベルモンドは王宮の謁見の間にいた。ベルモンド公爵の名代として、父上への報告に同席していたからだ」
リリアーナの父、ベルモンド公爵が頷いた。
「その通りです。娘は終日、私と共に王宮におりました」
「つまり」
俺はマルグリットを見据えた。
「証人が主張する時刻、リリアーナは学園にいなかった。中庭で聖女を罵倒することは、物理的に不可能だ」
マルグリットの顔が、蒼白になった。
「そ、それは……日付を間違えたかも……」
「では、いつだ。正確な日付を言え」
「わ、わかりません……」
「証言を撤回するか?」
マルグリットが、助けを求めるようにセレスティアを見た。
だが、セレスティアも動揺を隠せていなかった。
「待ってください。日付は間違いかもしれませんが、証言の内容は……」
「日付も時刻も曖昧な証言を、誰が信じる?」
俺は一歩前に出た。
「さらに言えば、三人の証言は不自然なほど一致している。まるで、同じ台本を読んでいるかのようにな」
会場がざわめいた。
「殿下、何を仰りたいのですか」
ゲオルクが前に出た。その声には、焦りが滲んでいた。
「証言は真実です。聖女殿を貶めようとする試みは──」
「宰相殿」
俺はゲオルクを遮った。
「この断罪劇の筋書きを書いたのは、あなただな」
講堂が、凍りついた。
「何を……馬鹿なことを……」
ゲオルクの顔に、動揺が走った。
「アルベルト」
俺が呼ぶと、兄上が立ち上がった。その手には、一束の文書が握られていた。
「これは、宰相邸の書斎から発見された文書だ」
兄上が、文書を掲げた。
「『断罪の筋書き』と題されている。証人三名による証言の内容、聖女が慈悲を示す演出、そして断罪によりリリアーナ嬢を排除する計画が、詳細に書かれている」
会場が騒然となった。
「さらに」
兄上が続けた。
「『密約書』もある。宰相が聖女を王太子妃にした後、王家の実権を掌握し、最終的にヴァイザー家による摂政体制を確立する計画だ」
「でたらめだ!」
ゲオルクが叫んだ。
「そのような文書は偽造だ! 私を陥れようとする陰謀だ!」
「偽造?」
俺は冷たく笑った。
「この文書には、宰相殿の署名と印がある。筆跡鑑定をすれば、すぐにわかることだ」
ゲオルクの顔が、土気色になった。
「陛下」
俺は父王に向き直った。
「この断罪劇は、宰相による陰謀です。リリアーナ・ベルモンドは無実です。彼女を断罪する理由は、どこにもありません」
会場が静まり返った。
全員の視線が、宰相に向けられている。
先ほどまでリリアーナに向けられていた非難の目が、今は完全にゲオルクに向いていた。
「嘘です!」
甲高い声が響いた。
セレスティアだった。
「全て王太子の捏造です! 私を陥れようとしているのです!」
彼女は壇上で叫んでいた。涙を流し、髪を振り乱して。
だが、会場の誰も、その言葉を信じていなかった。
「聖女殿」
俺は静かに言った。
「証人の証言が虚偽であることは、すでに明らかになった。あなたがそれを知らなかったとは言わせない」
「私は……私は聖女です! 女神に選ばれた者です! このような扱いを受ける謂れはありません!」
「聖女の地位は、信仰に基づくものだ。虚偽と陰謀に加担した者に、聖女を名乗る資格があるのか?」
セレスティアの顔が、歪んだ。
憎悪。純粋な憎悪が、その目に燃えていた。
だが、もう遅い。
会場の空気は、完全に変わっていた。
「宰相」
父王が、厳かな声を発した。
「説明を求める」
ゲオルクは、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
言葉が出ないようだった。
断罪の危機は、去った。
式は中断され、会場は騒然としていた。宰相は衛兵に囲まれ、セレスティアも取り押さえられている。
俺は、リリアーナの元に向かった。
彼女は、卒業生の席で立ち尽くしていた。周囲の令嬢たちは、彼女から距離を取っている。だが、その目にはもう非難の色はなかった。困惑と、ばつの悪さが滲んでいる。
「リリアーナ」
俺が声をかけると、彼女が振り返った。
その翡翠の瞳には、涙が溜まっていた。
「殿下……」
声が、震えていた。
彼女が、俺の袖を掴んだ。
「殿下……」
「大丈夫だ」
俺は、彼女の手を取った。
「約束しただろう。君を一人にしないと」
リリアーナの涙が、頬を伝った。
「私……私、怖かったです……」
「ああ。わかっている」
「でも、殿下が……殿下が守ってくださって……」
「当然だ。君は俺の婚約者だ」
俺は、彼女の涙を指で拭った。
「もう、大丈夫だ」
リリアーナが、俺の胸に顔を埋めた。
小さな嗚咽が、俺の胸に染み込んでいく。
俺は、そっと彼女の背中に手を回した。
六年間、待ち続けた。彼女がこうして俺に身を委ねてくれる日を。
今日、ようやく。




