第10話 六年分の答え
朝の光が、王宮の廊下を照らしていた。
俺は厨房の前で、壁に背を預けて待っていた。
扉の向こうから、微かに物音が聞こえる。鍋が触れ合う音。何かを混ぜる音。そして、時折聞こえる小さな鼻歌。
リリアーナが、料理を作っている。
俺のために。
六年前のことを、思い出していた。
記憶が覚醒したあの朝。俺は十五年分の自分の行いを、全て思い出した。
婚約者であるリリアーナを冷遇し続けた日々。彼女の想いを踏みにじり、存在すら無視してきた日々。
そして、十四歳の誕生日。
彼女が緊張した面持ちで差し出した、小さな包み。中には手作りの焼き菓子が入っていた。
婚約者として、少しでも距離を縮めたいという彼女の想い。それを俺は──原作のユリウスは、見向きもせずに突き返した。
「毒見もしていないものを食べられるか」
あの言葉が、彼女をどれほど傷つけたか。
記憶が戻った瞬間、俺は理解した。そして、取り返しのつかないことをしたと悟った。
それから六年。
俺は変わろうとした。彼女に償おうとした。
だが、彼女は俺を信じなかった。当然だ。十五年間傷つけ続けた相手が、突然優しくなったところで、信じろという方が無理がある。
俺にできることは、待つことだけだった。
彼女が俺を見てくれる日を。俺の言葉を受け入れてくれる日を。
何年かかっても、何十年かかっても。
そう覚悟していた。
「お待たせいたしました」
扉が開き、リリアーナが姿を現した。
エプロン姿。髪は後ろで一つに結ばれ、頬には僅かに小麦粉がついている。
その手には、小さな皿が載せられていた。
「これは……」
「焼き菓子です」
リリアーナが、微笑んだ。
「八年前と、同じものを作りました」
皿の上には、小さな焼き菓子が並んでいた。形は少し不揃いで、焼き色にもムラがある。だが、丁寧に作られているのが一目でわかった。
「あの時は、受け取っていただけませんでしたから」
彼女の声が、僅かに震えていた。
「今度こそ、召し上がっていただけますか」
俺は、皿を受け取った。
手が震えそうになるのを、必死で抑えた。
焼き菓子を一つ、手に取った。
小さな、素朴な菓子。王宮の菓子職人が作るものとは比べ物にならない。
だが、これは彼女が作ったものだ。
俺のために、彼女が作ってくれたものだ。
口に運んだ。
サクリと崩れる生地。ほんのりとした甘さ。バターの香り。素朴だが、どこか懐かしい味がした。
「……美味い」
言葉が、自然と口をついて出た。
「本当に?」
「ああ。美味い」
俺は、もう一口食べた。
「こんなに美味いものを、俺は突き返したのか」
「殿下……」
「馬鹿だな、昔の俺は」
リリアーナの目に、涙が浮かんでいた。
「八年間、ずっと……」
「ああ」
「あの時、受け取ってもらえなくて……私、もう二度と作らないと決めたのです」
涙が、彼女の頬を伝った。
「でも、殿下が……ユリウス様が、待っていると言ってくださったから」
「リリアーナ」
「もう一度、作ってみようと思えたのです」
俺は、皿をテーブルに置いた。
そして、彼女を抱きしめた。
「ありがとう」
「私こそ……」
「美味かった。本当に、美味かった」
リリアーナが、俺の胸に顔を埋めた。
小さな嗚咽が漏れる。だが、それは悲しみの涙ではなかった。
「これからも、作ってくれるか」
「はい」
「毎日でも」
リリアーナが、顔を上げた。
涙で濡れた顔で、それでも笑っていた。
「毎日は、大変ですよ」
「構わない。君の料理なら、毎日でも食べたい」
「……では、努力いたします」
俺たちは、互いに微笑んだ。
八年越しの約束が、ようやく果たされた瞬間だった。
その日の午後。
俺は父王に呼び出された。
謁見の間には、母后も同席していた。二人の表情は穏やかだったが、どこか改まった雰囲気があった。
「ユリウス」
父王が、玉座から俺を見下ろした。
「宰相の件、見事だった」
「ありがとうございます」
「アルベルトからも報告を受けた。お前が六年間、リリアーナ嬢を守り続けてきたことも」
俺は、黙って頷いた。
「正直に言おう。私は、お前の婚約について考え直すべきかと思ったこともあった」
「……父上」
「リリアーナ嬢との関係が、あまりにも冷え切っていたからだ。婚約を解消し、別の相手を探した方がよいのではないかと」
母后が、小さく頷いた。
「私も同じ考えでした。あなたたちが不幸になるくらいなら、別の道を探した方がいいと」
「だが」
父王が続けた。
「お前は変わった。六年前から、明らかに変わった。リリアーナ嬢への態度も、政務への姿勢も」
「……はい」
「そして今回の件で、私は確信した」
父王が立ち上がった。
「お前は、リリアーナ嬢を心から愛している。そしてリリアーナ嬢も、お前を受け入れた」
俺は、深く頭を下げた。
「リリアーナ・ベルモンドは、この国の未来の王妃にふさわしい」
父王の声が、謁見の間に響いた。
「婚約の継続を、正式に承認する。そして、半年後に婚礼を執り行うこととする」
俺は顔を上げた。
父王が、珍しく微笑んでいた。
「幸せにしろ、ユリウス」
「……はい。必ず」
母后が、そっと涙を拭っていた。
その知らせは、すぐに王国中に広まった。
王太子ユリウスと、ベルモンド公爵令嬢リリアーナの婚礼。半年後に挙行。
宰相の陰謀が暴かれた直後だけに、民衆の関心は高かった。そして、その反応は概ね好意的だった。
「王太子殿下が、婚約者様を守られたそうよ」
「宰相の企みを暴いて、リリアーナ様の無実を証明なさったんですって」
「素敵……本当の愛ね」
街では、そんな噂が飛び交っていた。
かつてリリアーナを「冷遇されている哀れな婚約者」と囁いていた者たちが、今では「運命の恋人」と称えている。
人の噂など、そんなものだ。
だが、俺は気にしなかった。
リリアーナが傍にいる。それだけで、十分だった。
半年後。
王都グランツェルの大聖堂は、人で溢れていた。
王族、貴族、そして民衆の代表たち。この国の全ての階層から、祝福の声が集まっていた。
俺は、祭壇の前に立っていた。
白い礼装に、王家の紋章が刻まれたマント。胸には、母から受け継いだ紫水晶の勲章が輝いている。
大聖堂の扉が開いた。
光が差し込み、一人の女性のシルエットが浮かび上がる。
リリアーナだった。
純白のウェディングドレス。長いベールが、彼女の後ろに流れている。その手には、白いカモミールの花束が握られていた。
彼女が、一歩一歩、俺の元へ歩いてくる。
その姿は、まるで女神のようだった。
「リリアーナ・エルトリア・ベルモンド」
大司教が、厳かな声で問うた。
「汝は、ユリウス・レオンハルト・ヴァイゼンを夫として迎え、生涯を共にすることを誓うか」
「誓います」
リリアーナの声は、澄んでいた。
「ユリウス・レオンハルト・ヴァイゼン」
大司教が、俺に向き直った。
「汝は、リリアーナ・エルトリア・ベルモンドを妻として迎え、生涯を共にすることを誓うか」
「誓う」
俺の声が、大聖堂に響いた。
「ここに、二人の婚姻を宣言する。女神ルミナの祝福が、永遠に二人の上にあらんことを」
大聖堂に、歓声が沸き起こった。
俺は、リリアーナの手を取った。
そして、そっとベールを上げた。
彼女の顔が現れる。翡翠の瞳に、涙が光っていた。だが、その口元には微笑みが浮かんでいた。
「綺麗だ」
「ありがとうございます」
「これからは、毎日君の料理を食べられるな」
リリアーナが、小さく笑った。
「毎日は大変ですよ」
「構わない。君の料理なら、毎日でも食べたい」
「……では、努力いたします。旦那様」
俺は、彼女の唇に口づけた。
大聖堂に、再び歓声が響いた。
婚礼の宴は、夜まで続いた。
貴族たちが次々と祝辞を述べ、民衆からも祝福の声が届いた。
アルベルト兄上は、酔った勢いで俺の肩を何度も叩いた。
「よくやった、ユリウス! お前の嫁さんは最高だ!」
「兄上、声が大きいです」
「いいじゃないか! 今日くらいは騒いでも!」
エミリアは、リリアーナの傍で涙を流していた。
「リリアーナ様……本当に、おめでとうございます……」
「ありがとう、エミリア。あなたがいなければ、今日はなかったわ」
父王と母后も、珍しく笑顔を見せていた。
「よい式だった」
「リリアーナ様は、本当に美しかったわ」
全てが、祝福に満ちていた。
宴が終わり、俺たちは新居となる離宮へ向かった。
馬車の中で、リリアーナは俺の肩に頭を預けていた。
「疲れたか?」
「少し。でも、幸せです」
「俺もだ」
窓の外を、星空が流れていく。
「ユリウス様」
「何だ?」
「六年間、待っていてくださって、ありがとうございます」
俺は、彼女の髪をそっと撫でた。
「俺こそ。俺を信じてくれて、ありがとう」
「最初は、信じられませんでした」
「わかっている」
「でも、今は違います」
リリアーナが、顔を上げた。
「私は、あなたを信じています。これからも、ずっと」
「ああ。俺も、君を愛している。これからも、ずっと」
馬車が、離宮の門をくぐった。
新しい生活が、始まろうとしていた。
離宮の寝室で、リリアーナが俺の手を取った。
「ユリウス様」
「何だ?」
「実は、もう一つお伝えしたいことがあるのです」
俺は、彼女を見た。
リリアーナの頬が、僅かに赤く染まっていた。
「何だ? 言ってみろ」
彼女が、そっとお腹に手を当てた。
「まだ確かではないのですが……」
俺の心臓が、大きく跳ねた。
「リリアーナ、まさか……」
「はい」
彼女が、微笑んだ。
「お医者様に診ていただいたところ、おそらく……と」
俺は、言葉を失った。
そして、彼女を抱きしめた。
「リリアーナ……」
「驚かせてしまいましたか?」
「ああ。でも、嬉しい。本当に、嬉しい」
彼女の温もりが、俺の胸に染み渡る。
六年間、待ち続けた。彼女が俺を見てくれる日を。俺の想いを受け入れてくれる日を。
そして今、俺たちは新しい命を授かろうとしている。
「ありがとう」
俺は、彼女の耳元で囁いた。
「俺を、幸せにしてくれて」
「私こそ」
リリアーナが、俺の胸に顔を埋めた。
「私を、幸せにしてくれて」
窓の外で、星が輝いていた。
新しい夜明けが、すぐそこまで来ていた。




