第14章 ミラの志 第5幕
「――そこまでだ」
静かな、けれど有無を言わせぬ響きが路地裏に落ちた。
アーヴェルの背後、影が濃く溜まった場所から、見慣れた外套の裾が揺らめく。 ゆっくりと歩み寄ってきたのは、いかにも面倒そうな表情のユージンだった。
「ユージン……。どうしてここが分かったんだい?」
アーヴェルが驚きを隠さず、眉を寄せる。 こんなに都合よく現れるなんて偶然は起きるわけがない――。 疑問の目を向けるアーヴェルに対して、ユージンはため息をこぼしつつ、どこ吹く風で肩をすくめた。
「お前の飼い犬を少し、会話で嵌めただけさ」
「……なるほど。それは仕方ないな。でも、あまり彼をいじめないでくれよ」
アーヴェルは一瞬で事態を飲み込み、困ったように笑った。 ユージンの「こういうところ」の恐ろしさを誰よりも知っているつもりだったが、今回は上をいかれたようだ。
「それで、俺の助手をかどわかすのはやめてもらおうか、アーヴェル」
「ずいぶんな物言いだね。僕はただ、彼女に道を示そうとしただけだ」
ユージンはミラの隣まで来ると、彼女の頭を軽く叩いて背後に下がらせた。 その手はいつも通り無愛想だったが、ひどく温かい。
「自分で書くと決めた者に、そうやって甘い蜜を渡すのがお前のやり方か? システムに最適化された『正解』を与えて、魂のない記号を量産するのが、お前の望む改革なのか」
ユージンの問いは鋭い。 けれど、アーヴェルの瞳に揺らぎはなかった。
「とんでもない誤解だよ、ユージン。僕は、正しい熱量を持った者が、正しく加工され、正しいランクに収まる社会を作りたいだけさ。……彼女にはその熱がある。だから、相応しい場所へ導きたい。それのどこが間違いなんだい?」
一点の曇りもない、確固たる信念。
アーヴェルの言葉は、この暗い路地裏でさえ白く発光しているかのように眩しい。 彼は本気で、それが全人類にとっての救いになると信じているのだ。
ユージンはそんな彼を、尊敬と、そして深い落胆が混ざった目で見つめた。
「アーヴェル。お前のその『信念』は尊敬する。だがな、この国全員がお前のような強さを持てるわけじゃない。……そこが分からないお前と、話し合う気はない」
ユージンはアーヴェルの返答を待たず、ミラに合図をして歩き始めていた。
「行こう、ミラ。晩飯に遅れるぞ」
「あ……はい!」
去り際、ミラは一度だけ振り返った。 夕闇の底に一人残されたアーヴェルが、遠ざかる彼らの背を見つめていた。
「そうだね。……それでも、僕は、この国を変えたいと思うんだよ」
誰に聞かせるでもないその独り言は、夜風にさらわれて、白亜の塔の彼方へと消えていった。
事務所へ戻ると、使い古されたランプの火が温かく二人を迎えた。
ユージンは外套を着たまま、不意に口を開いた。
「……なかなかの啖呵だったな、ミラ」
その言葉に、ミラは顔を赤くして足を止めた。
「……聞いてたんですか? 本当に、意地が悪い」
「助手の初舞台を見逃す師匠がどこにいる」
ユージンはそう言って、微かに口角を上げた。 あきれたような、けれどどこか満足そうな笑みだった。
「悪かったよ。だが、お前が良い経験をしたようで何よりだ。今日はもうゆっくり休め。余計なことは考えるな。俺はもう帰るから、しっかり戸締りはしておけ」
彼はそう言い残すと、再び扉を閉めて出て行ってしまった。
一人残された事務所で、ミラは自分の手を見つめた。 アーヴェルの前で震えていた指先は、今はもう、不思議と落ち着いている。
(「良い経験」……か)
ユージンは、最初から分かっていたのかもしれない。 ミラが外の世界を見て、迷い、そして自分自身の足で立ち上がる必要があることを。
厳しくて、不器用で、けれど誰よりも自分の「心」を見てくれている師。
ミラは机に向かい、真新しい羊皮紙を広げた。 志の提出まで、残された時間は少ない。
けれど、今の彼女の胸には、かつてのような「気持ち悪い空白」はなかった。
(デニムさんやリーネさんのように。……そして、ユージンさんのように)
自分だけの言葉で、自分の生き方を書き記す。
その輪郭はまだぼんやりとしているけれど、ペンを握る力は、昨日よりもずっと確かなものになっていた。
地下街R-7。 暗い夜の底で、小さな少女が紡ぎ出す言葉の鼓動が、静かに、けれど熱く響き始めていた。




