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ドラグ・インサイド ―神の箱庭、反逆の旋律―

30年前、人類は「龍」に征服された。戦争はなく、与えられたのは完全な管理社会と、思考停止という名の幸福。

そんな「飼いならされた楽園」に馴染めない青年・天城律あまぎ りつは、幼少期のある記憶――神であるはずの龍の子供が流した「赤い血」の秘密――を抱え、虚無感の中に生きていた。

しかし、謎の男・土門との出会いを機に、彼は選ばれたエリートのみが入れる第2階層「バベル」へ送り込まれる。そこで待っていたのは、政治と謀略、そしてかつての友である「天使」を利用した残酷な支配ゲームだった。

これは、死んだ目をした少年が、偽りの神を殺し、閉じた世界をこじ開けるまでの物語。

第1話:飼いならされた楽園



 空が割れたあの日から、僕たちは思考することをやめた。


 横浜の上空、高度二千メートル。

 そこに見えるのは、青空ではない。全長数十キロメートルにも及ぶ、幾何学模様の鱗に覆われた有機的な天蓋。

 人々は畏敬と親愛を込めて、それを『龍』と呼んだ。


 三十年前、彼らは来た。

 宇宙の彼方か、次元の裂け目か。出所は不明だが、一つだけ確かなことがあった。彼らの持つ武力と知性は、人類のそれを遥かに凌駕していたということだ。

 戦争は起きなかった。

 僕たちはただ、圧倒的な「差」の前にひれ伏し、彼らが与えてくれた首輪を、安らかな枕として受け入れたのだ。


 以来、雨は制御され、貧困は計算式によって消滅した。

 完璧な家畜小屋。

 それが、僕たちの住むこの国だ。


りつ、お前、また手ぇ抜いただろ」


 休憩のチャイムと共に、同僚が笑いながら肩を叩いてきた。

 ここは第七地区、資材管理センター。

 十二歳から二十歳までの国民に義務付けられた「経済徴兵エコノミック・ドラフト」。僕たちはここで、AIが弾き出した生産計画に従って、ただ荷物を右から左へと動かす。

 誰にでもできる仕事。だが、誰かがやらねばならない仕事。それを若者にボランティアとして課すことで、この国は回っている。


「抜いてないよ。規定値通りだ」

「嘘つけ。お前の端末だけ、エラー予測が早すぎるんだよ。AIの裏かいてサボってるの、バレてんぞ」


 同僚は悪気なく笑い、缶コーヒーを開けた。彼らの目は、曇りなく澄んでいる。

 もうすぐ二十歳になる。この期間が終われば、人生を決める「選別」が行われる。

 大半の人間は「一般市民コモン」として、労働から解放され、家庭を持ち、死ぬまで趣味に生きる権利を与えられる。

 彼らにとって、それはゴールだ。


「いいよなぁ、あと一ヶ月で俺たちも上がりだ。結婚して、子供作って、龍様の下でピクニックだ。……律、お前は何したい?」

「……別に。何も」

「相変わらず暗いなぁ。もっと楽しめよ、楽園なんだから」


 僕は曖昧に頷き、視線を逸らした。

 吐き気がした。


 こいつらは気づいていない。

 自分たちが「平和」を享受しているのではなく、「無害化」されていることに。

 牙を抜かれ、爪を研ぐことさえ忘れ、ただ与えられる餌の味だけを批評する。それを「幸福」と呼ぶことに、僕はどうしても耐えられない。


(……いや、違う)


 僕は作業用端末の黒い画面に映る、死んだ目の自分を見つめる。

 耐えられないんじゃない。

 僕は、羨ましいのだ。

 何も知らずに笑っていられる、彼らのその「鈍感さ」が。

 知りすぎてしまった人間にとって、この楽園は窒息しそうな独房でしかない。



 記憶のとげが、時折うずく。

 幼い頃の記憶だ。

 僕は知能指数の高さから、ある特殊な育成施設にいたことがある。白い壁に囲まれた、清潔な庭。

 そこで出会ったのが、彼女だった。


『ねえ、リツ。このお花、なんて名前?』


 透き通るような銀髪と、背中に揺らめく不可視の翼。

 龍の幼体。天使。神の使い。

 呼び名はどうでもいい。僕にとって、彼女はただの友達だった。名前すら教えてもらえなかったけれど、毎日一緒に本を読み、パズルを解いた。


 だがある日、僕は見てしまった。

 遊具から落ちて膝を擦りむいた彼女の傷口から、流れ出たものを。

 それは光の粒子でも、青い体液でもなかった。

 鮮烈な、赤い血。

 僕たちと同じ、生暖かくて、鉄の匂いがする「人間」の血だった。


『痛い、リツ……痛いよ』


 神様は、泣かないはずだ。

 支配者は、血を流さないはずだ。

 なら、空に浮かんでいるあの「龍」たちは、一体何なんだ?


 その直後、僕は施設から追放された。記憶処理を受けたはずだったが、その「赤色」だけが、網膜の裏に焼き付いて離れない。

 あの天使の中身は、人間だ。

 この世界は、何者かが演じている「巨大な茶番劇」の上に成り立っている。



 帰宅路。

 監視カメラの死角になる高架下を選んで歩くのが、僕の癖だった。

 システムの視線を感じない場所だけが、息ができる場所だ。


「おい、そこのシケた顔の兄ちゃん」


 不意に、コンクリートの柱の影から声がかかった。

 振り返ると、巨岩のような男が立っていた。

 身長は二メートル近いだろうか。僧兵のような坊主頭に、使い古した軍用ジャケット。

 異物だ。この清潔すぎる管理社会には存在しないはずの、土と油と「暴力」の匂いがする男。


「……僕に何か用ですか」

「用があるのは俺じゃねえ。お前のその『目』だ」


 男はニヤリと笑い、一歩近づいてきた。威圧感だけで空気が軋む。


「名前は天城律あまぎ・りつ。成績優秀だが、意欲評価は最低ランク。……お前、気づいてるんだろ? この街が巨大な保育器だってことに」

「……誰ですか、あなたは」

土門剛どもん・ごう。ただの野次馬だ」


 土門と名乗った男は、懐から一枚のカードを取り出し、僕の胸ポケットにねじ込んだ。

 それは、明日の「選別」で使用されるIDカードのエラーコードだった。


「明日の『選別』、わざと落ちようとしてるな? 一般市民に紛れて、一生死んだふりをして過ごすつもりか」

「!」

「無駄だ。お前のその『違和感』は、AIには隠せねえ。お前は選ばれる。ピラミッドの第二層、政治と謀略の実験場へ送られる」


 男は予言のように告げた。


「そこで待ってるのは、地獄だ。だがな、天城律。その地獄の底にしか、お前が探してる『答え』はねえぞ」

「答え……?」

「空の上の、あのデカブツの正体だよ。……俺も行く。そこでお前が、飼い主に牙を剥くか、それとも尻尾を振るか。特等席で見せてもらうぜ」


 男が闇に消えた直後。

 僕の携帯端末が激しく振動した。

 画面には、深紅のエンブレムと共に、無機質な文字が浮かんでいた。


『通達:天城律。貴殿を第II階層、特別統治区画バベルへ招聘する』



 翌日。

 僕は数百人の若者と共に、軌道エレベーターの中にいた。

 ガラスの向こうで、住み慣れた街が小さくなっていく。

 同乗している者たちの顔つきは、昨日の同僚とは違っていた。野心に燃える瞳、冷徹な計算をする指先。

 彼らは「選ばれたエリート」だ。この先にある第II階層バベルで、龍の代行者となるべく競い合うことを望んだ者たち。

 僕だけが、異物のように立ち尽くしていた。


 到着した「バベル」の大広間。

 そこは、まるで巨大な神殿だった。

 正面の巨大スクリーンに、一人の男が映し出される。

 この塔の管理者、御影玄みかげ・げん。常に薄ら笑いを浮かべた、胡散臭い男だ。


『ようこそ、選ばれし諸君。ここは実験場だ。君たちにはこれから、人類のOSをアップデートするための政治ゲームに参加してもらう』


 御影の声が響く。

 そして、彼の背後に、もう一つの映像が投影された。

 最上階の特別室。そこに鎮座する「世界の象徴」。


「……っ」


 僕は息を止めた。

 そこにいたのは、巫女の装束に身を包んだ、銀髪の少女だった。

 成長しているが、間違いない。

 あの育成施設で別れた、僕の友達。


『彼女こそが、龍と交信する唯一の巫女、神凪知世かんなぎ・ちせ様だ。君たちの勝利の先には、彼女への謁見が約束されている』


 画面の中の知世は、目を閉じていた。

 まるで、世界のすべてを拒絶するように。あるいは、終わらない悪夢に耐えているかのように。

 その表情を見た瞬間、僕の中で何かが弾けた。


 ――違う。

 彼女は女神なんかじゃない。

 あの日、痛いと泣いていた、ただの女の子だ。

 彼女はずっと、この空の上で、人柱としてシステムに繋がれている。


 僕の隣で、いつの間にか並んでいた巨漢――土門剛が、楽しそうに囁いた。


「いい顔になったな、天城。お前の導火線、今そこで火がついたぞ」


 僕は拳を握りしめた。爪が食い込み、微かな痛みが走る。

 虚無は消えた。

 代わりに、冷たくて重い、鉄のような決意が腹の底に沈殿していく。


 龍の正体? 世界の構造?

 そんなものはどうでもいい。

 僕はただ、あの子をあそこから引きずり降ろす。

 そのためなら、政治でも戦争でも、このふざけたゲームに乗ってやる。


「……ああ、そうだね」


 僕は初めて、土門に向かって口角を上げた。


「行こう、土門。神様への反逆の時間だ」


 楽園の崩壊を告げるベルが、高らかに鳴り響いた。

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