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第14章 ミラの志 第四幕

Cランクの賑わいから離れ、Dランクの居住区へと続く長い坂道を下っていく。 歩みを止めるたびに、ミラの胸の奥には、出口のない熱が溜まっていくようだった。


(……輪郭は、見えているのに)


デニムさんの笑顔、リーネさんの勝気な瞳。 かつて事務所の椅子で、震える指先を組んでいた彼らは、もうそこにはいない。


彼らは、ユージンが与えた「借り物の言葉」を、自分自身の血肉に変えて、日々を必死に、そして鮮やかに生きていた。


あの日、彼らが手にしたのは単なる「ランク」ではなかった。 今のミラにはそれがわかる。


(私も、あんなふうに。……あんなふうに、言いたい。でも)


頭の中に浮かぶのは、辞書で覚えた無機質な単語ばかりだ。 自分の心にある、この「温かくて、少し苦しい何か」にぴったりとはまる言葉が、どうしても見つからない。


心にある想いと、口から出る言葉の間に、埋めようのない深い溝がある。 その溝を覗き込むたびに、ミラは言いようのない「気持ち悪さ」に襲われた。


食べ物をうまく飲み込めない時のような。 あるいは、大切なものを失くしたのに、それが何だったか思い出せない時のような――。


陽が傾き、建物の影が怪物のように長く伸びていく。 Dランクの居住区は、少しずつ生活の音が低くなり、代わりに機械の駆動音や、遠くで響く警笛の音が混じり始めていた。


事務所へ帰る近道である、人通りの少ない路地に入った時だった。


「――暗い顔をして、どうしたんだい? ミラさん」


不意に上空から降ってきたような声に、ミラは心臓が口から飛び出すかと思った。 振り返ると、そこには服装こそDランクに見えるものを着ているが、それでも街の風景から浮き上がるほど「清潔」な男が立っていた。


「ア……アーヴェル、さん……っ」


数ヶ月前、事務所で文字を教えてくれた時と同じ、穏やかな微笑み。


けれど、今の彼が纏っている空気は、あの頃とは決定的に違っていた。 白亜の塔の頂点、Sランクという「神の座」に就いた彼から放たれる圧倒的な存在感。


彼がそこに立つだけで、煤けた裏路地が、まるで聖堂の一部になったかのような錯覚に陥る。


「こんなところで、何をしているんですか? あなたはもう、もっと高い場所に……」


「視察だよ。新しい制度を作るには、現場の空気を知らなくてはいけないからね。……それで? 君はこんな場所で、何を探しているんだい?」


ミラは躊躇しながらも、正直に答えた。 自分の志を見つけるために、かつての依頼人たちに会ってきたこと。 そして今、自分の言葉が見つからず、苦しんでいること。


「なるほど。ユージンさんは、やはり君に『答え』を渡さずにいるのか……」


アーヴェルは少しだけ目を伏せ、思案するように顎に手を当てた。 その仕草一つひとつが、完璧に計算された芸術品のように美しい。


やがて、彼はミラを真っ直ぐに見つめ、優しく語りかけた。


「ミラさん。志とは『言葉』だが、同時にそれは『記号』でもあるんだ」


「……記号?」


「どれほど高潔な志を抱いても、それを『適した解答』として調整しなければ、評価はされない。水晶は、君の心の温度までは測ってくれないからね」


「君がEランクから脱し、人として正しく扱われるためには、突破すべき『評価基準』がある。……それを知りたいとは思わないかい?」


ミラの喉が、ひきつったように鳴った。


それは、この国で生きる者にとって、禁断の果実のような誘いだった。 「評価基準」を知る。それは、判定という名の運命を、自分の側に引き寄せるということだ。


もう、怯える必要はない。 汚い言葉を浴びる必要もない。 ただ、彼の教える「正解」をなぞれば、光り輝く未来が手に入る。


ミラは、絶句したままアーヴェルを見上げた。


けれど、その時。 ミラの脳裏をよぎったのは、先ほどまで見ていた人たちの顔だった。


クマの名札を付けて笑っていたデニムさん。 厨房で父親と怒鳴り合っていたリーネさん。


「……いいえ」


かすれた声が、自分の口から漏れた。


「いりません。答えは、欲しくないです」


「どうして? 君が見てきた依頼人たちも、代筆という手段で『正しいランク』を得たからこそ、今、幸せに暮らしているんじゃないのかい?」


アーヴェルの問いは、鋭く、そして合理的だった。 一分の隙もない正論に対し、ミラは震える拳を握りしめ、自分の中から湧き上がる確信を言葉にした。


「違います。……あの人たちは、きっと。たとえ代筆がなくて、望まないランクになったとしても……。きっと、その場所で、自分の力で幸せを見つけていたと思います。代筆は……ただの『きっかけ』だったんだと、思うんです」


アーヴェルの微笑みが、わずかに固まる。


「私は、Eランクです。ランクを上げないと人として扱ってもらえないのは、嫌というほど知っています。……でも、それでも」


ミラは一歩、アーヴェルの方へ踏み出した。 白亜の塔の光を背負った彼に対し、影の中に立つ少女は、真っ直ぐに顔を上げた。


「……自分の言葉だけで、書いてみたいんです。たとえそれが、どれほど不格好で、ランクに届かない言葉だったとしても」


夕闇の中、ミラの瞳だけが強く、澄んだ光を宿していた。


アーヴェルは、何も言わなかった。 ただ、理解しがたいものを見るような、困惑した顔でミラを見つめている。


この国のシステムを司り、最適解こそが正義だと信じる彼にとって、あえて非効率な「不格好さ」を望むミラの心は、どんな計算式でも解けない、歪な空白に見えたのかもしれない。


夜の帳が降りる路地。 二人の間に流れる沈黙は、もはや「教育者と生徒」のものではなく、異なる価値観を持って対峙する「個と個」のものへと変わっていた。

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