第2話:箱庭のバグ
1
重力に逆らう浮遊感が、僕の内臓を不快に揺さぶっていた。
軌道エレベーター『天の梯子』。
地上と、成層圏に浮かぶ第Ⅱ階層『バベル』を繋ぐ唯一の臍の緒だ。
ガラス張りのカゴの中、眼下に広がる横浜の街は、まるで発光する回路基板のように見えた。
整然と区画整理された道路。計算された緑地。三十年前に龍がもたらした、完璧な調和。
だが、高度が上がるにつれて、その美しさが「檻」の網目に見えてくるのは、僕の目が腐っているからだろうか。
「おい、顔色が悪いぞ。高所恐怖症か?」
隣で腕を組んでいた土門が、面白そうに覗き込んでくる。
この男は異常だ。これから人生を賭けた選別試験に向かうというのに、まるで近所のコンビニにでも行くような軽装と、ふてぶてしい態度を崩していない。
「……気圧のせいだよ。それより、これから何が始まるのか、知ってるのか?」
「さあな。だが、少なくともペーパーテストじゃねえことだけは確かだ。見ろよ、周りの連中を」
土門に顎でしゃくられ、僕は周囲を見渡した。
巨大なエレベーターホールに集められた、約三百人の若者たち。
彼らは一様に、新品のスーツに身を包み、手には最新鋭のタブレット端末を握りしめている。その瞳にあるのは、希望ではない。「正解」を探そうとする、強迫的な輝きだ。
彼らは知っているのだ。この国において、龍の意思を汲み取ることこそが唯一の正義であり、成功への最短ルートであることを。
「連中は『OS』が新しい。効率、服従、最適化。龍の管理社会に完全に適応したニュータイプだ」
土門は吐き捨てるように言った。
「対してお前は、三十年前の旧型OSを引きずったエラー品だ。……ま、俺も似たようなもんだがな」
エラー品。
その言葉は、奇妙なほど僕の腑に落ちた。
そうだ。僕はバグだ。
あの日、白い庭で「天使」の血を見てしまった瞬間から、僕の世界は一度クラッシュしているのだから。
エレベーターが不意に減速し、電子音が鳴り響いた。
『第Ⅱ階層、到着。これより先は、神の庭となります』
扉が開く。
そこには、呼吸を忘れるほどの「白」が広がっていた。
2
バベルの内部は、巨大な美術館のようだった。
壁も床も、すべてが継ぎ目のない白い素材で覆われている。天井はなく、見上げればそこには直接、龍の腹――幾何学模様の巨大な天蓋が迫っていた。
「ようこそ、選ばれし羊たちよ」
広大なホールの中心。空中に浮かぶ立体映像が、僕たちを見下ろしていた。
白衣を着た、糸目の男。
この階層の管理者であり、龍の言葉を翻訳する預言者、御影玄。
「君たちにはこれから、第一次適性試験『トロッコ・シミュレーション』を受けてもらう」
御影が指を鳴らすと、僕たちの手元にある端末が一斉に起動した。
画面に表示されたのは、ある地方都市の運営データだった。
「ルールは簡単だ。君たちはこの架空都市の市長となる。現在、この都市では食料プラントの不調により、一週間後に飢餓が発生する予測が出ている。住民は一万人。備蓄は五千人分しかない」
会場がざわつく。
「解決策は二つ。A:備蓄を平等に分配し、全員で飢えを凌ぐ。ただし、生存率は全員20%に低下する。B:生産性の低い下層市民五千人を区画ごと切り捨て、残りの五千人を確実に生存させる」
残酷な二択。いや、この国の論理で言えば、答えは一つしかない。
周囲の参加者たちは、迷うことなく画面をタップし始めた。
Bだ。
全体を救うために、一部を切り捨てる。それが「龍」の統治における基本アルゴリズムであり、正解だ。彼らにとって、それは道徳の問題ですらなく、単なる算数の問題なのだ。
「……くだらねえ」
隣で土門が舌打ちをして、無造作にBを押した。「俺は偽善者じゃねえからな。だが、気に食わねえ」
僕は画面を見つめたまま、動けずにいた。
指が震える。
怖いからじゃない。
怒りで、視界が赤く染まりそうだったからだ。
(これも、あの子が見ている景色なのか?)
脳裏に、あの白い庭の記憶が蘇る。
3
――記憶の中の彼女は、いつも空を見ていた。
名前も、言葉も、感情さえも剥奪された、銀髪の少女。
人々は彼女を「天使」と呼び、神の言葉を伝える巫女として崇めた。あるいは、龍というシステムを安定させるための「人柱」として扱った。
けれど、僕は知っていた。
彼女が、神の代行者などという立派な役割を演じられるほど、強い存在ではないことを。
『……リツ。どうして、空はあんなに近いの?』
ある日、彼女は僕にそう尋ねた。
その瞳には、全人類の運命や、世界の理なんて映っていなかった。ただ、目の前にある「空」という名の天井が、怖くてたまらない子供の目だった。
彼女は、神の言葉を翻訳しているんじゃない。
神という名の、巨大で理解不能な「何か」と直結させられ、その奔流に心を摩耗させているだけだ。
彼女を通して世界に届けられる「慈愛」や「秩序」は、彼女というフィルターが、自らの魂を削って濾過した残りカスに過ぎない。
僕だけが、それに気づいていた。
彼女が指先から流した血。あれは、ただの怪我じゃない。
受け止めきれない情報の負荷が、肉体の許容量を超えて溢れ出した「ノイズ」だったんだ。
『痛くないよ、リツ。私が我慢すれば、みんな笑ってるから』
そう言って微笑んだ彼女の顔が、能面のように引きつっていたことを、僕は一生忘れない。
あの日、僕は悟った。
この世界は、一人の少女の「我慢」の上に成り立っている。
それを「平和」と呼び、それを維持するために五千人を殺せと命じるこの選択肢は、彼女への冒涜だ。
4
「……天城? おい、時間がねえぞ」
土門の声で、僕は現実に引き戻された。
残り時間は十秒。
Aか、Bか。
どちらを選んでも、御影の掌の上だ。
だから僕は、そのどちらも選ばなかった。
僕は端末の裏蓋をこじ開け、露出したバッテリーパックを引き抜いた。
画面がブラックアウトする。
システムダウン。回答不能。
「は?」
土門が目を丸くする。「お前、何やって……」
「問題設定が間違っている」
僕は静かな会場で、独り言のように呟いた。しかし、その声は奇妙なほど響いた。
「食料プラントの不調? なぜ不調なんだ? 龍のテクノロジーは完全なはずだろ。なら、これは人為的なミスか、あるいは『備蓄があるのに隠している』かだ」
僕は黒くなった画面を指先で叩いた。
「僕は、五千人を殺す決断をする前に、この不調の原因を調査し、隠蔽した責任者を吊るし上げる。それが僕の回答だ」
シン、と会場が静まり返った。
周囲の参加者たちが、憐れむような目で僕を見ていた。
ルール違反。思考放棄。現実逃避。
彼らの心の声が聞こえるようだ。
だが、頭上のホログラム――御影だけは違った。
糸のような目が、わずかに開かれたのを、僕は見た。
「……面白い」
スピーカーから、ノイズ混じりの声が響く。
「回答拒否か。あるいは、設問への疑義か。……君、名前は?」
「天城、律」
「天城律。君の回答は『無効』だ。当然だろう、これはシミュレーションなのだから。調査などできるわけがない」
御影は冷ややかに告げた。
「だが、君のその『疑う』という行為。それこそが、今のバベルに不足しているリソースだ。……特別に、第二段階へのパスを与えよう」
どよめきが起きる中、僕の端末が再び起動し、深紅の認証コードが表示された。
土門が呆れたように、しかし楽しげに口笛を吹く。
「やるじゃねえか、反逆者様。いきなりお上の目をつけられたな」
「……計算通りだよ」
僕は嘘をついた。背中は冷や汗でびっしょりだった。
でも、これでいい。
優等生として選ばれる必要はない。
僕は「異物」として、この塔の喉元に引っかかりに来たんだ。
見上げれば、天井の向こう。
はるか上層階にいるはずの彼女の気配が、微かに揺れた気がした。
(待ってて、知世。今、君の神様を引きずり降ろしに行く)
バベルの扉が、音を立てて閉ざされた。
後戻りできない、地獄へのチェックインが完了した。
お読みいただきありがとうございます。
第2話では、主人公・律の過去と、ヒロインである知世の「正体」に少し触れました。
彼女は神々しい天使ではなく、システムに繋がれた一人の少女であり、その痛みを知っているのは律だけ……という関係性が、この物語の核になっています。
有名な「トロッコ問題」のような選択肢を突きつけられた時、効率化された社会でどう抗うか。
律の反逆はまだ始まったばかりです。
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