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第2章 金貨50枚の自尊心(後編)

この後編で描かれるのは、

「志に失敗した人間」ではありません。


描かれるのは、

志という制度に“正しく適応してしまった結果”、排除された人間です。


行政区第四庁舎は、暴力の場ではありません。

誰かを貶める言葉も、露骨な差別も存在しない。

あるのは、完璧に整えられた手続きと、

それを疑わない人々の安堵だけです。


ここでは、怒りは異物であり、

疑問は騒音であり、

「自分は間違っていない」という確信だけが、

静かに肯定され続けます。


この章は、

一人の男が落ちていく物語であると同時に、

誰も落としたつもりのない世界の物語でもあります。

 行政区第四庁舎は、R-7の裏通りとは別世界だった。 磨き上げられた白亜の床は、朝の光を柔らかく反射し、天井から吊られた照明は、必要以上に人の影を作らないよう計算されている。音は吸い取られ、声は自然と抑えられた。 ここは、少なくともBランク以上の人間が足を踏み入れるための空間だ。 待合ホールには、控えめだが質の良い衣服を身にまとった人々が並んでいた。派手さはない。だが、誰の顔にも共通しているものがある。 ――安堵だ。 自分はここにいていい。この空気を吸う資格がある。その確信が、背筋を自然と伸ばしている。


「Bで十分だよな」

「うちは家業があるし」

「欲張ると、ろくなことにならない」


  ひそひそと交わされる声は、互いを肯定し合うためのものだった。Bランクとは、野心を抱かないことを許された階級だ。過剰な期待も、過剰な監視もない。それを理解している者ほど、この場で穏やかに微笑む。 その中で、ただ一人、明確に浮いている男がいた。高価な外套。誇張された姿勢。周囲を値踏みするような視線。ボンクラ――エドワードは、内心で鼻を鳴らしていた。


(覇気のない連中だ。Bで満足? だからB止まりなんだ)


 彼の目には、この空間すら仮設の舞台に見えていた。自分は、ここに留まる存在ではない。やがて上へ行く人間だ。 番号が呼ばれる。一人、また一人と前へ進み、水晶の前に立ち、スクロールを差し出す。水晶は沈黙したまま淡く光り、数秒後、ランクを告げる。


「Bランク、維持」


 その言葉に、軽く息を吐き、深く頭を下げる人々。拍手はない。歓声もない。それでいい。ここはそういう場所だ。 やがて、ボンクラの番号が呼ばれた。彼は、わざとゆっくりと立ち上がり、周囲を一瞥してから前へ進んだ。視線が集まる。それを、期待だと誤認しながら。水晶の前に立ち、スクロールを提出する。 自信があった。構文は完璧だ。自分の言葉で「強化」した。代筆屋など、所詮は下請けだ。 沈黙。 数秒。

そして、水晶が告げた。


「――Cランク」


 一瞬、意味が理解できなかった。 次の瞬間、背後から、抑えきれなかった空気が漏

れ出す。

「......C?」

「今の、Cって聞こえた?」

「Bじゃなかったのか?」


 小さな笑い声。同情ではない。安堵と優越が混じった、乾いた音。ボンクラの顔が、赤く染まった。


「ふざけるな!」


彼は水晶ではなく、役人に詰め寄った。


「おかしいだろ!? この志のどこがCなんだ! ちゃんと読んだのか!?」


 役人は表情を変えない。規定通り、距離を保ったまま答える。


「判定は水晶が行います。我々に裁量はありません」

「嘘だ! 代筆屋が言っていた! 本来ならBは確実だって!」


 その瞬間、空気が一段、冷えた。周囲の視線が、一斉に集まる。好奇心ではない。警戒だ。


「代筆屋?」

「志の代筆......?」

「そんな馬鹿な......」


 役人は、わずかに眉を動かしただけで、淡々と言った。


「水晶の判定は絶対だ、他者の代筆した偽物の志を見破れないとでも思っているの

か? 言い訳をしたいならもう少しまともな設定を考えるんだな」


 短い沈黙。

 そして、周囲から、今度ははっきりとした笑いが起きた。


「はは......」

「言い訳にしても、ひどい」

「Cランク判定も水晶からの温情じゃねーの? 笑」


 エドワードの理性が、完全に切れた。


「違う! 悪いのは水晶だ! 何が志だ! 僕の有能さを理解できない制度なんて狂っ

てる!!」


 声が、ホールに反響する。 その瞬間。


 音が、消えた。 誰も笑わない。 誰も囁かない。 役人の声が、静かに響く。


「――志制度への侮辱と判断します」


 即座に、警備が動いた。抵抗する腕を押さえられ、引き離される。


「待て! こんなの間違ってる! 僕は――!」


 最後まで言葉は届かなかった。


「Eランク、即時降格」


 その宣告は、判決ではなく、処理だった。連行されていく背中を、誰も追わない。視線は、すでに自分の番へと戻っている。 ホールの空気は、ほどなく元に戻った。 白亜の床。 柔らかな光。 静かな安堵。 水晶は、何事もなかったかのように、次の番号を待っていた。


 エドワードの名は、家の中から消えた。 食卓に並ぶ皿は一枚減り、廊下の突き当た

りにあった扉は、いつの間にか物置に変わっていた。 父親は新聞を畳み、母親はカ

ップを口に運ぶ。


「......E ランク、ですってね」


 母が言った。声に驚きも落胆もない。ただ事実を確認するだけの口調だった。


「聞いたよ」


 父は短く答えた。


「まさか、うちの子が、ね」

「最初から違和感はあったわ。あの子、志について何も語らなかったもの」

「血の問題じゃない。育て方でもない。――運が悪かっただけだ」


 母はうなずき、話はそこで終わった。 エドワードの部屋だった場所に、もう彼の痕跡はない。 名前も、写真も、存在の余白すら。 その夜、両親はいつも通り眠りについた。 まるで最初から、子などいなかったかのように。

*

 情報屋は笑いながら酒をあおった。


「派手だったなぁ。B ランクから E ランク直行だぜ? なかなか見ない落ち方だ」


 ユージンはカウンターに肘をつき、氷の溶けかけたグラスを指で回している。


「おまえさんにしちゃ珍しい。わざと外したのか?」

「ちゃんとやったさ」

「へえ」

「でも、あのボンクラが勝手に暴走した。それだけだ」


 情報屋は肩をすくめる。


「噂じゃ、代筆屋のせいだって叫んでたらしいぜ。そろそろ廃業か?」


 ユージンは鼻で笑った。


「言ったろ。代筆は、もっとも安全な仕事だ」

「ほう?」

「彼らは水晶が間違うなんて思ってない。ましてや、代筆を見抜けないなんてな」


 ユージンはグラスを置いた。


「それを認めたら――」


 情報屋が続きを促す。


「認めたら?」


 ユージンは一瞬だけ、視線を宙に泳がせた。


「さぁな、良くなるかもしれんし、もっと悪くなるかもしれん」


 情報屋は笑えなかった。 裏通りの夜は、いつもと変わらず暗かったが、どこか、取り返しのつかない線を越えた気配だけが、確かに残っていた。


エドワードは、特別な存在ではありません。


志を語れなかったことも、

自分を過大評価していたことも、

怒りを制御できなかったことも、

この世界では珍しい欠陥ではありません。


問題は、

それらがすべて「制度上、正しく処理できてしまった」ことです。


水晶は誤らない。

役人も職務を逸脱しない。

家族も、規範に従っただけ。

誰一人、悪意を持っていない。


だからこそ、

エドワードの名前は、静かに消えました。


ユージンは彼を救いませんでした。

しかし、彼を壊したのもユージンではありません。


代筆とは、未来を保証する仕事ではない。

壊れ方を、少しだけ選ばせる仕事です。


この章で越えたのは、

誰かの一線ではなく、

世界そのものの“戻れない線”だったのかもしれません。


裏通りは今日も暗く、

水晶は今日も静かです。

そして明日もまた、

「間違っていない処理」が、淡々と続いていきます。


——

もし、どこかで胸に小さな違和感が残ったなら。

それは、この世界がまだ完全ではない証拠です。

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― 新着の感想 ―
欲は身を滅ぼしますね。果たしてEランクでやっていけるのでしょうか。そして、両親もあまりにも冷たい。すごく面白くて興味深い作品です。
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