第2話 信用残高、限りなくマイナス
執務室の窓から、朝の光が差し込んでいた。
俺は書類に目を通しながら、昨夕の光景を頭から追い出せずにいた。藤棚の下で誰かと話していたリリアーナ。あの相手は、一体誰だったのか。
「殿下」
扉が叩かれ、侍従のヴェルナーが入ってきた。
「お呼びの件、調べがつきました」
「ああ」
俺は羽ペンを置いた。
「昨夕、庭園の藤棚付近でリリアーナ様とお話しされていたのは、侍女のエミリア・ストーン嬢でございます」
「……エミリアか」
安堵と、自己嫌悪が同時に込み上げた。
エミリアはリリアーナの幼馴染で、最も信頼する侍女だ。二人が夕刻に庭園で話していても、何もおかしくはない。
俺は何を警戒していたのか。いや、わかっている。六年経っても、俺はまだリリアーナのことを理解しきれていない。だから些細なことで動揺する。
「他に何か?」
「本日午後、中庭のテラスにて令嬢方の茶会が催されます。リリアーナ様もご出席の予定です」
「出席者は?」
「セレスティア様を中心に、宰相派に近い令嬢方が多いかと」
俺は眉を顰めた。
セレスティア・ノーブル。十九歳の聖女。表向きは慈愛に満ちた聖女として民衆の支持を集めているが、その裏では宰相ゲオルクと繋がり、王太子妃の座を狙っている。
そんな場に、リリアーナが一人で出るのか。
「……わかった。下がっていい」
ヴェルナーが退室した後、俺は椅子の背にもたれた。
六年前のことを、思い出す。
記憶が覚醒したあの朝。俺は全てを理解した瞬間、リリアーナの元へ走った。
謝らなければ。今までのことを詫びて、これからは違うと伝えなければ。そう思っていた。
彼女の部屋の前で、俺は膝をついた。廊下で、侍女たちの目がある中で。
「リリアーナ、今までのことを詫びたい。俺は間違っていた」
彼女は俺を見下ろしていた。
その翡翠の瞳に浮かんでいたのは、驚きではなかった。困惑でもなかった。
警戒だった。
「……殿下」
彼女の声は、氷のように冷たかった。
「また何か、企んでいらっしゃるのですか」
言葉が出なかった。
「六年間、私を蔑み、遠ざけ、存在しないもののように扱ってきた方が、突然膝をついて謝罪する。これが罠でなくて何なのでしょう」
「違う、俺は──」
「お戯れはおやめください」
彼女は一歩下がった。その距離が、俺の心を抉った。
「私を愚弄するなら、せめてもう少し巧妙になさってください。これでは侮辱にすらなりません」
そして、扉が閉まった。
あの日から六年。
俺は学んだ。言葉だけでは、信用は回復しない。行動で示し続けるしかない。何年かかっても、何十年かかっても。
だが同時に理解した。
彼女が俺を信じないのは、正しいのだと。
十五年間、傷つけ続けた相手が、ある日突然変わったと言い出す。信じる方がおかしい。彼女の警戒は、彼女自身を守るための正当な防衛だ。
俺にできるのは、待つことだけだ。
彼女が、自分の意思で、俺を見てくれる日を。
午後。
俺は中庭のテラスへ向かった。
本来、令嬢たちの茶会に王太子が顔を出すのは異例だ。だが今日は、行かなければならない理由がある。
テラスに近づくと、華やかな笑い声が聞こえてきた。
「聖女様のお召し物、本当にお美しいですわ」
「先日の治癒の奇跡、私も拝見いたしました。感動で涙が止まりませんでしたの」
令嬢たちがセレスティアを囲んでいる。彼女は淡い金の髪に、清楚な白いドレス。胸元には銀の十字架が揺れている。
そしてその輪の少し外側に、リリアーナが座っていた。
一人で、静かに紅茶を口に運んでいる。
「リリアーナ様」
セレスティアの声が、庭園に響いた。
「婚約者様と頻繁にお会いできて、羨ましいですわ。私など、殿下とお話しする機会もなかなかございませんもの」
周囲の令嬢たちが、くすくすと笑う。
「聖女様ほどのお方が、そのようなことを仰らなくても」
「そうですわ。殿下はきっと、聖女様のことをお気にかけていらっしゃいますわ」
含みのある視線が、リリアーナに向けられる。
リリアーナは表情を変えなかった。ただ、カップを持つ指が僅かに白くなったのを、俺は見逃さなかった。
「そうでしょうか」
リリアーナが静かに答えた。
「私と殿下の婚約は、王命によるものです。頻繁にお会いすると申しましても、公務の場でのことがほとんどですわ」
「あら、そうなのですか?」
セレスティアが小首を傾げる。その仕草は愛らしいが、目は笑っていない。
「では、お二人の仲はあまり……親密ではいらっしゃらないのですね」
「聖女様」
別の令嬢が口を挟んだ。
「そのようなことを仰っては。リリアーナ様がお気の毒ですわ」
笑い声が広がる。気の毒、という言葉に込められた嘲りが、空気を満たした。
俺は、歩き出した。
「随分と賑やかだな」
俺の声に、テラスが静まり返った。
令嬢たちが一斉に立ち上がり、深々と頭を下げる。セレスティアも、驚いた表情で礼をした。
「で、殿下……!」
「突然の訪問を許せ。茶の香りに誘われてな」
俺はリリアーナの隣の椅子を引いた。
「ここ、いいか?」
リリアーナが目を見開く。
「……殿下、こちらは令嬢方の茶会で」
「婚約者と茶を飲むのは、当然だろう」
俺は腰を下ろした。
周囲の令嬢たちが、息を呑むのがわかる。宰相派の令嬢たちは、明らかに動揺していた。セレスティアの顔からは、微笑みが消えている。
「殿下」
セレスティアが、作り笑いを浮かべた。
「まさか殿下がいらっしゃるとは。もっと良いお茶をご用意いたしましたのに」
「構わない。俺は婚約者の隣にいられれば、それでいい」
言葉を選んで、はっきりと告げた。
リリアーナの隣に。婚約者の隣に。
セレスティアの目が、一瞬だけ鋭くなった。だがすぐに、聖女らしい穏やかな表情に戻る。
「そうですか。お二人がご一緒で、微笑ましいですわ」
「ああ」
俺はリリアーナの方を見た。
彼女のカップが空になっている。
何も言わず、俺は自分の前にあるポットを取り、彼女のカップに紅茶を注いだ。
「あ……殿下」
「冷めないうちに飲むといい」
リリアーナが俺を見上げた。
その翡翠の瞳に、戸惑いが浮かんでいる。だが、昨日廊下ですれ違った時のような、完全な壁はなかった。
ほんの少しだけ、彼女の表情が柔らかくなった気がした。
気のせいかもしれない。
だが俺は、その一瞬を見逃さなかった。
茶会は、その後すぐにお開きとなった。
王太子の突然の出席に、令嬢たちは萎縮してしまったらしい。セレスティアも「お疲れでしょうから」と早々に退席を促した。
俺とリリアーナは、テラスに二人きりで残された。
「……殿下」
リリアーナが立ち上がった。
「なぜ、あのようなことをなさったのですか」
「あのようなこと?」
「茶会への介入です。聖女様や令嬢方の前で、わざわざ私の隣に座るなど」
俺も立ち上がった。
「君を守りたかったからだ」
「……守る?」
「ああ。君が不当な扱いを受けているのを、黙って見ていられなかった」
リリアーナの表情が、僅かに歪んだ。
苦しそうな、それでいて怒りを押し殺したような顔だった。
「……六年前から、殿下は同じことを仰います」
彼女の声は静かだった。
「守りたい。大切にしたい。今までのことを詫びたい。何度も、何度も」
「リリアーナ」
「でも私には」
彼女が一歩下がった。
「信じられないのです」
その言葉が、俺の胸を貫いた。
「六年前のあの日から、殿下は変わったと仰います」
リリアーナは俺の目を見ていた。今日初めて、まっすぐに。
「でも私には、まだわからないのです。殿下が本当に変わったのか。それとも、これも何かの企みなのか」
「俺は……」
「お時間を取らせました」
彼女が深く礼をした。
「失礼いたします」
そして、リリアーナは去っていった。
春風が吹き抜けていく。テーブルの上のカップが、からんと音を立てた。
俺が注いだ紅茶は、一口も減っていなかった。
執務室に戻る廊下で、ヴェルナーが駆け寄ってきた。
「殿下、アルベルト殿下からの伝言です」
「兄上から?」
「はい。『影の目が、宰相邸で興味深いものを見つけた。今夜、俺の部屋に来い』とのことです」
俺は足を止めた。
宰相邸で、興味深いもの。
「……わかった。そう伝えてくれ」
ヴェルナーが去った後、俺は窓の外を見た。
夕陽が、王宮の庭園を橙色に染めている。藤棚の下には、誰もいなかった。
信じられない、とリリアーナは言った。
だが彼女は、俺の目を見た。六年前のように、目を逸らさなかった。
それは進歩なのだろうか。
それとも、彼女が俺を見定めようとしているのだろうか。
どちらでもいい、と思った。
彼女が俺を見てくれるなら。
たとえそれが、疑いの目であっても。
俺は、待ち続ける。




