第3話 聖女の涙という名の罠
夜の王宮は、昼間とは別の顔を見せる。
松明の灯りが廊下を照らし、影が長く伸びていた。俺は人目を避けながら、兄上の私室へと向かった。
扉を三度叩く。決められた合図だ。
「入れ」
部屋の中は薄暗かった。蝋燭が一本だけ灯され、その光の中にアルベルト兄上が座っている。
「待っていた」
「影の目が何か掴んだと聞きました」
俺は兄上の向かいに腰を下ろした。
「ああ。宰相邸の書斎に、定期的に密書が届いているらしい」
「密書?」
「差出人は不明だ。だが、受け取った後にゲオルクが必ず聖女と面会している」
俺は眉を顰めた。
宰相と聖女の繋がりは以前から疑っていた。だが、密書となると話が変わる。
「内容は?」
「まだわからん。書斎への侵入は危険すぎる。だが、影の目は引き続き監視を続けている」
兄上が蝋燭の炎を見つめた。
「ユリウス。宰相は何かを企んでいる。それも、かなり大掛かりなことを」
「……わかっています」
俺は拳を握りしめた。
六年間、宰相の動きを見てきた。彼は慎重で、狡猾で、決して尻尾を掴ませない。だが最近、その動きが活発になっている。
聖女を王太子妃にしようという動き。
それは単なる権力欲だけではない、何か別の目的がある。
「焦るなよ」
兄上が俺の肩に手を置いた。
「証拠もなしに動けば、こちらが不利になる。宰相はそれを待っているかもしれん」
「ええ。わかっています」
「今は、リリアーナ嬢を守ることに集中しろ。宰相が何を企んでいるにせよ、標的は彼女だ」
俺は頷いた。
それだけは、絶対に阻止する。
翌日の昼。
俺は執務を終え、廊下を歩いていた。午前中は王妃主催の茶会があり、リリアーナも出席していた。俺も形式上、顔を出した。
彼女は相変わらず、俺と目を合わせようとしなかった。だが、昨日のように露骨に避けることもなかった。
小さな変化だ。それでも、俺には意味がある。
「殿下」
背後から、澄んだ声がかかった。
振り返ると、セレスティアが立っていた。白いドレスに銀の十字架。聖女の正装だ。
「セレスティア殿。何か用か?」
「少し、お話があるのです」
彼女が一歩近づいた。その目に、微かな潤みがある。
「ここでは人目がありますので……」
「構わない。ここで話せ」
俺は動かなかった。
セレスティアと二人きりになるつもりはない。それがどんな噂を生むか、彼女自身がよく知っているはずだ。
「……そうですか」
セレスティアの表情が、僅かに歪んだ。だがすぐに、悲しげな顔に戻る。
「実は、リリアーナ様のことで……」
「リリアーナがどうした?」
「先ほど、お庭でお会いしたのです。私が挨拶をしましたら……」
セレスティアの目から、涙が零れ落ちた。
「酷いことを、言われました……」
廊下に、彼女の嗚咽が響く。
俺は眉を顰めた。このタイミングで、この場所で、泣き出すのか。
周囲を見ると、何人かの貴族が足を止めていた。こちらを見て、囁き合っている。
「聖女様が泣いている……」
「リリアーナ様に何か言われたと……」
「まさか、婚約者の立場を利用して……」
計算された舞台だ、と俺は理解した。
人通りの多い廊下。昼時で貴族が行き交う時間帯。そして涙という、最も同情を引きやすい武器。
「セレスティア殿」
俺は声を落とした。
「具体的に、リリアーナは何と言ったんだ?」
「それは……」
セレスティアが涙を拭う。その仕草は優雅だったが、目の奥に計算が見えた。
「『聖女の分際で、殿下に近づかないで』と……。私は、ただ殿下のお役に立ちたいだけなのに……」
「いつだ?」
「え?」
「いつ、どこで言われた?」
俺の問いに、セレスティアが一瞬だけ言葉に詰まった。
「さ、先ほどです。お庭の薔薇園で……」
「何刻ごろだ?」
「十一刻……いえ、十刻半ごろでしょうか……」
俺は、静かに息を吐いた。
「それは奇妙だな」
セレスティアの顔から、涙が止まった。
「え……?」
「十刻から十一刻半まで、リリアーナは王妃主催の茶会に出席していた」
周囲の貴族たちが、ざわめき始める。
「俺も同席していたから、間違いない。彼女は茶会の間、一度も席を外していない。終わった後も、俺と入れ違いに退室した」
俺はセレスティアをまっすぐに見た。
「薔薇園で会ったというのは、いつの話だ?」
セレスティアの顔が、蒼白になった。
「そ、それは……私の記憶違いかもしれません……」
「記憶違いで、人を中傷するのか?」
「中傷などと! 私はただ……」
「聖女殿」
俺は一歩近づいた。声は低く、だが周囲に聞こえるように。
「俺の婚約者を根拠なく貶めるような発言は、今後控えてもらいたい。聖女としての品位にも関わることだ」
セレスティアの目に、一瞬だけ憎悪が閃いた。
だがすぐに、彼女は目を伏せた。
「……申し訳ございません。私の勘違いだったようです」
「ならばいい」
俺は周囲の貴族たちを見回した。
「諸君も聞いたな。この件は、聖女殿の勘違いだ。リリアーナは何も言っていない。いいな?」
貴族たちが、慌てて頷く。
セレスティアは深く頭を下げたまま、逃げるように去っていった。
「殿下」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、リリアーナが立っていた。侍女のエミリアを伴っている。
「何の騒ぎですか? 聖女様が泣いていらしたと聞きましたが……」
彼女の表情は固かった。また自分が何か言われているのではないか、と警戒しているのだろう。
「気にしなくていい」
俺は彼女に近づいた。
「君は何も悪くない。何も言わなくていい」
「ですが……」
「聖女殿の勘違いだったそうだ。それで終わった話だ」
リリアーナが俺を見上げた。
その翡翠の瞳に、戸惑いと、微かな安堵が混じっている。
俺は声を落とした。周囲に聞こえないように。
「信じなくていい。ただ、俺は君の味方だ」
リリアーナの目が、僅かに見開かれた。
「……殿下」
「行こう。ここは人目がある」
俺は彼女を促し、廊下を歩き出した。
リリアーナは何も言わなかった。だが、俺の少し後ろをついてきた。
いつもより、少しだけ近い距離で。
夕刻。
執務室で書類を片付けていると、ヴェルナーが駆け込んできた。
「殿下! アルベルト殿下から緊急の伝言です!」
「兄上から?」
俺は立ち上がった。
「何と?」
「『密書の内容が判明した。すぐに来い』と」
俺は書類を放り出し、部屋を飛び出した。
兄上の私室に着くと、彼は険しい顔で待っていた。
「来たか、ユリウス」
「密書の内容とは?」
「影の目が、宰相の側近から断片的な情報を得た」
兄上が、一枚の紙を差し出した。
「宰相は、聖女を使って断罪劇を再現しようとしている」
俺は紙に目を走らせた。
そこには、断片的な言葉が書き連ねられていた。
『リリアーナ・ベルモンド』『断罪』『聖女への冒涜』『卒業式』『王太子の婚約破棄』
血の気が引いた。
「これは……」
「学園の卒業式で、聖女への冒涜を理由にリリアーナ嬢を断罪する。そういう筋書きらしい」
兄上の声が、遠くに聞こえた。
卒業式の断罪。
それは、原作で俺がリリアーナにしたことと同じだ。
「させない」
俺は紙を握りしめた。
「絶対に、させない」
「ああ。だが相手は宰相だ。準備は周到にしなければならん」
兄上が俺の肩を掴んだ。
「卒業式まで、あと三週間だ」
三週間。
それが、リリアーナを守るために残された時間だった。




