第5話 手料理の約束
夜の帳が降りた王宮で、俺は兄上の私室にいた。
「証拠の捏造だと?」
「ああ。影の目が掴んだ情報だ」
アルベルト兄上が、険しい顔で頷いた。
「宰相は、リリアーナ嬢が『聖女への冒涜』を行った証拠を作ろうとしているらしい」
「具体的には?」
「まだ詳細は不明だ。だが、複数の証人を用意しているという話がある」
俺は拳を握りしめた。
証人。つまり、リリアーナが聖女を侮辱したと偽証する者たちだ。宰相派の貴族令嬢か、あるいは金で雇われた者か。
「卒業式の断罪で、その証言を使うつもりか」
「おそらくな。複数の証人が同じ内容を証言すれば、否定するのは難しくなる」
兄上が窓辺に歩み寄った。
「厄介なのは、聖女の立場だ。聖女への冒涜は、教会法でも重罪とされている。王家といえども、軽々に否定できない」
「だから聖女を使っているのか」
「ああ。宰相は周到だ。王家が介入しにくい形で、断罪を成立させようとしている」
俺は黙り込んだ。
原作の断罪では、俺自身がリリアーナを糾弾した。だが今回は違う。宰相は俺を動かせないと悟り、別の方法を選んだのだ。
「証人が誰か、特定できるか?」
「影の目に調べさせている。だが、時間がかかる」
「卒業式まで、あと十日だ」
「わかっている」
兄上が振り返った。
「ユリウス。お前にできることは、リリアーナ嬢の傍にいることだ。孤立させるな。味方がいると、周囲に示し続けろ」
「……ああ」
俺は頷いた。
傍にいる。それは、六年間ずっと望んできたことだ。
だが彼女は、俺を受け入れてくれるだろうか。
翌日。
俺はリリアーナに、私的な茶会への招待状を送った。
場所は王宮の離れにある東屋。人目につかず、静かに話ができる場所だ。
正直、断られることも覚悟していた。だが、彼女からの返答は「謹んでお受けいたします」だった。
その文面を見た時、俺は自分でも驚くほど安堵した。
約束の刻限。
東屋には、春の陽光が柔らかく差し込んでいた。
白いテーブルクロスの上に、紅茶のセットと小さな焼き菓子が並んでいる。リリアーナが好むカモミールティーも用意させた。
「殿下」
侍従のヴェルナーが近づいてきた。
「リリアーナ様がお見えです」
「通せ。そして、誰も近づけるな」
「かしこまりました」
ヴェルナーが下がり、しばらくして庭園の小道からリリアーナが姿を現した。
淡い青のドレスに、白いショールを羽織っている。陽光に照らされた金髪が、きらきらと輝いていた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
彼女が深く礼をする。
「堅苦しい挨拶はいい。座ってくれ」
俺は向かいの椅子を引いた。
リリアーナが座る。その背筋は伸び、手は膝の上できちんと重ねられている。緊張しているのが、見て取れた。
「今日は、公務の話ではない」
俺は紅茶を注ぎながら言った。
「堅苦しい話はなしだ。ただ、君と話がしたかった」
「私と、ですか」
「ああ」
カップを彼女の前に置く。カモミールの香りが、ふわりと漂った。
「これは……」
「君が好きだと聞いた。口に合えばいいが」
リリアーナが、カップを両手で包んだ。その指が、微かに震えている。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。だが、いつもの警戒の色は薄れている気がした。
「最近、何か変わったことはあるか?」
俺は焼き菓子を一つ取りながら訊ねた。
「学園で、困っていることとか」
リリアーナの表情が、一瞬だけ翳った。
「……特には」
「嘘だな」
彼女が顔を上げた。
「噂のことは知っている。聖女の悪口を言ったという、根も葉もない話だ」
「殿下……」
「学園長には釘を刺しておいた。だが、完全には止められていないだろう」
リリアーナが目を伏せた。
「……ご迷惑を、おかけしています」
「迷惑?」
「私のために、殿下が動いてくださっていること。感謝しております。ですが、殿下のお立場を考えれば……」
「俺の立場など、どうでもいい」
リリアーナが、驚いたように俺を見た。
「君が傷つくことの方が、よほど問題だ」
沈黙が流れた。
春風が吹き抜け、テーブルの上の花が揺れる。遠くで小鳥が鳴いていた。
「……殿下は」
リリアーナが、小さく口を開いた。
「本当に、変わられたのですね」
「そう見えるか?」
「はい」
彼女が、カップに視線を落とした。
「六年前の殿下は、私の顔を見ようともなさいませんでした。話しかけても、返事すらいただけないことも多かった」
胸が軋んだ。
「今の殿下は、違います。私を見てくださる。話を聞いてくださる。それが……正直、まだ戸惑うのです」
「戸惑う?」
「どう受け止めればいいのか、わからないのです」
リリアーナの声は静かだった。だが、そこには確かな感情が込められていた。
「六年間、殿下を恨んでいました。いいえ、恨もうとしていました。そうしなければ、自分を保てなかったから」
俺は黙って聞いていた。
「でも、最近……」
彼女が言葉を切った。カップを置き、深く息を吐く。
「……すみません。つまらない話を」
「つまらなくない」
俺は身を乗り出した。
「君の話を聞きたい。君が何を思っているのか、知りたい」
リリアーナの翡翠の瞳が、俺を見た。
その目に、警戒ではない何かが浮かんでいる。困惑と、かすかな期待。そして、まだ名前のつけられない感情。
その時だった。
視界の端で、動きがあった。
庭園の小道に、白い姿が見える。セレスティアだ。侍女を伴い、東屋に向かって歩いてきていた。
だが、すぐに足を止めた。
小道の入り口で、ヴェルナーが丁重に頭を下げている。何か言葉を交わしているようだが、この距離では聞こえない。
セレスティアの顔が歪むのが見えた。何度か言い募っているようだったが、ヴェルナーは微動だにしない。
やがて、セレスティアは踵を返した。その背中には、明らかな苛立ちが滲んでいた。
「……あれは」
リリアーナが、その様子を見ていた。
「聖女殿だな。どうやら、この茶会に割り込もうとしていたらしい」
「殿下が、止めさせたのですか?」
「誰も通すなと命じておいた」
リリアーナが、俺を見た。
「今日は、君と二人で話したかった。邪魔は入れたくなかった」
彼女の頬が、僅かに紅潮した。
俺は、その変化を見逃さなかった。
「そういえば」
俺は話題を変えた。
「図書室で、料理の本を読んでいたな」
「あ……あれは……」
リリアーナが慌てたように視線を逸らす。
「今でも、料理をするのか?」
「いいえ。もう、長いこと……」
彼女の声が沈んだ。
「十四歳の時以来、厨房には入っていません」
あの日以来。俺が彼女の料理を突き返した、あの日以来。
「そうか」
俺は静かに言った。
「もったいないな」
「え?」
「君に料理の才能があるのは、知っている。あの時の菓子も、見た目は綺麗だった」
リリアーナが目を見開いた。
「覚えて……いらっしゃるのですか。見た目まで」
「ああ。小さな焼き菓子だった。形が少し不揃いで、でも丁寧に作られているのがわかった」
俺は彼女の目を見た。
「食べなかったことを、ずっと後悔している」
沈黙が落ちた。
リリアーナの瞳が、揺れている。
「……いつか」
彼女が、小さく呟いた。
「また、作ってみたいと……思うことは、あります」
「本当か?」
「はい。でも、誰に食べてもらうわけでもないので……意味がないと、思っていました」
俺は、テーブル越しに手を伸ばした。
彼女の手には触れない。ただ、その近くに置いた。
「その時は、俺に食べさせてくれ」
リリアーナの動きが止まった。
「殿下……?」
「君の作った料理を、食べたい。ずっと、そう思っていた」
俺は真剣に告げた。
「十四歳の時、俺は間違いを犯した。君の気持ちを踏みにじった。だから今度こそ、君の料理を食べたい。君が作ってくれるものを、受け取りたい」
リリアーナの頬が、赤く染まっていた。
俺は初めて、彼女のその表情を見た。恥じらいと、困惑と、そしてどこか嬉しそうな。
「……約束、ですか」
彼女の声が、掠れていた。
「ああ。約束だ」
リリアーナは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
初めて、彼女の方から俺の目を見た。
「……わかりました」
小さく、だが確かに頷いた。
「いつか、お作りします」
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
六年間、待ち続けた。彼女が俺を見てくれる日を。俺の言葉を受け入れてくれる日を。
それが、今、ほんの少しだけ近づいた気がした。
茶会が終わり、リリアーナは東屋を後にした。
俺はしばらくその場に残り、彼女が去っていく姿を見送った。
その後ろ姿は、いつもより少しだけ軽やかに見えた。
「殿下」
ヴェルナーが近づいてきた。
「アルベルト殿下からの伝言です」
「何だ?」
「『宰相が学園長と密会していた。詳細は今夜話す』とのことです」
俺の表情が引き締まった。
宰相と学園長。断罪の舞台を整えるための打ち合わせか。
「わかった」
俺は立ち上がった。
リリアーナとの穏やかな時間は終わった。これからは、戦いの時間だ。
彼女を守るために。彼女との約束を果たすために。
俺は、王宮へと歩き出した。




