第7話 兄上の覚悟
宰相主催の夜会。
それは、社交界でも最も格式の高い催しの一つだった。王宮に次ぐ規模を誇る宰相邸の大広間には、王国中の有力貴族が集まる。
俺は馬車の中で、隣に座るリリアーナを見た。
「緊張しているか?」
「……少し」
彼女は淡い金のドレスを纏っていた。胸元には、母親から受け継いだというエメラルドのネックレスが揺れている。
「今夜は、俺の傍にいてくれ」
「え……?」
「君を一人にしない。そう約束しただろう」
リリアーナの頬が、僅かに赤く染まった。
「ですが、宰相様の夜会で殿下と一緒にいれば……」
「宰相に何を見せつけようと、俺の勝手だ」
俺は窓の外を見た。宰相邸の明かりが近づいてくる。
「それに、君が傍にいてくれた方が、俺も心強い」
「殿下が……?」
「ああ。俺だって、緊張くらいする」
リリアーナが、小さく笑った。
それは、俺が初めて見る彼女の笑顔だった。ぎこちなく、すぐに消えてしまったが、確かに笑った。
「……わかりました」
彼女が頷いた。
「今夜は、殿下のお傍に」
馬車が、宰相邸の正門で止まった。
大広間は、華やかな光に満ちていた。
シャンデリアが煌めき、貴族たちの宝石が光を反射する。楽団の奏でる音楽が、空間を満たしていた。
俺がリリアーナを伴って入場すると、広間が静まり返った。
「王太子殿下のお成りです」
従者の声が響く。
貴族たちが一斉に頭を下げる。その視線が、俺とリリアーナに集中しているのがわかった。
「殿下、ようこそおいでくださいました」
宰相ゲオルクが、愛想笑いを浮かべて近づいてきた。だが、その目は笑っていない。俺がリリアーナを連れてきたことに、明らかに動揺している。
「宰相殿。招待に感謝する」
「いえいえ、殿下にお越しいただけるとは光栄の至り……」
ゲオルクの視線が、リリアーナに移った。
「ベルモンド公爵令嬢も、ご一緒でしたか」
「俺の婚約者だ。一緒に来るのは当然だろう」
俺は、リリアーナの手を取った。
彼女の指が、僅かに震えている。だが、俺の手を握り返してきた。
「皆に紹介させてくれ」
俺は声を張った。広間中に響くように。
「俺の婚約者、リリアーナ・エルトリア・ベルモンドだ。いずれ、この国の王太子妃となる女性だ」
広間がざわめいた。
貴族たちが囁き合い、視線を交わす。宰相派の者たちは、明らかに困惑していた。
ゲオルクの顔が、一瞬だけ歪んだ。
「これは……殿下、突然のご紹介、驚きました」
「驚くことか? 俺の婚約者は、十二年前から決まっている」
俺はゲオルクの目をまっすぐに見た。
「誰も、それを忘れてはいないだろうな?」
ゲオルクが言葉に詰まった。
その背後で、セレスティアが立ち尽くしているのが見えた。白いドレスに銀の十字架。聖女の正装。だが、その顔からは作り笑いすら消えていた。
俺は、内心で満足した。
これでいい。宰相とセレスティアの注意は、完全に俺とリリアーナに向いている。
兄上。今のうちに頼む。
夜会が進む中、俺は宰相との会話を意図的に長引かせた。
「先日の東部の魔物被害、対応は順調ですか」
「ええ、聖女殿のお力もあり、被害は最小限に……」
「復興の予算は足りているのですか。財務の報告では、やや不足があると聞いたが」
「それは……細かい数字は把握しておりませんが……」
「宰相ともあろう方が、細かい数字を把握していないとは」
俺は次々と質問を投げかけた。
ゲオルクは答えに窮しながらも、王太子の相手を無視するわけにはいかない。彼の意識は完全に俺に釘付けになっていた。
視界の端で、アルベルト兄上が広間を抜け出すのが見えた。
頼んだぞ、兄上。
しばらくして、楽団が新しい曲を奏で始めた。
ワルツだ。
俺は宰相との会話を切り上げ、リリアーナの元に戻った。
「踊ってくれるか」
「え……?」
「君と踊りたい」
リリアーナの目が、大きく見開かれた。
「ですが、私は……そんな、皆の前で……」
「俺の婚約者が、俺と踊ることの何がおかしい?」
俺は手を差し出した。
「一曲だけでいい。頼む」
リリアーナは、しばらく俺の手を見つめていた。
そして、ゆっくりとその手を取った。
「……一曲だけ、です」
俺は彼女を広間の中央へと導いた。
周囲の貴族たちが、道を開ける。囁き声が飛び交うが、俺は気にしなかった。
俺たちは、踊り始めた。
リリアーナの手は、まだ少し震えていた。
だが、その足取りは正確だった。貴族令嬢として、幼い頃から叩き込まれた作法。彼女は完璧にステップを踏んでいる。
「上手いな」
「……ダンスは、得意な方です」
「知っている。学園時代、君のダンスは評判だったと聞いた」
リリアーナが、僅かに目を見開いた。
「覚えていらっしゃるのですか」
「君のことは、何でも覚えている」
彼女の頬が、赤く染まっていく。
俺は、彼女の耳元に囁いた。
「君は美しい」
リリアーナの動きが、一瞬だけ乱れた。
だが、すぐに立て直す。その顔は真っ赤だったが、目を逸らさなかった。
「……ありがとう、ございます」
小さな声。だが、はっきりと聞こえた。
俺は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
六年間、待ち続けた。彼女が俺を見てくれる日を。俺の言葉を受け止めてくれる日を。
今夜、彼女は俺の手を取ってくれた。俺の言葉に、答えてくれた。
それだけで、十分だった。
曲が終わり、俺たちは踊りを終えた。
周囲から拍手が起こる。社交辞令かもしれないが、悪い雰囲気ではない。
「お見事でした、殿下」
「リリアーナ様も、お美しかったですわ」
貴族たちが声をかけてくる。宰相派ではない者たちだ。彼らの目には、好意的な光があった。
俺とリリアーナが並んで立つ姿を見て、婚約者としての関係を改めて認識したのだろう。
これも、狙い通りだ。
「殿下」
ヴェルナーが、静かに近づいてきた。
「アルベルト殿下から、お言伝です」
俺は耳を傾けた。ヴェルナーが、小さな声で囁く。
「『成功した』とのことです」
俺は表情を変えなかった。
だが、内心では安堵が広がっていた。
兄上、よくやってくれた。
夜会が終わり、俺はリリアーナを馬車まで送った。
「今夜は、ありがとう」
「いえ……私こそ、殿下のお陰で……」
リリアーナが言葉を切った。何かを言おうとして、躊躇っているようだった。
「何だ?」
「……今夜、殿下と踊れて……」
彼女が顔を伏せた。
「嬉しかった、です」
俺の心臓が、大きく跳ねた。
「リリアーナ……」
「それだけです。おやすみなさいませ、殿下」
彼女は素早く馬車に乗り込み、扉を閉めた。
俺は、遠ざかる馬車をしばらく見送っていた。
胸の奥が、温かかった。
深夜。
俺は兄上の私室で、密約書を手にしていた。
「これが……宰相の計画か」
紙には、恐るべき内容が記されていた。
『聖女セレスティアを王太子妃とし、王家との結びつきを強化する。その後、聖女の権威を利用して政務の実権を宰相府に移行。最終的に、ヴァイザー家による摂政体制を確立する』
「王家を傀儡にするつもりだったのか」
「ああ。そして、これを見ろ」
兄上が、別の紙を差し出した。
『断罪の筋書き』と題されたその文書には、卒業式での計画が詳細に書かれていた。
『証人三名による証言。リリアーナ・ベルモンドが聖女を罵倒し、呪いをかけようとしたと主張。証言の後、聖女が「許します」と慈悲を示すことで、民衆の支持をさらに高める。断罪により王太子妃候補からリリアーナを排除し、聖女を後任として推挙する』
俺の手が、震えていた。
怒りのためだ。
「ここまで周到に……」
「だが、これで証拠は揃った」
兄上が俺の肩を掴んだ。
「卒業式で、この文書を突きつければいい。宰相の計画は、全て白日の下に晒される」
「……ああ」
俺は深く息を吐いた。
「兄上、ありがとうございます」
「礼を言うな。俺は自分の役目を果たしただけだ」
兄上が笑った。
「さあ、作戦を立てよう。卒業式まで、あと五日だ」
俺は頷いた。
リリアーナを守る。その決意が、さらに強くなった。
宰相の企みは、必ず阻止してみせる。




