第14章 ミラの志 第三幕
デニムに会いに行ってから一週間。
この間、ユージンとはまともに会話もしていない。 彼が来たら事務所を追われ、彼が帰宅した後、私が帰るからだ。
最初はとても不安だったが、一人にも少しずつ慣れてきた。 一人の間に、考えることができたから。
…次は誰に会いに行こう……。
地下街R-7から地上へ上がり、さらに三つの検問を越えた先。 そこはCランクの市民が主に居住する「一般市民街」だった。
道幅は広く、石畳は平坦に整えられている。 Dランクの居住区よりも建物の背が高く、一階部分にはパン屋や金物屋、洋裁店などが隙間なく並んでいた。
何より驚いたのは、音と匂いだ。
地下街の音は、何かを叩く金属音や誰かの怒鳴り声といった「刺さる」音が多い。 けれどここには、店先の客寄せの声、子供たちが石蹴りをして遊ぶ笑い声、そして夕餉の準備を急ぐ家々から漂う出汁や焦げた調味料の香ばしい匂いがあった。
生活の匂い。 それも、今日を生きるのに必死な者のそれではなく、明日も同じ日常が来ると信じている者たちの、穏やかな匂いだ。
「――あら、そんなところでぼーっとして。迷子?」
不意に背後から声をかけられ、ミラは肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには大きな木箱を抱えた少女が立っていた。 少し短めに切り揃えた髪に、動きやすそうな麻のシャツ。
かつて事務所に現れた時の「お嬢様」のような装いではないが、その勝気そうな瞳には見覚えがあった。
「リーネ……さん」
「正解。久しぶりね、代筆屋の助手さん」
リーネはにっこりと笑うと、抱えていた木箱をミラの腕に半分押し付けるようにして預けた。
「ちょうどよかった、暇なんでしょ? うちまで運ぶの手伝って。これ、市場で仕入れたての重い根菜なのよ」
「あ、はい……!」
断る間もなく、ミラはリーネの隣を歩き始めた。
リーネはミラの近況を根掘り葉掘り聞くわけではなく、ただ「あの無愛想な先生は元気?」とか「最近の文字の勉強はどう?」といったことを、世間話のついでに投げかけてくる。
ミラがたどたどしく答えているうちに、二人は一際活気のある通りに出た。
「ここよ。私の『職場』」
看板には『まんぷくや』と力強い文字で書かれている。
扉を開けた瞬間、熱気と蒸気がミラの頬を打った。 昼時を過ぎているというのに、店内は作業着を着た男たちや、近所の主婦たちでほぼ満席だった。
「遅いぞ、リーネ! 市場で油を売ってたのか!」
厨房の奥から、リーネの声を太くしたような怒号が飛んできた。
白髪混じりの短髪に、太い腕。 ねじり鉢巻きをした大柄な男が、巨大な鍋を振るいながらこちらを睨んでいる。 リーネの父親であり、この店の店主だろう。
「こっちだって急いでるわよ! 重いのよ、このジャガイモ! ほら、ミラ、そこに置いていいから。お父さん、この子は知り合い。ちょっと手伝ってもらったの」
「知り合いだか何だか知らんが、客を待たせてるんだ。さっさとエプロンしろ! 三番テーブルの煮付け、まだか!」
「わかってるわよ、今やるから急かさないで!」
リーネは煩わしそうに舌を出しながらも、鮮やかな手つきでエプロンを締め、厨房へ飛び込んでいった。
父親の「まだまだ甘いな」という野次に、「うっさい、昨日より早く仕込んでるわよ」とリーネが言い返す。 そのやり取りを聞きながら、カウンターの客たちが「またやってるよ」と楽しそうに笑い、運ばれてきた定食を頬張っている。
ミラは、その光景を呆然と見つめていた。
事務所でのリーネは、自分のランクを守ることが目的で、特に目標もない「一人の少女」だった。
けれどここでは、彼女は誰かの娘であり、店を支える重要な働き手であり、地域の人々に親しまれる「リーネ」という存在そのものだった。 彼女が代筆を依頼してまで守りたかったのは、この、騒がしくて温かい居場所だったのだ。
「……ああ、あんたミラっていうんだってな! 立ってないで座りな。リーネの手伝いをしてくれた礼だ。サービスしてやるから、食べていきな!」
リーネのお父さんがそう言ってくれた。
少し落ち着いた頃、リーネが少し汗を拭いながら、湯気の立つ皿を運んできた。 出されたのは、厚切りの焼魚と、山盛りのご飯、そして具沢山の味噌汁。
地下街で食べていたパンとミルクとは、比べようもないほど豊かな食事だった。 けれどミラにとって、それ以上に衝撃だったのは、それを差し出すリーネの顔が、これまで見た誰よりも晴れやかだったことだ。
食事を終え、日が傾き始めた頃。 ミラは店の出口で、見送りに来てくれたリーネに、どうしても聞きたかったことを尋ねた。
「リーネさん……。今の生活は、満足、ですか?」
リーネは一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、店の中から聞こえてくる父親の怒鳴り声と、客たちの笑い声に耳を傾け、深く頷いた。
「当たり前じゃない。自分で決めたランクで、自分で働きたい場所だもの。いいお客さんたちに囲まれて、本当に幸せよ。私はこの幸せを、何があっても絶対に守り切ってみせるわ」
その言葉には、ただ、自分の足で立っている者だけが持つ、潔い強さがあった。
「じゃぁね、助手さん。あんたも、早く見つかるといいわね。自分が守りたいものが」
手を振って店の中へ戻っていくリーネの背中を見送りながら、ミラはゆっくりと歩き出した。 Cランクの街に、夕焼けが広がっていく。
(ランクが高ければ幸せになれるって、ずっと思ってた……)
でも、デニムさんはDランクで子供たちのヒーローになっていた。 リーネさんはCランクで、この賑やかな日常を愛している。
(幸せを決めるのは、大賢者様の判定じゃない。自分がどう生きたいか、なんだ……)
ミラの胸の奥で、言葉にならなかった「足りなさ」が、少しずつ形を変えようとしていた。 ランクという数字ではなく、自分自身の言葉で「志」を語るということの意味が、夕闇に溶け込む街の灯りのように、微かに、けれど確かに見え始めていた。




