第1話 六年目の春、彼女はまだ笑わない
春風が渡り廊下を吹き抜けていく。
俺は足を止め、窓から差し込む陽光に目を細めた。
六年。
記憶が戻ってから、もう六年が経つ。
あの朝、十六歳の誕生日に目覚めた瞬間、俺の頭には別の人生がすべて流れ込んできた。三十二年間を日本という国で生きた男の記憶。過労で倒れ、一人きりのアパートで息を引き取った最期まで。
そして同時に理解した。
自分が何をしてきたのか。
十歳で婚約したリリアーナを、俺はずっと冷遇してきた。宰相派の教育を疑いもせず受け入れ、「政略婚約の相手など興味がない」と公言した。十四歳の時、彼女が俺のために作った料理を「毒見もしていないものを食べられるか」と突き返した。十五歳の時、彼女が半年かけて刺繍した外套を「使用人に任せればいいものを」と一度も袖を通さなかった。
全部、俺がやったことだ。
この身体で、この口で、この手で。
「……っ」
拳を握りしめる。六年経っても、あの記憶を思い出すたびに胸が軋む。
前の人生で読んだ乙女ゲームの内容も、記憶には残っている。あのゲームでは、俺は最後にリリアーナを「悪役令嬢」として断罪し、彼女は国外追放される。そしてヒロインであるセレスティアと結ばれる──そういう筋書きだった。
だが、これは現実だ。
ゲームの筋書き通りになど、絶対にさせない。
「殿下」
背後から声がかかり、俺は振り返った。
侍従のヴェルナーが恭しく頭を下げている。
「謁見の刻限でございます」
「ああ、今行く」
歩き出そうとした、その時だった。
廊下の向こうから、一人の女性が歩いてくる。
淡い金の髪。深い翡翠の瞳。凛とした佇まい。
リリアーナ・エルトリア・ベルモンド。
俺の、婚約者。
「──殿下」
彼女は完璧な角度で膝を折り、礼をした。
作法の教本に載せられるほど美しい所作。そしてその目は、俺の胸元あたりをまっすぐに見ている。
俺の目は、見ていない。
「リリアーナ」
名前を呼んだ。できるだけ穏やかに。
六年かけて学んだ。声を荒げない。急かさない。彼女のペースを待つ。
「本日の謁見には?」
「はい。父の名代として出席いたします」
「そうか」
会話が途切れる。
彼女は顔を上げない。俺も無理に言葉を継がない。
ふと、窓辺に目をやった。
小さな花瓶に、白いカモミールが活けてある。彼女が好きな花だ。
……ああ、そうだ。俺が侍従に頼んでおいたんだった。この廊下を彼女が通る時、少しでも気持ちが和らげばと思って。
六年間、こういう小さなことを続けてきた。
直接渡せば警戒される。言葉で伝えれば信じてもらえない。だから、気づかれなくてもいいと思いながら。
「では、失礼いたします」
リリアーナが再び礼をして、俺の横を通り過ぎていく。
すれ違いざま、微かにカモミールの香りがした。
彼女の香水だ。
あの花の香りを、彼女は今も好んでいる。
「……ああ」
返事をした時には、彼女の背中は遠ざかっていた。
謁見の間は、朝の光で満たされていた。
王座には父上が座り、その傍らに母上が控えている。俺は王座の一段下、継承者の席についた。
貴族たちが次々と進み出て、報告や請願を行う。
俺は表情を動かさず、一つ一つに耳を傾けた。
そして。
「陛下」
宰相ゲオルク・フォン・ヴァイザーが、一歩前に出た。
白髪交じりの髪。鋭い灰色の目。五十八年の人生で培った狡猾さが、その表情の奥に透けて見える。
「先日の東部での魔物被害、聖女セレスティア様のご加護により、死者を一人も出さずに済みました」
ざわめきが広がる。
貴族たちが口々に聖女を讃える声を上げた。
「聖女様のお力は、まことに王国の宝でございます」
ゲオルクが続ける。その声には、計算された敬虔さが滲んでいた。
「このような稀有なお方が王宮におられること、我々は女神に感謝せねばなりません。そして──」
一拍、間を置く。
その目が、ちらりと俺を見た。
「──聖女様にふさわしいお立場を、王国としてもお考えになる時期ではないかと」
空気が変わった。
何人かの貴族が息を呑むのがわかった。
王太子妃候補。
ゲオルクは、名指しこそしていないが、明らかにそれを示唆している。
俺は表情を変えなかった。
六年間、この瞬間を想定していた。宰相派がいつか、このカードを切ってくることは。
「宰相」
俺は静かに口を開いた。
謁見の間が、しんと静まり返る。
「聖女殿の功績は、俺も認めるところだ」
ゲオルクの目に、微かな期待が浮かぶ。
「だが」
俺は立ち上がった。
王座の父上に一礼し、それから正面を向く。
「俺の婚約者は、すでにベルモンド公爵令嬢リリアーナと定まっている。これは十二年前に父上が認可され、王命として公布されたものだ」
言葉を切る。
視線を、まっすぐゲオルクに向けた。
「公式の場で王命を覆す議論を行うのであれば、相応の手続きと根拠が必要となる。宰相は、それをお持ちか?」
ゲオルクの顔が、僅かに強張った。
「……いえ、私はそのようなことを申し上げたつもりは」
「そうか。では聖女殿の功績を讃える話に戻ろう」
俺は何事もなかったかのように着席した。
周囲の貴族たちがざわめく。
視界の端で、ベルモンド公爵が僅かに目を見開いているのが見えた。リリアーナの父だ。
ゲオルクは平静を装っているが、その目の奥に苛立ちが滲んでいた。
今日のところは、これでいい。
謁見が終わり、俺は控えの間で兄上と合流した。
「やるじゃないか、ユリウス」
アルベルト兄上が、にやりと笑う。
俺より三つ年上の第二王子。金の髪と青い目は父上譲りだが、その気さくな性格は母方の血筋だと言われている。
「宰相の顔、見たか? 一瞬だが確かに歪んでいた」
「見ました」
俺は窓辺に寄りかかった。
「ですが、あの程度で諦める人ではありません」
「わかっている」
兄上の表情が真剣になる。
「聖女を王太子妃に据えようという動き、最近露骨になってきた。教会の一部とも繋がっているらしい」
「情報は?」
「影の目に調べさせている。だが、宰相の周辺は警戒が厳しい」
俺は頷いた。
宰相派の動きは、六年前から注視してきた。だが、確たる証拠はまだ掴めていない。
「焦るなよ、ユリウス」
兄上が俺の肩に手を置いた。
「お前が六年かけてやってきたこと、俺は見ている。リリアーナ嬢のことも、宰相への対応も」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。家族だろう」
兄上が笑う。俺も、少しだけ口元を緩めた。
その日の夕刻。
俺は王宮の庭園を歩いていた。
春の花が咲き乱れる小道を抜け、噴水のある広場に出る。
そこで、足を止めた。
広場の端、藤棚の下に、リリアーナがいた。
一人で、夕陽に染まる空を見上げている。
声をかけようとした。
だが、足が動かなかった。
六年経っても、俺はまだ彼女との距離を測りかねている。近づきすぎれば警戒される。かといって、遠ざかりすぎれば関係は進まない。
その時。
「──もう少しだけ、この場所にいさせてください」
リリアーナの声が聞こえた。
俺は息を止めた。
彼女は誰かと話している。だが、この位置からは相手の姿が見えない。藤棚の影に隠れているのか。
誰だ?
こんな時間に、こんな場所で。
問い質したい衝動を、俺は押し殺した。
今、姿を見せれば、彼女はまた壁を作る。それはわかっている。
リリアーナが小さく頭を下げるのが見えた。
そして、藤棚の奥へと姿を消していく。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
春風が、白いカモミールの花びらを運んでいく。
彼女の好きな、あの花の香りが、微かに漂っていた。




