第3章 代筆屋の助手(後編)
この章で起きる出来事は、
救済でも、覚悟でも、決断でもありません。
ただの行き違いと、
少しの打算と、
切り捨て損ねただけの選択です。
ユージンは誰かを救おうとしていません。
少女も、世界を変えようとはしていない。
二人とも、
**「今夜をどうやってやり過ごすか」**しか考えていません。
志制度は、
人を導くために存在しているわけではありません。
ただ、年齢と書類と水晶によって、
扱い方を決めているだけです。
この章は、
その制度の外側で生きていた二人が、
偶然、同じ屋根の下に入ってしまった――
その瞬間を描いています。
ここから先は、
善悪では整理できません。
合理でも説明しきれません。
ただ一つ言えるのは、
この夜を境に、二人とも「安全な位置」には戻れなくなった
ということだけです。
ボンクラの一件以来、退屈な日々が続いている。 適度な代筆で、適正な報酬を得る。誰にも管理されず、命じられもせず、気に入らない依頼は断れる。かつて欲しかった自由そのものだが、手に入れてみると拍子抜けするほど平坦だった。危険もなければ、緊張もない。ただ、日付だけが律儀に進んでいく。
部屋は相変わらずだった。 机の上には書きかけの志、没にした構文、乾ききったインク瓶。床には丸めた紙と、いつ脱いだか覚えていない外套。火を入れなくても仕事はできる。実際、ここ数日は寒さすら感じなくなっていた。それでも、部屋を片づけないと仕事は減る。入口から見える範囲が荒れているだけで、客は引き返す。聖省の建物と同じだ。中身より外見を信じる。
そろそろ掃除のアルバイトでも頼むか。 そんなことを考えながら、足元の紙を一枚拾い、目を通し、結局また床に落とした。必要なものと不要なものの区別をする気力が、今日はなかった。
そのとき、ノックもなく扉が開いた。
「よう、生きてるか? 詐欺師!」
「ぬかせ、疫病神」
情報屋は当然のように入ってきて、散らかった部屋を一瞥し、空いている椅子に腰を下ろした。遠慮という概念を持たない男だ。
「相変わらずひでぇ部屋だな。志を書く場所じゃねぇ」
「志を書く場所は頭の中だ。部屋は関係ない」
「そういう理屈こねるから、太客を落第させんだよ」
情報屋は笑いながら、用もないのに机の上の紙を一枚つまみ上げ、すぐに戻した。
「面白い話がある」
「面白い話は、だいたい面倒だ」
「正解。だから持ってきた」
「はぁ......わかった。とりあえず聞こう」
話は、E ランクの少女だった。 十三歳前後。城内の商店、倉庫、裏路地を渡り歩き、代筆屋を探しているという。名も知らないくせに、職業だけを頼りに。
「十五にもなってねぇ」
ユージンは低く言った。
「志も出せない年だろ」
「だからこそだ。道理が通らねぇ話は、すぐ噂になる」
最近では町のちょっとした話題らしい。 必死に探している。誰かに聞いて回ってい
る。裏通りの名前まで口にしている。
「このまま行きゃ、聖省の耳にも入る」
情報屋は軽く言ったが、その意味は重い。
「安全な職業だって言ってたのは誰だ?」
「お前だ」
「訂正しとくか」
「年貢の納め時かもな、ま、せいぜい気をつけな! ただ、面白そうだから、そのガキンチョが俺のところに来たら、お前のこと紹介しておくぜ!」
情報屋は冗談めかして言いながら、帰っていった。
「勘弁してくれ。面倒ごとは嫌いなんだ」
ユージンは部屋を見回しながら、一人呟いた。散らかった床、無秩序な机。 掃除を頼むか。しばらく店を閉めるか。 あるいは――。
「やれやれ......」
と言って彼もまた店を出るのだった。
*
それから十日ほどが過ぎた。 噂の少女は、結局見つからないままだった。
「まったく......噂ばっかり一人歩きしやがって」
ユージンは昼の街を歩きながら、独りごちた。 アイギス連邦の昼間は騒がしい。露店の呼び声、荷車の軋む音、役人の靴音。人は多いが、顔はどれも似ている。志制度
のもとで削られ、均された結果だ。誰もが自分のランク相応の振る舞いしかしない。Eランクの少女など、その中に溶け込めば見分けはつかない。 裏通りも、商店街も、倉庫街も当たった。 それでも見つからない。
「人探しってのは、本当に性に合わん」
夕方が近づき、空気が少しずつ冷えてくる。 ユージンは考えを切り替え、城門へ向かった。E ランクは日没までに門を出なければならない。探すなら、そこが一番確実だ。
城門前は、昼とは別の喧噪に満ちていた。 仕事を終えた E ランクたちが、ぞろぞろと列をなして外へ出ていく。疲れた顔、無言の足取り。門の内と外を分ける線を越えた瞬間、彼らは「市民」ではなくなる。
「便利な制度だ」
ユージンは壁にもたれ、眺めながら思う。 十五歳で志を固定し、階級を決める。上は安心し、下は諦める。流動性のない社会は、管理する側にとって実に都合がいい。疑問を持つ前に、人生が決まるのだから。 城門の影が長く伸び、閉門の時間が近づ
く。 そのときだった。
「おい、そこの子」
門番の声が、少し高い。 列から外れ、立ち尽くしている少女がいた。痩せた肩、擦り切れた外套。明らかに時間に間に合っていない。
「通行証は?」
「......ありません」
門番が眉をひそめる。
「閉門時間は過ぎている。今すぐ外に出るなら大目に見てやる。でなければ、連行す
る」
少女は一瞬、口を開きかけて、言葉を探すように視線を泳がせた。
「......代筆屋を、探していて......」
その言葉に、ユージンの眉がわずかに動いた。 門番は鼻で笑う。
「代筆屋? そんな理由が通ると思うか?」
「あと、少しだけでいいんです。お願いします!」
それ以上は言わせなかった。
「まぁ、まぁ、両方ともちょっと落ち着いたらどうだ?」
ユージンが前に出る。 門番が怪訝そうに睨む。
「その子の身元は俺が引き受ける。一晩だけだ」
「......貴様、何者だ?」
ユージンは一瞬だけ考え、肩をすくめた。
「物書きだよ。最近噂の代筆屋をテーマにした小説を書きたくてね」
そういいながら、門番にそっと近づいた。 わずかな沈黙。門番はほほを緩めた顔で『型通りの言葉』を紡ぐ。
「厄介事を持ち込むなよ。次は通さん」
門が閉まる。重い音が、空に響いた。 少女は呆然と立ち尽くしていた。
「......あの」
「話は後だ」
ユージンは背を向ける。
「とりあえず、今日は凍えずに済む。ついてこい」
そう言って歩き出す。 背後で、少女が慌ててついてくる気配がした。
少女は、数歩遅れて歩きながら、何度も口を開きかけては閉じていた。 礼を言うべきなのは分かっている。だが、言葉が追いつかない。
「......あの、ありがとうございました」
ようやく絞り出した声は、思ったより小さかった。 ユージンは振り返らない。
「勘違いするな。一晩だ。代筆屋なんて与太話を信じるあんたが面白いと思ったんでな」
淡々とした声だった。 助けたという実感も、善意も、そこにはない。
「代筆屋を探してたって言ったな。そんな存在を信じてるのか?」
「......はい」
「理由は?」
少女は一瞬だけ迷い、それから答えた。
「......落とされた人から聞いて、でも、私は、ランクを、上げたくて」
足音が止まる。 ユージンは初めて振り返り、少女を見た。 その目は、値踏みでも同
情でもなく、ただ事実を見る目だった。
「期待しないほうがいい」
そう言って、再び歩き出す。
「それでもいいなら、知ってる範囲で話は聞いてやる」
少女は小さくうなずき、今度は迷わず後を追った。 部屋に入ると、ユージンは無言で火を入れた。 炎が立ち上がり、冷え切った空気がわずかに緩む。少女はその様子を、少し離れた場所から見ていた。椅子に座るよう促されても、すぐには動かなかった。座っていい場所なのか、判断がつかなかったのだ。
「話せ」
短い一言だった。 責める調子でも、急かす様子でもない。ただ、時間を割くと決めた人間の声。 少女は一瞬迷った。目の前の、この『物書き』だと言った人を信じていいのか? でも、初めて E ランクの私に「話せ」と言ってくれた人だ......少女は意を決して話し始めた。
「......すぐに、ランクを上げたいんです」
言葉は、思っていたよりも素直に出た。
「代筆屋は......魔法みたいに、志を書き換えてくれる人だって聞きました。書くだけ
で、人生が変わるって」
ユージンは相槌を打たない。 少女は続ける。
「城の中で暮らしたい。門を気にせず、夜に追い出されなくて......あったかい布団で、眠れるようになりたいだけです」
それだけだった。 富も、名誉も、上のランクも出てこない。 ただ、人として最低限の生活。 ユージンはしばらく黙っていた。火のはぜる音だけが響く。 やがて、淡々と口を開く。
「十五にならないと、その権利は発生しない」
少女の目が揺れる。
「志を提出できるのは、十五歳からだ。今の願いは、制度上、存在しない」
言葉を選ばない。 事実だけを並べる。
「あと二年だ。その間、生き延びなきゃ、意味がない」
少女は何も言えなかった。 反論も、質問も、涙も出てこない。ただ、胸の奥が冷えていくのを感じていた。 その沈黙を破ったのは、扉の音だった。 ノックもなく、勝手に開く。
「よう、詐欺師!」
耳障りなほど明るい声。
「代筆に飽きて、今度は女の子を連れ去ったって聞いたぜ!」
情報屋だった。 いつもの調子で笑いながら部屋に入り、空気をかき回す。 その瞬
間、少女ははっと顔を上げた。 ———————代筆。 確かに、今その言葉を聞いた。 ユージンは、ため息をつきそうになるのをこらえた。 だからこいつのこういうところが嫌いなんだ! 余計なことを、余計なタイミングで、余計な言葉にしてしまう。 ここまで積み上げた沈黙も、慎重に並べた事実も、全部ひっくり返しかねない。 期待を生む言葉は、いつだって無責任だ。
ユージンは何も言わず、情報屋を睨んだ。 少女の視線が、ゆっくりとこちらに向くのを、全身に感じていた。 情報屋は、少女とユージンを交互に見て、さすがに口をつぐんだ。 いつもの軽口が、場違いだったことに気づいたらしい。
「......あれ?」
珍しく歯切れが悪い声だった。
「もしかして、まだ名乗ってなかった?」
少女は状況を飲み込めず、二人を交互に見ていた。 代筆という言葉。 噂の存在。
そして目の前にいる、無愛想な物書き。
「......この人が?」
震える声がこぼれる。
「代筆屋、なんですか?」
ユージンは答えなかった。 否定も肯定もせず、椅子に深く身を沈める。 その顔にあ
ったのは期待でも警戒でもない。ただ、完全な諦めだけだった。
「違う」
ようやく出た声は、ひどく乾いていた。
「俺は物書きだ。志を書くだけの人間じゃない」
情報屋が眉をひそめる。
「おいおい、今さらそれかよ。噂になってんだぞ?」 「噂は勝手に歩く」
ユージンは吐き捨てる。
「E ランクのガキが代筆屋を探して城内をうろついてる、とかな」 「それだけじゃねぇ」
情報屋は肩をすくめた。
「そのガキが夜になっても戻らねぇ。で、最後に一緒にいたのがお前だ」 「......くだらん」
「くだらねぇ噂ほど、聖省は好きだろ?」
にやりと笑い、情報屋は少女を指さす。
「安心しな、嬢ちゃん。こいつがあんたの探してた“裏通り R-7 の代筆屋さん”だ」
少女は立ち尽くしたまま、言葉を失っていた。 期待してはいけない。そう分かっているのに、胸の奥がうるさく騒ぐ。今、このチャンスだけは逃してはいけない!
「......私」
思わず口を挟んだ。
「私を、ここで雇ってもらえませんか!」
ユージンは即座に首を振る。
「無理だ。未成年、E ランク、読み書きも怪しい。雇う理由が一つもない」
正論だった。 情報屋も一瞬、言葉を失う。
「でもよ」
すぐに口角を上げた。
「放り出したら、どうなる?」
ユージンは黙った。 答えは分かっている。
「嬢ちゃん、失意のまま野垂れ死にだ」 「......後味、悪くねぇか?」 「感情論だ」 「人生なんて、だいたい感情論だろ」
少女は拳を握りしめていた。 拒まれている。それでも、完全には切り捨てられていない。
「給料はいりません」
ぽつりと言う。
「掃除でも、使い走りでも......字も、覚えます」
ユージンは目を閉じた。 最悪だ。 一番嫌いな説得の形だった。
「な?」
情報屋が肩をすくめる。
「助手だよ、助手。身元引受人も正式にやっちまえ。城門の外で寝かせずに済む」
長い沈黙の末、ユージンは深く息を吐いた。 ここで切れば、こいつは死ぬ。 目覚め
が悪い。 それだけの理由で十分だった。
「......期限付きだ」
低い声が落ちる。
「住み込み。給料は最低限。十五になるまで」
少女の顔が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「礼を言うな」
ユージンは顔を背けた。
「面倒ごとを抱えただけだ」
情報屋は満足そうに笑う。
「ほらな。向いてんだよ、お前」
ユージンは答えなかった。 ただ、心の中でだけ思う。 ――だから、人と関わるのは
嫌いなんだ。 だがその言葉は、もう何の役にも立たなかった。
ユージンが少女を引き取った理由は、
正義でも、同情でもありません。
放り出したら死ぬ。
それを理解してしまった。
――それだけです。
それは優しさではなく、
現実を正確に見てしまった者の不作為に近い。
一方で、少女が差し出したものも、
忠誠でも希望でもありません。
彼女が差し出したのは、
「条件を飲む」という意思だけでした。
給料はいらない。
期限付きでいい。
それでもいいから、
ここにいさせてほしい。
この世界では、
それは十分すぎるほどの“契約”です。
情報屋の軽口が示すように、
噂はもう走り始めています。
代筆屋。
Eランクの少女。
城門を越えなかった夜。
誰もが勝手な意味を付け、
勝手な物語を作るでしょう。
けれど、この時点で確かなのは一つだけ。
ユージンは、
「志を書く仕事」ではなく、
「誰かの人生に関与する仕事」に、足を踏み入れてしまった。
それを自覚するのは、
もう少し先の話です。
裏通り R-7 は、今日も静かです。
だがその静けさは、
もう以前と同じものではありません。
それでも、少女はきっと「運命」と巡り合えたのだと思います




