第2章 金貨50枚の自尊心(中編)
端末の光が、部屋の埃を照らす。 ユージンは椅子に深く腰を沈め、昼とも夜ともつかない時間帯のまま、画面をスクロールしていた。検索対象は、さきほどの男――胸に付けていた企業のバッジ。 あんな悪趣味な金細工で作られたバッジなんて数少な
い、どこのボンクラ息子かくらいは調べておいて損はない。どうせ、あのボンクラは自己評価を変えることなどできないのだ。
表示された企業名を見て、ユージンは小さく鼻を鳴らした。 ――――なるほど。 連
邦内でも指折りの大手。 インフラ、教育、公共事業にまで食い込んでいる、いわゆる「潰れない企業」だ。 A ランクの官僚が、引退後に顧問や役員として名を連ねる。 天下り先として、これ以上ないほど出来上がった器。 ユージンは端末を閉じ、外套を羽織った。少し、話を聞きに行く必要がある。
*
酒場は、裏通りのさらに奥にあった。 場末ではあるが、完全な吹き溜まりではない。
騒がしすぎず、静かすぎず、余計な詮索をされない。 カウンターの奥にいる男――情報屋は、ユージンの姿を見ると、特に驚く様子もなくグラスを拭き続けた。
「珍しいな。まだ生きてたか。この詐欺師(笑)」
「おかげさまで。ただ、詐欺師というのはいただけないな」
ユージンは席に腰を下ろし、軽く笑いながら、酒を注文する。
「ある企業について教えてほしい」
情報屋は、手を止めずに言った。
「金は?」
「あとで払う。情報の有用性次第で追加は検討する」 「相変わらずだ」
ユージンは、さきほど調べた企業名を告げた。 情報屋は一瞬だけ目を細める。
「ああ......そりゃ、庇護が厚い。超優良企業だよ」 「どのくらいだ」 「S ランクになれない、A ランクの退職先としては、最上位だな。下手に触ると、聖省からじゃなく、横から刺される」
ユージンは酒を一口飲む。
「となると、ほとんどの A ランクの隠居先ってことだな。本人は、分かってないだろうな」
「だろうな。B クラスの坊ちゃんに、そんな裏は見えない」
少し間が空く。
「......なあ、ユージン」
情報屋が、珍しく視線を向けた。
「いつまで、代筆なんてやってる? 聖省にばれたら、良くて終身刑だぞ」
問いは軽いが、核心を突いている。 ユージンはグラスを置き、肩をすくめた。
「心配するな、代筆業は世界で一番、安全な職業さ」
情報屋が笑う。
「本気で言ってるなら、相当だぞ」
「本気だ」
「なら、なんでだ」
情報屋は言葉を選ばない。
「なんで、顧客に口外させない? 評判が立てば、仕事はいくらでも来る」
ユージンは、何をいまさらという表情で、当たり前のように答えた。
「面倒だ」
「......それだけか?」
「仕事が増えるのは、好きじゃない」
それ以上の説明はしない。情報屋はしばらく黙り込み、やがて息を吐いた。
「変わらんな、お前は」
「そうか?」
「ああ。制度の中で一番、制度を信用してない」
ユージンは否定しなかった。酒を飲み干し、立ち上がる。
「代金は、いつもの口座に。追加料金はお前さんの良心を信じるさ」 「了解だ」
外に出ると、通りは相変わらず灰色だった。 ユージンは思う。 ――――あのボンク
ラは、安泰が「保証」された歯車になることができる。 ――――分をわきまえて B ランクでいれば一生苦労しないのにな。 それを教える義理はない。 仕事は、仕事だ。ボンクラが望むなら「仕事」をするだけだ。 ユージンは足取りも軽くないまま、裏通りを戻っていった。
*
その日の夜、彼は自室のベッドに仰向けになっていた。 天井を見つめながら、昼間
の出来事を反芻する。
―――口外するな。
あの代筆屋は、そう言った。 つまり。つまり、だ。 バレたら困るということだ。 やましい仕事をしているから、秘密にしろと言ったに違いない。 彼は満足そうに息を吐いた。 これで主導権は自分にある。そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。 自分の言うことを聞かせられる。 自分は、強い立場にいる。そうだ、僕はこれからは「強い立場」に居続けなければいけないんだ! その安心感に浸っていると、ノックもなく扉が開いた。
「どうだ?」
父の声。続いて、母が顔を覗かせる。
「もうすぐ審査でしょう? ちゃんと書けたの?」
彼は上半身を起こし、にこやかに笑った。
「大丈夫だよ、パパ。ママ」
自信満々に言う。しかし、その目には一瞬、ほんの一瞬だけ両親に対する侮蔑の色
が映った。
「ちゃんと、準備しているよ。我が家に恥じない結果を導いて見せるさ!」 「そう。よかったわ」
母はほっとしたように胸を撫で下ろす。
「あなたは本当はできる子なんだから」
「そうだぞ。お前なら、もっと上に行ける」
疑う様子はない。確認もしない。彼らにとって重要なのは、“うまくいっている”という報告だけだった。
「ありがとう。任せて。僕がパパとママを安心させてあげるからね」
そう言うと、父母は満足そうに部屋を出ていった。 扉が閉まる。静寂が戻る。彼は再びベッドに倒れ込み、薄く笑った。
「......ふん。負け犬に興味はないさ。あなたたちはいつまでも引退したあの老害にこ
びへつらっていればいいんだ。でも、僕は違う。そんな世界から飛び出して、僕にふさわしい立場になるんだ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。天井を見つめたまま、あの日のことを思い出す。 数か月前、1 人の社員を迎えるからと、人員整理が行われ、会社を追われた
家族の中にエドワードの友人がいた。 忌々しげにネクタイを緩める父を見て、あの場で拒めば、もっと多くが切られていたのだろうと理解した。
だからこそ、腹が立った。
どれだけ裕福に見えても自分たちには「決定権がない」のだ。決定権を得るためには
上に上り詰めていかねばならない。あの大賢者に謁見できるその地位まで......どん
なことをしてもたどり着かねばならない。
「代筆屋」
脳裏に、あの無愛想な顔が浮かぶ。将来の A ランクの筆頭候補である僕を見下した
不遜な男。
「もし、僕を A ランクにできなかったら」
声は低く、楽しげだった。
「聖省に告発してやる。そうすれば僕はこの国の異物を自らの身を犠牲にして告発し
た英雄になれる。志が通ればよし、通らなくてもよし、もう僕の勝ちは決まったようなものだ」
彼の脳裏には「彼の描いた未来」が鮮明に映し出されており、それをとがめるものもいなければいさめるものもいない。小さな箱庭で滑稽にほくそ笑むのが彼の限界だった。
*
翌朝、扉は昨日よりもさらに乱暴に開け放たれた。 朝の光と共に滑り込んできたの
は、昨日と同じ高価な外套を纏った男――あのボンクラだった。 彼は椅子に座るな
り、机を指先で叩き、不機嫌さを露わにする。
「さあ、昨日の続きを始めよう。言っておくが、僕は時間が惜しいんだ。A ランクに相応しい人間は、一分一秒を価値創造に充てなければならないからね」
ユージンは、返事の代わりに古い端末の起動スイッチを入れた。画面が青白く光り、部屋の埃を照ら し出す。
「......では、いくつか質問をする。嘘をついても構わないが、整合性だけは保て。水晶は論理の破綻を真っ先に検知する」
「論理性? 僕の得意分野だよ。さあ、何でも聞いてくれ」
ボンクラは自信満々に足を組み、顎を上げた。 ユージンはその滑稽な姿を視界の端
に追いやりながら、最初の問いを投げかけた。
「一つ目。お前の『特質』は何だ。この社会において、他者には代替不可能な、お前だけの価値を述べろ」
ボンクラは待ってましたと言わんばかりに、身を乗り出した。
「それは『圧倒的なビジョナリー・リーダーシップ』だね。僕は物事の本質をパラダイムシフトさせ、常に最適解を導き出すことができる。周りの人間とは、見えている次元が違うのさ。いわば、混沌とした現場に光をもたらす、次世代の羅針盤......。どうだい、書き留めたか?」
ユージンの指は動かない。端末には一行も入力されなかった。
「......つまり、具体的な技能は何も無いということだな。次だ」 「なっ、今の言葉のどこに不足があるんだ!?」
ユージンは無視して二つ目の問いを重ねた。
「二つ目。お前はこの国の何に貢献できる。アイギス連邦という巨大な歯車の中で、お前という部品はどう機能する」
ボンクラは鼻で笑った。
「決まってるじゃないか! 有能な僕が A ランクに行くこと、それ自体が国への貢献な
のさ!! 僕のような選ばれた人間が頂点に立ち、その輝きを愚民たちに見せつけ
る。それが国の活力になる。太陽が昇るのに、いちいち理由が必要か
い?」
(太陽、か。水晶が『肥大化した自意識』と判定するのに三秒もかからないだろうな)
ユージンの声はどこまでも平坦だ。彼はペンを取り、手元のメモに小さく「実体なし」と記した。そして、視線を上げず、最後にして三つ目の問いを投じた。
「三つ目。なぜ A ランクでなければならない。B ランクでも生活は保障されるし、お前の親の資産があれば不自由はないはずだ。リスクを冒してまで『上』を望む、その根源的な動機は何だ」
それまで流暢に、空虚な言葉を吐き出し続けていたボンクラの口が、一瞬だけ止まった。
「それは......当然だろう。僕は選ばれた人間なんだから」
「動機になっていない。もっと個人的な理由だ」
「うるさい!」
エドワードは視線を泳がせ、無意識に胸元のバッジに触れた。企業のロゴが入った、親が用意したであろうそのバッジに。
「パパの......いや、父の会社では、A ランクの連中が再就職される由緒ある会社なん
だ。そんな A ランクの連中にペコペコするパパなんて関係ない! ママも言っていた。
僕が A ランクにならなければ、再就職してきた A ランクの方々に偉そうにされないのにって! 僕だってそうだ。A ランクの連中にこれ以上でかい顔されるわけにはいかないんだ! 今度は僕が奴らを「使う側」になるべきなんだ! ......」
ボンクラの声から、先ほどまでの「うすっぺらさ」の響きが消えていた。代わりに漏れ出していたのは、上位のランク出身者に媚びへつらう親への憎悪、自身の自尊心だ
けの充足を求める貧しい目。だが、そこにほんのわずかだが両親に対する憐憫の色
があり、ボンクラの......「エドワードの本心」が垣間見える。 ユージンの指が、ようやく動き出した。カタカタと、乾いた音が室内に響く。
(......マザコンか、あるいはファザコン。いや、その両方か)
ユージンは確信した。この男の「上位への執着」は、両親への 9 割の侮蔑と 1 割の憐憫、A ランクの連中に対する歪な復讐心の裏返しだ。自分で自分の価値を創れない
からこそ、システムに上位のスタンプを求めている。
「......よし、書けた」
数分後、ユージンは一枚のスクロールを差し出した。
「えっ、もうかい? 随分と早いじゃないか。ふ、ふん、代筆を騙るだけはあるな」
ボンクラはひったくるようにそれを受け取り、目を走らせた。そこには、ボンクラが口にした「ビジョン」や「太陽」といった言葉は一つもなかった。
『私の志は......』
それは、安定した階級社会を重んじる聖省のアルゴリズムが、最も「堅実な経験値と立場の継承」として好むキーワードで構成された、極めて完成度の高い「志」だった。
「......何だ、これ。家庭? 献身? 冗談じゃない、こんな地味な文章!」
「それが『お前の人生の翻訳』だ」
ユージンは椅子を回し、窓のない壁を向いた。
「お前の親が持つ資産価値、それを管理し維持する能力がある、と水晶に思わせる。それが、お前が今の生活を維持できる唯一のパスポートだ。一字一句変えずにそのまま入力しろ。そうすれば、少なくとも B ランクは維持できるかもしれん」
「かもしれない? B の保証もないのか!?」
「五十枚の対価として、最も安全な道を示した。......帰れ。もう話すことはない」
ボンクラは顔を真っ赤にし、スクロールを握りつぶさんばかりの勢いで立ち上がった。
「詐欺だ! こんなの、僕のような天才に相応しい志じゃない! 金だけ取って、こんな
ゴミを渡すなんて......結果次第ではおまえの人生を破滅させてやる! 覚えてお
け!」
喚き散らしながら、ボンクラは扉を乱暴に閉めて出ていった。裏通りの薄暗い階段を降りながら、ボンクラは怒りに肩を震わせていたのがユージンが彼を見た最後となる。
「家族のため? 献身? くだらない! そんな弱々しい言葉が、僕の志だって? 笑わ
せるな!」
彼はスクロールを広げ、その内容を改めて睨みつけた。ユージンが書いた文章は、確かに論理的で隙がなかった。だが、そこにはエドワードが渇望する「特別感」が欠けていた。
「わかってないんだ。あの代筆屋は僕の才能を理解していない。パパもママも、僕が
A ランクに行けば僕より下の存在なんだ。僕が一家の主として、君臨する立場になる
んだよ。......それなのに、感謝だの継承だの、媚びを売るような真似ができるか!」
エドワードは懐からペンを取り出した。
「そうだ。この『家庭』という部分を、もっと力強い言葉に変えればいいんだ。例えば......『帝王学に基づいた統治』とか、『既存の価値を破壊する革新』とか。代筆屋の書いた論理構成(骨組み)は利用して、肉付けを僕好みに変える。......そうだよ、それこそが真の『協働 (コラボレーション)』じゃないか!」
エドワードは立ち止まり、壁にスクロールを押し当てた。ユージンが計算し尽くした「指定構文」の森に、ボンクラの傲慢なペン先が迷いなく突き立てられる。プロが編み上げた繊細な回路が、素人の手によって、見るも無残に「改悪」されていく。
「ふふ、これで完璧だ......。これこそが、僕の真の志だ」
書き換えを終えた彼は、満足げに微笑んだ。そのスクロールが、自分を奈落へ突き落とす片道切符に変わったことなど、露ほども疑わずに。彼は軽やかな足取りで、審査会場のある行政区へと向かっていった。
*
R-7の自室内。 ユージンは、机の上に残されたインクの汚れを、ぼろ布で静かに拭
き取っていた。あの男が、渡した原稿をそのまま出す確率は――。ユージンの経験
上、十パーセントにも満たないだろう。プライドが高く、語彙が乏しく、そして自分の無能さを認められない人間。そういう客は、決まって「プロの仕事」に余計な色を塗る。ユージンは、引き出しにしまった五十枚の金貨の重みを感じた。これは「志」の代金ではない。愚かな男が身のほどもわきまえずに溝に捨てたもっとも価値の無い金だ。
「......掃除は、まだしなくていいな」
ユージンは呟き、明かりを消した。明日のニュースが、今から目に見えるようだった。
「すべてはあのボンクラが自分で決めることだ」
ユージンは誰に言うでもなくそう呟いていた。




