第3章 代筆屋の助手(前編)
この章では、
志を失った者ではなく、
最初から志を与えられなかった者の視点が描かれます。
城の外には、罰として落とされた人間だけがいるわけではありません。
制度に参加する資格を、最初から与えられなかった人間がいます。
彼らは反抗しません。
怒りもしません。
ただ、書き方を知らない。
この章に登場する少女は、
志という言葉を、意味ではなく噂として知ります。
制度は彼女に説明されず、
代筆という行為も、呪いとして歪められて伝わる。
それでも人は、
「ここから出られるかもしれない」という言葉に、
想像を与えてしまう。
この章は、
希望が芽生える瞬間の物語です。
ただしそれは、
正しい理解によってではなく、誤解によって生まれた希望です。
城門が閉まる音は、遠くで鳴る。 合図のようなものだが、誰も振り返らない。振り返っても、開くことはないからだ。 門の外には人が残る。毎日同じ顔ぶれで、顔ぶれは覚えていないのに、同じだと分かる。数日前に何やら城内の人間が落とされてきたことがうわさになっていた。川は近く、日の明かりが残っているうちに寝る準備を済まさなければいけない。石の上に衣服を並べ、乾く前に着る。夜は冷える。
配給は十二歳までだった。年を越えた日から、袋は渡されなくなった。理由は聞いていない。それがここでのルールだからだ。 十三歳からは、昼は城内で働く。荷を運び、床を磨き、名を呼ばれない仕事をする。書類には志の欄があり、最初から空いている。ここを埋めたら、こんな生活から脱出できるらしいが、そもそも、埋め方を教わったことはない。誰もやり方を知らない。
日が傾くと、門の影が長くなる。 その線を越える前に外へ出る。外に出損ねたら、私たちは人として働くことすら許されなくなる。 そんな毎日が淡々と繰り返されると思っていた。 昼になると、門の内側で人手が足りない場所に呼ばれる。荷を運び、床を磨き、指示には返事をしない。返事を期待されていないからだ。賃金は決まっておらず、渡されるかどうかも相手次第だった。文句を言えば、次の日は呼ばれない。それだけのことだった。昼の仕事は、夜のパンとミルクのためだけに存在する。その日、仕事帰りの道で人だかりができていた。城壁の下に、身なりのいい男が座り込んでいる。
「代筆屋のせいだ」
男は何度もそう言った。志を書かせた、騙された、あんなもの信じるんじゃなかった。
誰に向けるでもなく吐き出す言葉は、やがて罵声に変わった。周囲は距離を取り、誰も近づかない。何を言っているのか全く分からない。ただ、その男が数日前にかなりのランクからここまで落とされたと話題になった男だということだけは理解できた。
少女は、その言葉の意味を知らなかった。 代筆屋。人を E ランクに落とす仕事。そういう呪いのようなものだと思った。書いたもの一つで、城の外に放り出される。近づいてはいけない存在だ。知らない方がいい。 夜、川で身体を洗い、濡れた服を着て横になる。目を閉じると、昼間の男の声が残っていた。志とは何なのだろう......。13 歳になったあの日に門番から見下ろされながら渡された用紙......
「この欄を埋められたら、ここから出られるかもな。まぁ、お前ら E ランクには無理だろうが」
と渡された用紙には「埋めるべき欄」があるが......
何を書いたらいいかもわからない......。
代筆という言葉におびえたあの日から、何回めかの朝を迎えた。 その日も少女は、城内の商店で日雇いの仕事をしていた。棚の裏を拭き、床に落ちた紙屑を拾い、言われたことだけを黙ってこなす。昼前、店の裏口が騒がしくなった。荷馬車が止まり、木箱が運び込まれる。配達だ。
「店長、荷物です」
声が飛ぶが、店長は奥で客の対応に追われている。顔も出さずに叫んだ。
「その辺に置いといてくれ。ああ、受取は......すまねぇ、代筆しておいてくれ!」
その言葉に、少女の肩が小さく跳ねた。 代筆。 呪いの名前だと思っていた。人を一瞬で城の外に落とす、危険な行為。視線が自然と、声を掛けられた店員に向く。男は
何のためらいもなく、帳簿を引き寄せた。
「はいはい」
そう言って、さらさらと名前を書き、判を押す。受取証を切り離し、配達員に差し出した。
「はいよ」
配達員はそれを受け取り、何事もなかったように去っていく。 少女は、その一連の動きをぼんやりと見ていた。何も起きない。誰も落とされない。城壁も鳴らない。
「何見てるんだよ?」
気づいた男が、不思議そうに声をかける。 思わず口が動いた。
「代筆って......呪いじゃないんですか?」
一瞬の沈黙のあと、男は吹き出した。
「ははっ、E ランクって本当に面白いな。代筆が呪いだって?」
肩をすくめて言う。
「代筆ってのはな、代わりに書いておくって意味だ。わかったら、さっさと仕事戻れ。店長に怒られるぞ」
そう言って、男は去っていった。 少女は、頭の中がうまく整理できないまま、布を握り直た。 代筆。 恐ろしいものではないらしい。 それでも、胸の奥に残ったざらつきは、消えなかった。 その日の夜、代筆の本当の意味を知った彼女は、あの男のもとに向かった。
城壁の下で、男は今日も座り込み、誰に向けるでもなく毒づいていた。
「代筆屋が悪いんだ」
近づく前から、その声が聞こえる。
「文章が気に入らなかった。だから、書き直した。それだけだ。俺のほうが、正しいことを書いた」
少女は、勇気を出して声をかけた。
「......代筆屋さんが、書いたんですよね」
男は鋭く睨み返した。
「なんだ? おまえ......まぁ、いい。そうだ。でもな、あいつの文章は綺麗すぎた。俺にふさわしい志じゃなかった。だから直した。俺にふさわしい力に満ちた志にだ! そしたらどうだ! 水晶は C ランクだとぬかしやがった!」
吐き捨てるように続ける。
「全部間違っているんだ! 俺を認めない水晶も、あんな戯言を書いた代筆屋も、全部! 全部! 何もかも間違っている!!」
少女は、黙って聞いていたが......思わず聞いてしまった。
「もし、代筆屋さんの書いたとおりに出したらどうなったの?」
「は、知るかよ! あの代筆屋は『B ランクの可能性がある』とかぬかしていたが、僕の改善で C ランクなら、せいぜい D ランクにしかならねーゴミ代筆だ! くだらないこと聞くな!」
そう言い切ったあと、男は少女を見下ろす。
「あ? お前まさか、代筆屋に興味があるのか? やめておけ、お前ら底辺には関係ない話だ。代筆屋なんて、頼めると思うなよ。お前らが一生かけても、あの代金は払えない」
少女は、最後に放った男の言葉など聞こえていない。D ランク......『代筆屋に頼めば、D ランクになれる!』それだけが頭の中で繰り返されていた。
少女は、何も知らないままではありません。
彼女は、自分なりに観察し、考え、
「代筆は呪いではない」と気づきました。
それは、この世界では立派な知性です。
しかし同時に、
彼女は最も危険な結論にも辿り着いてしまいます。
――代筆屋に頼めば、ランクが上がる。
それは半分だけ、真実です。
そして半分は、致命的な誤解です。
代筆は、救済ではありません。
出口でもありません。
ましてや、努力の代替でもない。
ただ、
志という制度に、文章として参加するための手段に過ぎない。
それでも、
何も持たない場所にいる者にとって、
「Dランクになれるかもしれない」という言葉は、
十分すぎるほどの光になります。
この章で描かれたのは、
制度が人を切り捨てる瞬間ではなく、
制度が人を引き寄せてしまう瞬間です。
次の章で、
少女はその光の正体を確かめに行きます。
裏通り R-7 へ――
志が売られている場所へ。




