第4章 初めての買い物
この章で、
誰かの運命が劇的に変わるわけではありません。
奇跡も、覚醒も、
派手な出来事は起きない。
ただ一人の少女が、
「与えられた安全」に甘えず、
「選べる余地」に気づいてしまう。
それだけです。
この世界では、
Eランクであること自体は「人生を変えるチャンスへの挑戦権を失う」ということです
ユージンは、
教えません。
導きません。
正解も与えません。
代わりに、
選択だけを置いていきます。
本を買え。
あとは、自分でやれ。
この章は、
「志」を書く話ではありません。
志を書くための“土台”が、
誰にも気づかれない場所で作られていく話です。
少女がその事務所で働き始めてから、何日か過ぎていた。
日付を正確に覚えているわけではない。けれど、朝と夜の回数と、パンの数と、ミルクの味が少しずつ薄くならなくなったことで、それくらいの時間が流れたのだと分かる。
この一か月、理不尽な仕事の依頼は一度もなかった。
怒鳴られることも、殴られることも、理由もなく追い出されることもない。それだけで、ここは「安全な場所」だった。
寝床は事務所の奥だ。
屋根があって、壁があって、雨の音が頭のすぐ上で止まる。風は隙間からしか入ってこない。夜に目を閉じても、何かに奪われる心配をしなくていい。少女にとって、それはもう「家」と呼んでいい条件だった。
いままで食事といえば、パンとミルクだった。
それだけでも十分すぎるほどなのに、ここに来てからは温かいスープがつく日がある。湯気が立ち、指先が少しだけ温まる。具は少ないが、味がある。それは、パンとミルクがなかった日に外で拾って食べていたものとは、まるで別の食べ物だった。
ユージンは、必要以上の会話をしない。
仕事の説明は短く、感情を挟まない。名前を呼ぶこともほとんどない。少女が何かを失敗しても、怒鳴ることはなく、ただ手順を一度だけ示す。
ある日、事務所で働くための服を渡された。
サイズは少し大きかったが、破れていなかった。
「服代は給料から引く」
そう言われたが、給料がいくらなのか、いつ支払われるのかは聞いていない。聞く必要もなかった。今のところ、困っていないからだ。
少女は文字を覚えたいと思っていた。
帳簿に並ぶ記号のようなものや、紙に書かれた線の集まりが、何か大事な意味を持っていることは分かる。けれど、覚えるきっかけがなかった。誰も教えろとは言わず、誰も読むなとも言わない。だから、ただ眺めているだけだった。
この一か月で、数名の客が訪れた。
そして、ひとつ分かったことがある。
ユージンは、すべての依頼を受けるわけではない。
金を持っていても、身なりがよくても、丁寧な言葉を使っていても、断られる人間がいる。逆に、震える声で扉を叩いた者が、奥の部屋へ通されることもあった。
最初は理由が分からなかった。
けれど、何人かを見るうちに、少女には一つの法則があるように思えた。
断られる人間は、目が落ち着いていない。
部屋ではなく、自分自身を見ている。言葉より先に、答えを決めている。
通される人間は、怖がっている。
けれど、逃げていない。
少女はそれを、誰にも話していない。
ただ、次に扉が鳴るたび、無意識に相手の目を見るようになっていた。
*
ここにきてちょうど1か月が過ぎた日の夕方のことだ。
帳簿を閉じ、床を掃き終えたところで、ユージンが言った。
「ミラ。少し話がある」
久しぶりに名前を呼ばれた気がするが、その声はいつもと同じだった。
低く、淡々としていて、感情がない。
だからこそ、ミラの胸は強く縮んだ。
――出ていけ、だろうか。
それしか思いつかなかった。
何も悪いことはしていないはずだった。
仕事は言われた通りにした。勝手なことはしていない。
それでも、この場所に居続けられる理由を、ミラは一つも持っていなかった。
ユージンは椅子に腰を下ろし、ミラにも向かいの椅子を示した。
「この一か月は、試用期間だ。今からお前の試験をおこなう。」
言葉の意味は、よく分からなかった。
ただ、ユージンとのこれからの話次第では私は間違いなく追い出されることになる。それだけはわかる。いや・・・それだけしかわからない。
「では、いくつか聞くから正直に答えろ。分からなければ、分からないと言え」
ミラは、小さくうなずいた。
「この一か月、お前はここで何を見ていた?」
質問の意味が分からず、ミラは一瞬、口を閉ざした。
何を、見ていたか。
床。紙。客。パン。スープ。雨。
迷いながらも、言葉を選んだ。
「……人、です」
「続けろ」
「来る人と……来ても、奥に入れない人」
ユージンは何も言わず、次の質問を投げた。
「俺が仕事を受けた人間の共通点は?」
ミラは息を吸った。
間違えれば、ここで終わる気がした。それは確信に近い直観だ。
「……必死でした。何かを必死に求めていました」
「それだけか?」
「でも、逃げてませんでした。嘘をつくときの目じゃ、なかったです」
少し間が空いた。
「じゃあ、断った人間は?」
ミラは、はっきりと答えた。
「もう答えを決めてました。ここに来る前から、自分は正しいって思ってました」
ユージンの指が、机を一度だけ叩いた。
「最後だ。それを、お前の言葉で言い切れ」
ミラは、震える声で言った。
「……本当に困ってる人は、自分を信じきれません。
でも、信じたいって、思ってます。
断られる人は、信じてるふりをして、何も見てません」
長い沈黙が落ちた。
やがて、ユージンは立ち上がった。どうやらこの子の意思は本物のようだ。
「合格だ」
意味は分からなかった。けれど、追い出されないことだけは、分かった。
「本採用だ。そして、これがお前の給料だ」
手渡された封筒は、驚くほど軽かったが、今まで見たことのない金額だった。
それでも、ミラの手は震えた。
「通りを二つ行った先に本屋がある。文字の本を買え。終業後、自分で覚えろ」
それだけ言って、ユージンは背を向けた。
ミラは、封筒を胸に抱いたまま、動けなかった。
パンとミルク以外のものを、自分で買っていい。
追い出されない。
明日も、ここにいていい。
涙が、止まらなかった。
*
通りを二つ曲がった先に、その店はあった。
店先に本がたくさん並べられている。店先だけでなく、中にも 棚が並び、紙の匂いがする。ミラは一歩だけ中に入って、足を止めた。
――これが、本屋。
壁も、棚も、天井まで全部、文字だらけだった。
表紙に描かれた絵は分かる。でも、どれが「文字の本」なのかは分からない。
そもそも、全部が文字の本なのかもしれない。
棚の前に立ち、意味の分からない記号の列を見つめる。
視線が、だんだん落ち着かなくなった。
「お嬢ちゃん、何してる?」
不意に声をかけられ、ミラは肩を跳ねさせた。
振り向くと、明るい笑顔の男がいた。あの日、ユージンに私を引き取れと言ってくれた人だ。
見た目の恰幅はよく、ひげの生えた口が豪快に笑っているが、目だけがよく動く。
「……本を、買いに」
「へぇ。何の本?」
ミラは言葉に詰まった。なんて答えればいいのかわからない。ただ、正直に言うしかなかった。
「……文字の本、です。ユージンさんがそれで勉強しろって。でも……」
「でも?」
「……文字が読めないので、どの本を買えばいいのかわからりません。」
一瞬、男は黙った。
「なるほどね。ところで、嬢ちゃん、本を買う金はあるのか?」
「はい、あります・」
「そうかい、ちょっと見せてもらっていい?」
ミラは迷いながらも「給料だと言って渡された封筒を男に見せた・
「どれどれ…え?…」
男は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「わかった」ような顔して私に一冊の本をくれた。表紙はカラフルでかわいらしい絵が書いてある。
「これでいい。レジに持っていきな」
「え……でも…」
「大丈夫、大丈夫」
半ば押されるように、ミラは本を抱えてレジへ向かった。
店員は本を一目見ると、こちらも一瞬目を見張ったが、何も聞かずに金額を告げた。ミラが封筒からお金を出すと、釣り銭を渡しながら、軽くうなずいた。
それだけだった。
店を出てから、ミラは何度も本と釣り銭を見比べた。
自分で選んだわけでも、内容を知っているわけでもない。
それでも――
初めての買い物だった。パンとミルク以外の買い物だ…
胸が熱くなって、足取りが少し速くなる。
事務所へ帰る道が、いつもより明るく見えた。
*
別の通りの、薄暗い飲み屋。
「文字も読めねぇガキに、本屋行かせるって。鬼だな、お前」
情報屋――ロウが、笑いながらグラスを傾けた。
「優しくすると言った覚えはない」
ユージンは、淡々と酒を口にする。
「分からないことを、分からないと言えなくなったら、あの子は終わりだ」
ロウは、少しだけ真顔になった。
「厳しいねぇ」
「あの子が今の生活に「満足」するようなら、ただのEランクだ。穀潰しを雇う理由がない。だから、俺からは助けを出さない」
ユージンは言い切った。
「チャンスを生かすかどうかは、あいつ次第だ」
ロウは一拍置いてから、笑った。
「素直じゃねーな、最新の教材を変えるだけの給金を渡した男のセリフとは思えんよ」
「ふん」
二人のグラスが、軽く鳴った。
*
本を開いた瞬間、音がした。
驚いて、ミラは思わず本を閉じかける。
けれど、音は消えなかった。
『――はじめまして』
柔らかい声だった。
男でも女でもない。落ち着いていて、急がせない。
『この本は、文字を学ぶための本です。
ゆっくりで構いません。一つずつ、進みましょう』
ミラは息を止めて、本を見下ろした。
文字の横で、水晶のような小さな紋様が淡く光っている。
そこから、声が流れていた。
『最初は、この形です。手持ちの紙とペンで丁寧に練習してください』
線が、浮かび上がる。
ただの記号だったものが、「なぞるもの」になる。
ミラは指を伸ばした。
紙に触れるのは怖かった。これは、借り物だ。
周囲を見回す。
机。ペン。紙。
どれも事務所のものだ。勝手に使っていいとは、言われていない。
ミラは、床に座り込んだ。
人差し指で、床をなぞる。
声が、ゆっくり続く。
『とめて。はらって。もう一度』
何度も、何度も。
床は硬い。
指先が熱を持ち、じんじんと痛む。
それでも、ミラはやめなかった。
分かる。
分かっていく。
意味のなかった形が、名前を持つ。
仕事じゃない。命令でもない。
自分のために、覚えている。
指の皮がめくれた。
赤いものが、にじんだ。
それでも、ミラは指を引かなかった。
これを手放したら、また何もない場所に戻る気がした。
初めてできる「仕事以外の何か」を、失いたくなかった。
*
翌朝。
ユージンは、事務所に入った瞬間、気づいた。
ミラの目の下。
濃い影。
そして、指。
「……何をした」
ミラは、正直に手を差し出した。
「文字の、勉強です」
ユージンは一度、天井を見た。
深く、ため息をつく。
棚から薬箱を取り出し、傷薬と包帯を放る。
「今日は休め。」
「…でも…」
「業務命令だ、二度は言わん、休め」
「……はい、わかりました」
ミラは、少しだけ困った顔をした。
ユージンは頭を押さえた。
「……こいつは、相当だな」
そう呟きながら、もう一度ため息をついた。
ミラが最初に覚えたのは、
文字ではありません。
「分からないまま、手を伸ばす」という行為です。
床をなぞる指。
血がにじんでも、やめなかった理由。
それは努力でも根性でもない。
――失いたくなかった。
それだけです。
ユージンが彼女に与えたのは、
教育ではなく、
撤退しないという前提でした。
休め、と命じたのは、
優しさではありません。
壊れる前に止めないと、
「使えなくなる」からです。
それでも彼は、
この子が限界を越えることを、
どこかで織り込み済みだった。
ロウの言う通り、
ユージンは素直ではありません。
だが一つだけ、
彼自身も否定できない事実があります。
――この少女は、
「教えられなくても学ぶ側」の人間だった。
それは、
志制度が最も扱いにくい種類の存在です。
次の章から、
ミラは守られる側ではなくなります。
まだ何者でもないまま、
自分で積み上げてしまう側へと、
静かに足を踏み入れていきます。
裏通り R-7 は、
今日も何事もなく機能しています。
けれどこの日から、
その事務所には――
制度が想定していない“芽”が、
確かに根を張り始めました。




