第5章 聖省の男
この章では、
答えはまだ語られません。
代わりに示されるのは、
「問いを持ってしまった瞬間」です。
教えてもらえた喜び。
分かったという実感。
前に進める気がした、あの感覚。
それらはすべて、本物です。
間違いではありません。
けれど――
それを「正しい」と決める基準は、どこにあるのか。
ミラは初めて、
知識ではなく、価値観に触れます。
ユージンは初めて、
避け続けてきた過去を語らざるを得なくなります。
この章は、
過去が明かされる章ではありません。
過去を語らなければならなくなった、
その“きっかけ”を描く章です。
その男は、身なりがよかった。
聖省の役人が着るような、過剰に飾り立てた服ではない。けれど、生地の質や仕立ての良さは、私の目にもはっきりと分かった。
服装は違うけどたぶん、聖省の人だ…
手には数冊の本を抱えている。どれも、表紙が傷んでいない。
「久しぶりだね、ユージン」
声は穏やかで、柔らかい。
事務所の空気が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「……久しぶりだな」
ユージンはそう答えた。
面倒そうではあったが、追い返す様子はない。嫌っている、という感じでもなかった。
二人の間で、私にはよく分からない言葉のやり取りが続く。
制度の改訂、評価基準、例外処理。
聞き慣れない言葉ばかりなのに、男の話し方は不思議と耳に残った。
そして、その男はふと私を見る。
視線が合った瞬間、心臓が跳ねた。
「……君が、Eランクの少女を助手にするとは思わなかったよ」
男はユージンを見て、静かに問いかけた。
「少しは、昔の君を思い出してくれたのかい?」
――昔?
私は思わずユージンを見る。
彼の過去。私の知らない、彼の時間。
けれど、返ってきた言葉は意外なものだった。
「助手じゃない」
きっぱりと、ユージンは言った。
「まだ助手見習いだ。ただ――根性は認めている」
その一言に、男も、そして私も、言葉を失った。
認めている。
それは、私の人生で、初めて向けられた評価だった。
「そうか」
男は小さく笑い、今度は私の方へと歩み寄ってきた。
「その教材、最近発行された最新版の音声ガイダンス付きだね。結構いい値がする。ユージンが買ってくれたのかい?」
「……いえ」
私は正直に答えた。
「私が、お給与で買いました」
一瞬、男の目が細くなる。
「そうか。偉いね。じゃあ――どんな文字まで書けるようになった?」
声は、あくまで穏やかだった。
私はもう一度ユージンを見る。けれど、彼は何も言わない。ただ、こちらを見ている。
だから、私は答えた。
「二十六文字の、基礎の文字は……だいたい書けます。でも、文字の意味や使い方が、分かりません」
「なるほど」
男は頷き、私の持っていた本をそっと指差した。
「文字が書けるならね、通常の音声で読み上げられていない部分がある。この辺りだ」
彼はページの端に触れ、起動の仕方を教えてくれる。
「ここには、一つ一つの文字の意味が書かれている。言葉は、ただ並べればいいわけじゃない。多くは、この“文字の意味”を大切にして作られているんだ」
私は息をするのも忘れていた。
「だから次はね、“書けること”だけじゃなくて、“意味を知ること”だ。この部分を起動すれば、ちゃんと教えてくれるよ」
男の説明は、驚くほど分かりやすかった。
まるで、頭の中に霧がかかっていた場所に、道が引かれていくみたいだった。
一週間かけて、分からなかったことが。
たった五分で、形になる。
誰かが、自分から、私に教えてくれる。
そんなこと、今まで一度もなかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
これが、嬉しい、という感情なのだと、初めて知った。
私はその男――アーヴェルを、見上げていた。
この人なら。
この人についていけば。
そんな考えが、胸の中で芽を出しかけた、そのとき。
私は気づかなかった。
部屋の隅で、ユージンが、何も言わずにそれを見ていたことに。
再び、アーヴェルとユージンが向かい合った。
私は、先ほど教えられた文字の意味を確かめるため、本の音声ガイダンスに耳を澄ませていた。
ゆっくりとした声で、一つずつ、文字の成り立ちと意味を説明してくれる。
――けれど。
二人の会話が、どうしても耳に入ってくる。
「本を買えるだけの給金を渡しておきながら、何も教えてあげないなんて。冷たいね」
アーヴェルは責めるような口調ではなかった。
むしろ、少し残念そうに笑っている。
「昔の君は、そんな人間じゃなかった。完璧な解答と、その道筋を、後輩たちに示して見せていたじゃないか」
ユージンは、即座には答えなかった。
その沈黙の間に、音声ガイダンスが次の文字を読み上げる。
やがて、ユージンが口を開いた。
「与えられることに“安寧”を覚えたら、あいつはEランクから変わることはできない」
その声は低く、淡々としている。
「生きる意思と今ここにいる意味を失い、満足というぬるま湯に安寧を覚えたら、あいつはEランクから変われない」
胸が、きゅっと縮んだ。
「厳しいね……いや」
アーヴェルは首を傾けた。
「厳しくなった、のかな」
Eランクから変われない。
どうして、そんなことを言うのだろう。
私は、文字を覚えて、志を書いて、Dランクになれればいいと思っていた。
それだけで、十分だと。
でも――
もし、アーヴェルのように「教えてもらえたら」。
もっと知ることができたら。
もっと先を示してもらえたら。
私は、Cランクだって目指せるのかもしれない。
もしかしたら、それ以上だって。
そんな考えが浮かび、音声ガイダンスの言葉が頭に入ってこなくなる。
私は慌てて、もう一度、耳を澄ませた。
二人の会話は、まだ続いている。
「志制度はね」
アーヴェルの声が、少しだけ熱を帯びた。
「本来は、人の希望になるはずのものだった。でも、結局はSランクの彼らの権力欲のせいで、今はただの階級維持システムだ」
彼は真っ直ぐに言った。
「僕は今でも、それを変えたいと思っている」
「相変わらずだな」
ユージンは鼻で笑う。
「崇高な理念をお持ちのようだが、志制度を“人の希望”なんて言ってるやつには、土台無理な話だ」
「なぜだい?」
アーヴェルは即座に返す。
「志は本来、人が『どうなりたいか』『どう生きたいか』を、自分自身に問いかけ、奮い立たせるものじゃないか」
「……たかが十五の子供にだ」
ユージンの声が、少しだけ鋭くなった。
「これから、まだいくらでも未来を選べる時間のある子に、志で人生の門を狭めておいて――何が『どう生きたいか』だ」
空気が、重く沈む。
「そうだね」
アーヴェルは、すぐには否定しなかった。
「その点については、君の言う通りだと思う。……でも」
彼は続ける。
「もし、志を出すのが十五歳じゃなく、もっと大人になってからでもいい制度になったら?それなら、今の矛盾は解消されるんじゃないか?」
……。
ユージンは、答えなかった。
沈黙。
それは、まるで――
アーヴェルの意見を、正しいと認めているようにも見えた。
胸の奥で、何かがざわつく。
けれど、次の瞬間。
「……無理だな」
ユージンは、短く言い切った。
「Sランクは知っている。十五歳であることの重要性を」
彼は目を伏せたまま続ける。
「無垢から成熟に至る狭間の、『もっとも方向性をコントロールしやすい』年齢が『どこ』にあるのかを、正確にな。
だから――Sランクが、十五歳という条件を変えることはない」
「なるほど」
アーヴェルは、小さく息を吐いた。
「君は、相変わらず恐ろしく現実主義だ」
それでも、彼は笑った。
「でも……それを変えられるなら、意味があると認めてくれそうでもあるね」
立ち上がり、外套を羽織る。
「また来るよ」
そう言い残して、アーヴェルは事務所を後にした。
扉が閉まったあと、しばらく、誰も口を開かなかった。
音声ガイダンスだけが、静かに文字を読み上げ続けていた。
私は、本を握りしめながら、思った。
――もし。
もし、誰かが教えてくれるなら。
もし、もっと先を見せてくれるなら。
私は、どこまで行けるのだろうか。
その問いが、胸の奥に、深く沈んでいった。
扉が閉まってから、少しの沈黙が落ちた。
音声ガイダンスの声だけが、事務所に残っている。
「……で」
ユージンが言った。
「ミラ。教材に集中せず、聞き耳立てて――何を学べた?」
ぶっきらぼうな口調だった。
叱っているようでもあり、試しているようでもある。
「……え」
私は言葉に詰まる。
何を、学んだ?
文字の意味。
言葉の作り方。
それだけじゃない。
「……教えて、もらえました」
思わず、そう答えていた。
「アーヴェルさんが、私に……分かるように、教えてくれて……」
胸の奥が、まだ熱を持っている。
「教えてもらい続けられたら……」
言葉が、止まらない。
「もっと、上に行けるかもしれないって思いました。Dランクだけじゃなくて……Cランクとか……」
ユージンの顔を見るのが、怖くなった。
「それに……」
それでも、口は勝手に動く。
「もし、私が上に行けたら……Eランクの人だって、希望を持てるようになるかもしれないって……」
言い終えた瞬間、空気が冷えた。
ユージンは、何も言わなかった。
ただ、私を見ている。
その目は、怒ってはいない。
失望もしていない。
――見抜いている。
そんな目だった。
「……そうか」
短く、ユージンは言った。
それだけで、胸の奥が、ひやりとした。
教えてもらえた喜び。
未来が開けたような感覚。
それが、間違いだとは、まだ思えない。
でも。
ユージンの沈黙が、その考えがどこか危ういものだと、静かに告げていた。
「だがな、ミラ…その、教えてもらえたことが正しいと――」
ユージンが言った。
「お前は、何をもって判断する?」
「……え?」
言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
正しい。
教えてもらえた。
分かりやすかった。
前に進める気がした。
それじゃ、だめなのか。
「どうして……そんなこと言うんですか」
声が、震えた。
「まるで、私がCランクに行けないみたいじゃないですか。行っても、意味がないって……そう言いたいんですか?」
胸の奥に溜まっていたものが、堰を切った。
「Eランクの人たちの生活が、少しでも良くなることが――そんなに嫌なんですか?」
自分でも驚くほど、強い口調だった。
さっきまで、言葉を覚えることに必死だったのに。
今は、何かを守らなければならない気がしていた。
「……さっき」
思わず、続けてしまう。
「アーヴェルさんが言ってました。あなた、昔は“完璧な解答”を教えていたって」
ユージンを見る。
「なのに、どうして今は……」
どうして、教えてくれない。
どうして、突き放す。
どうして――。
ユージンは、少しだけ目を閉じた。
深く、息を吐く。
「……面倒なことになったな」
それは、私に向けた言葉ではなかった。
自分自身に言い聞かせるような、低い声。
「座れ」
短く、命令する。
私は反射的に、近くの椅子に腰を下ろした。
心臓の音が、やけに大きい。
ユージンは座ったまま、少し離れた場所を見る。
どこを見ているのか、分からない。
「昔話だ」
目をつむりながら、ぽつりと、言った。
「お前が聞きたいのは、たぶんそれだろ」
返事ができなかった。
喉が、からからに渇いている。
「俺はな」
ユージンは、淡々と続けた。
「昔――教えていた。完璧な解答も、最短の道筋も、そしてそれを実践して見せていた」
それは、自慢でも後悔でもない、いつもと同じ面倒そうな声だった。
そして私は…その話を聞いて…
ミラが恐れたのは、
否定されることではありません。
「希望そのものが、危うい」と示されることでした。
教えてもらえた。
分かるようになった。
先が見えた気がした。
その実感を、
間違いだと言われたくなかった。
だから彼女は、
初めて感情でぶつかります。
理屈ではなく、
「嫌だ」という思いで。
一方、ユージンは――
論破しなかった。
否定もしなかった。
代わりに、
問いを返した。
「それが正しいと、何をもって判断する?」
この一言は、
ミラを突き放すためのものではありません。
かつて、
自分がその問いを持たなかったこと。
持たせなかったこと。
その結果、何が起きたのか。
――それを、
語らずにはいられなくなった。
だから彼は言います。
「昔話だ」
それは逃避ではなく、
覚悟の合図です。
この章の終わりで、
まだ何も解決していません。
けれど一つだけ、
後戻りできないことが決まりました。
ユージンはもう、
“教えない理由”を黙って抱え続けることができない。
ミラもまた、
“教えてもらうだけの立場”ではいられない。
第5章は、
過去が始まる章ではありません。
過去が、現在に追いついてしまった章です。




