第15章 聖女の代筆 第一幕
アイギス連邦の空は、白亜の塔が反射する光のせいで、夜になっても完全な闇にはならない。 だが、その光が届かない路地裏や、石畳の隙間に溜まった影から、じわりと「毒」のような噂が染み出し始めていた。
若き天才、アーヴェルのSランク就任という歴史的快挙から数か月。 熱狂が冷め、人々が再び自分たちの冷淡な現実に目を向け始めた頃、街の空気は奇妙な「期待」と「疑念」に包まれていた。
「……おい、聞いたか? 西区の運送屋の息子、あいつDランクから、この前の申告でいきなりBに上がったらしいぜ」
「志を、『代筆』してもらったんだってよ」
「おいおい、代筆なんて、そんなの水晶にはじかれんだろ」
「それが、バレない『書き方』があるらしい。……でも、逆にランクを落とした奴もいるって話だ。何が本当なんだか」
最初は、酒場の隅で交わされる冗談のような話だった。 だが、その噂は形を変えながら、Cランクの一般市民街からDランクの貧民街へまで、確かな熱を持って広がっていった。
代筆でランクが上がるなら、必死に机に向かって志を考える必要なんてないのではないか。 正解を金で買えるなら、それが一番の近道ではないか。 そんな淀んだ空気が、街を覆い始めていた。
その空気を、誰よりも敏感に、そして不快感と共に感じ取っている人間がいた。
ランクアップ率九十五パーセントを誇る精鋭塾『ライフ・エナジー』の創設者、レオナだ。
代表室で行われている保護者との面談。 目の前に座る夫人は、以前のような「教育への情熱」ではなく、もっと即物的な、焦燥に近い視線をレオナにぶつけていた。
「レオナ先生。単刀直入に伺いますわ。……巷で噂の『特別な指導』、我が家にも適用していただけないかしら?」
夫人の言葉に、レオナは眉一つ動かさず、いつもの「聖女」の微笑を浮かべた。
「特別な指導、とは何のことでしょうか。当塾のカリキュラムはすべて公開しておりますが」
「とぼけないでちょうだい。志の『代筆』のことですよ。先生が『その気』になれば、うちの子を確実にAランクへ引き上げられるはずでしょう? 私たちは、そのために高い授業料をお支払いしているのですから」
レオナの胸の奥で、冷たい不快感が渦巻いた。
「夫人。志とは、本人の内面から湧き上がるものです。他人の言葉を騙って水晶を欺くことなどできません。……それとも、わたくしの指導では不足だとおっしゃるのですか?」
「……いえ、そういうわけでは。ただ、確実な『結果』が欲しいだけですわ。代筆で上がったという話があちこちから聞こえてくるのに、うちの子だけが馬鹿正直に努力を続けるなんて、損をしているようで……」
はっきりとした依頼ではない。だが、夫人の目は雄弁に語っていた。
――高い金を払っているのだ。結果を、確実なランクを、手段を選ばずによこしなさい。
その視線に晒されるたび、レオナは自分の魂が、汚泥で少しずつ削り取られていくような感覚に陥っていた。
(いっそ……)
不意に、魔が差すような思考が頭をよぎる。
いっそ、自分がその「代筆」を手掛けてしまえば、実績は百パーセントになり、不満げな保護者たちは狂喜乱舞し、自分はさらに高い地位へと上り詰められるのではないか。
だが、レオナはその思考を即座に、激しい嫌悪と共に打ち消した。
代筆という手段を認めることは、すなわち、あのユージン・クレールのやり方を肯定することになる。 それだけは、死んでも御免だった。
夫人が席を立った後、レオナは深いため息をつき、乱れた呼吸を整えた。 そこへ、事務員が遠慮がちにドアをノックした。
「先生……あの方が見えております。本日、急遽面談を希望された……」
「あの方?」
「はい。ライフ・エナジーへの筆頭出資者のお一人、ヴァンクロフト様です」
レオナの顔が、微かに強張った。




