第4話 俺は関与しない、という嘘
宰相執務室は、王宮の東棟にある。
重厚な扉を開けると、窓から差し込む光の中にゲオルク・フォン・ヴァイザーが座っていた。白髪交じりの髪、鋭い灰色の目。五十八年の人生で積み上げた権力が、その背後に見えるようだった。
「お呼び立てして申し訳ありません、殿下」
ゲオルクが立ち上がり、礼をする。
「構わない。用件は?」
俺は勧められた椅子に座らず、立ったまま問うた。この男の前で寛ぐつもりはない。
「単刀直入に申し上げます」
ゲオルクの目が、俺を射抜いた。
「殿下は、聖女殿に冷たすぎるのではありませんか」
「冷たい?」
「先日の廊下での一件。聖女殿は深く傷ついておられます」
俺は表情を変えなかった。
セレスティアの涙の芝居。あれを「傷ついた」と表現するとは、よく言う。
「聖女殿の勘違いだったと、本人が認めた。それ以上、何を言えと?」
「たとえ勘違いであっても、もう少し穏便な対応があったのでは。聖女殿は民の信仰を集めるお方。あのように公衆の面前で恥をかかせては……」
「宰相殿」
俺は一歩前に出た。
「俺には婚約者がいる。婚約者以外の女性に過度に親しくすることは、王太子として不適切だ。違うか?」
ゲオルクの目が、僅かに細まった。
「それは……正論でございますが……」
「それに」
俺は言葉を続けた。
「宰相殿こそ、聖女殿との頻繁な面会は誤解を招くのでは?」
空気が、凍りついた。
「……何を仰いますか」
「聖女殿が宰相邸を訪れる頻度が増えていると聞いた。政務の相談か? それとも、別の用件か?」
ゲオルクの顔が、一瞬だけ強張った。
「聖女殿の活動について助言を求められることはあります。それだけのことです」
「そうか。ならばいい」
俺は踵を返した。
「用件はそれだけか? 俺は忙しい」
「……殿下」
背後から、ゲオルクの声が追いかけてきた。
「老婆心ながら申し上げます。聖女殿を敵に回すのは、賢明ではありませんぞ」
俺は振り返らなかった。
「忠告、感謝する」
扉を閉める直前、ゲオルクの目を見た。
そこには、明確な敵意があった。
執務室に戻ると、ヴェルナーが待っていた。
「殿下、エミリア・ストーン嬢からの報告です」
「エミリアから?」
リリアーナの侍女だ。彼女とは、半年前から密かに連絡を取り合っている。リリアーナを守るために、情報が必要だったからだ。
「学園で、リリアーナ様に関する噂が広まっているそうです」
「噂?」
「『リリアーナ様が聖女様の悪口を言っている』と。根も葉もない噂ですが、広まる速度が異常に速いと」
俺は拳を握りしめた。
宰相派の仕業だ。断罪の下準備として、リリアーナの評判を落とそうとしている。
「リリアーナは?」
「孤立し始めているそうです。以前は親しかった令嬢たちも、距離を置くようになったと」
胸が軋んだ。
六年前の記憶が蘇る。原作のユリウスは、こうしてリリアーナを追い詰めていった。周囲から孤立させ、味方のいない状況で断罪した。
同じことが、今また起きようとしている。
「学園の視察を行う」
俺は立ち上がった。
「手配しろ」
「視察、ですか?」
「ああ。王太子として、学園の様子を確認するのは当然だろう」
ヴェルナーが頷き、部屋を出ていった。
俺は窓の外を見た。
関与しない、と決めていた。リリアーナの学園生活に、直接介入するのは避けるべきだと。彼女の自立を妨げることになりかねないから。
だが、そんな悠長なことは言っていられない。
彼女が傷つくのを、黙って見ていることなどできない。
翌日。
俺は王立グランツェル学園を訪れた。
校門をくぐると、生徒たちがざわめき始める。王太子の視察は珍しいことではないが、それでも注目を集めるのは避けられない。
学園長が慌てて出迎えに来た。
「殿下、ようこそおいでくださいました! 事前にご連絡いただければ、もっと準備を……」
「抜き打ちでなければ、本当の姿は見えない」
俺は学園長を遮った。
「案内は不要だ。一人で見て回る」
「しかし……」
「何か、見られては困ることでも?」
学園長が口をつぐんだ。
俺は一人で校舎に入り、廊下を歩いた。
生徒たちが道を開け、頭を下げる。その囁き声が、耳に入ってきた。
「殿下がいらしたわ……」
「視察って、何を見にいらしたのかしら……」
「もしかして、リリアーナ様のこと……?」
リリアーナの名前を聞いて、俺は足を速めた。
彼女がよく使う場所は知っている。図書室の奥、窓際の席。そこで一人、本を読んでいることが多いと、エミリアから聞いていた。
図書室の扉を開けた。
薄暗い室内に、埃っぽい紙の匂いが漂っている。書架の間を抜け、奥へと進んだ。
そして、見つけた。
窓際の席に、リリアーナが座っていた。
陽光が彼女の金髪を照らし、翡翠の瞳が本に落とされている。周囲には誰もいない。一人きりだ。
「リリアーナ」
声をかけると、彼女が顔を上げた。
「殿、下……?」
驚きに目を見開いている。
「なぜ、ここに……」
「視察だ。学園の様子を見に来た」
俺は彼女の向かいの椅子を引いた。
「座っても?」
「あ……はい……」
リリアーナが慌てて姿勢を正す。その手元の本が、ちらりと見えた。
料理の本だった。
胸を、何かが締めつけた。
「……その本」
「え?」
「料理の本か」
リリアーナが、本を胸に抱え込んだ。まるで、見られたくないものを隠すように。
「た、ただの暇つぶしです。深い意味はありません」
「そうか」
俺は窓の外を見た。
中庭では、生徒たちが楽しそうに談笑している。だが、この図書室の奥には誰も来ない。リリアーナは、ここで一人で過ごしているのだ。
「昔」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。
「君が作ってくれた料理のことを、覚えている」
リリアーナの動きが、止まった。
「十四歳の時だった。俺の誕生日に、君が厨房で作った菓子を持ってきてくれた」
沈黙が落ちた。
あの日のことは、鮮明に覚えている。リリアーナが緊張した面持ちで差し出した、小さな包み。中には、手作りの焼き菓子が入っていた。
そして俺は──原作のユリウスは、それを受け取りもせずに突き返した。
「毒見もしていないものを食べられるか」
そう言って。
「……覚えて、いらしたのですか」
リリアーナの声が、掠れていた。
「ああ」
俺は彼女を見た。
「あの時、俺は君を傷つけた。取り返しのつかないことをした」
「殿下……」
「言い訳はしない。ただ、覚えている。忘れたことはない」
リリアーナの翡翠の瞳が、揺れていた。
「なぜ」
彼女が、小さく呟いた。
「なぜ殿下は、私を庇うのですか」
「……何?」
「先日の廊下でも、今日も。殿下が私を庇っても、得などないでしょう。聖女様を支持する貴族は多い。私の味方をすれば、殿下の立場が悪くなるだけです」
俺は、彼女の目をまっすぐに見た。
「得など求めていない」
「では、なぜ……」
「君を守りたいからだ。それ以外に理由はない」
リリアーナが、息を呑んだ。
「六年前から、俺は何度も同じことを言ってきた。信じてもらえないのはわかっている。だが、俺の気持ちは変わらない」
窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らしていた。
「君が俺を信じる日が来なくても、俺は君の味方であり続ける。それだけは、約束する」
沈黙が流れた。
図書室の静寂の中で、遠くから生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
リリアーナは何も言わなかった。ただ、膝の上で拳を握りしめていた。
「失礼します」
リリアーナが立ち上がった。
「授業の時間ですので」
「ああ……」
俺も立ち上がろうとした。その時。
「……殿下は」
リリアーナが、背を向けたまま呟いた。
「変わったのですね」
俺は息を止めた。
「リリアーナ……」
振り返ろうとした時には、彼女の姿は書架の影に消えていた。
小さな足音が遠ざかり、図書室の扉が開閉する音が聞こえた。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
変わった、と彼女は言った。
それは、俺を認めてくれたということなのか。それとも、ただ事実を述べただけなのか。
わからない。だが、彼女が俺の変化を口にしたのは、六年間で初めてだった。
胸の奥で、小さな灯が点った気がした。
学園を出る前に、俺は学園長室を訪れた。
「殿下、視察はいかがでしたか」
学園長が愛想笑いを浮かべる。
「一つ、伝えておくことがある」
俺は学園長の目を見た。
「根拠のない噂で、生徒の名誉を傷つけることがないようにしてもらいたい」
学園長の顔が、僅かに引きつった。
「は、はあ……何か、問題でも……」
「特定の生徒に関する中傷が広まっていると聞いた。学園として、そのような行為を放置するのは問題だ」
「も、もちろんでございます。すぐに調査を……」
「頼んだ」
俺は踵を返した。
「王家は、学園の教育を信頼している。その信頼を裏切らないでもらいたい」
扉を閉める直前、学園長が青ざめた顔で頷くのが見えた。
これで少しは、噂の広がりを抑えられるだろう。根本的な解決にはならないが、時間は稼げる。
卒業式まで、あと二週間と少し。
その間に、宰相の企みを暴かなければならない。
王宮に戻ると、ヴェルナーが駆け寄ってきた。
「殿下、アルベルト殿下から伝言です」
「兄上から?」
「『影の目が、新しい動きを掴んだ。今夜、来い』とのことです」
俺は頷いた。
宰相は動いている。こちらも、手を打たなければならない。
だが、頭の片隅には、リリアーナの言葉が残っていた。
『殿下は、変わったのですね』
その言葉を、俺は何度も反芻していた。




