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第14章 ミラの志 第一幕

地下街R-7の朝は、古いインクと埃の匂いで始まる。 代筆屋の事務所を包む静寂は、一か月前とは明らかに質の違うものに変質していた。


ユージン・クレールは、窓のない壁を背に、卓上に積み上がった依頼書の束を指で弾いた。


「……またこの手合いか」


一か月前、あのアーヴェルがSランクに昇格したあの日を境に、事務所の扉を叩く客の層が劇的に変わった。


以前なら、人生の一発逆転を狙う山師や、制度の裏をかこうとする悪党も混ざっていた。 だが、最近訪れるのは、薄汚れた作業着を精一杯繕い、節くれだった指を震わせながら、「ただ、真面目に生きたいだけなんです」と絞り出すような者たちばかりだ。


今朝の一件目もそうだった。


十年間、下水道の清掃員として無欠勤で働き続けた男。 彼は、自分の仕事がいかに街の衛生を支えているかを誇りに思いながらも、その「誇り」を志の定型文に当てはめることができず、Dランクのまま家族を養う限界に来ていた。


「……あんなに、いい人なのに」


来客が去った後、ミラが茶器を片付けながらポツリと漏らした。


「あの人の仕事への誠実さは、隣に座っているだけで伝わってきました。なのに、どうして……。自分で志の言葉を作れないだけで、あんなに申し訳なさそうに頭を下げなきゃいけないんですか」


ユージンは答えない。


彼が断りづらいのは、こういう「言葉を持たないが、魂は腐っていない」人間だ。 彼らの不器用な誠実さは、かつてユージンが聖省で見捨ててきた、あるいは守りきれなかったものそのものだった。


だが、それが連日、それもこの事務所をピンポイントで目指してやってくる。


もともと、1週間に3件あれば多い方だったにもかかわらず、なぜか「ユージン・クレールなら、自分の本当の声を拾ってくれる」という確信めいた期待を抱いた依頼人が、今では1日数件訪れてくるようになった。


(誰かが、こいつらを選んで俺のところに流している……)


作為的な「善意」の匂い。 不器用な者たちが最後に縋る場所として、この事務所を聖域化しようとする誰かの指先。


だが、その正体も目的も、今は霧の向こうだ。


「ミラ、今は休憩だ。仕事よりお前自身のことを優先しろ」


「あ、すみません……。でも…」


「仕事で休憩時間は必須のことだ」


「ありがとうございます」


ミラは慌てて机に向かったが、その背中には隠しきれない疲労が滲んでいる。


彼女は、ユージンの負担を減らそうと、接客から資料の整理、合間の勉強まで完璧にこなそうと躍起になっていた。


だが、ユージンの目から見れば、彼女の学習は止まっている。


知識は増えた。 だが、目の前の「報われない誠実な人々」の悲鳴をまともに浴び続け、彼女の心は言葉を紡ぐ余裕を失いつつあった。


夕暮れ時。 最後の一人を送り出し、静まり返った事務所で、ユージンは重い腰を上げた。


「ミラ。明日からしばらく、暇をやる。日中は事務所に帰ってくるな」


ミラの手から、インクを拭いていた布が滑り落ちた。 彼女の顔から、一気に血の気が引いていく。


「……ユージンさん、私、何か……。さっきの仕分けミスなら、すぐにやり直します。勉強だって、もっと寝る時間を削ってやれば追いつけますから、だから……!」


「勘違いするな」


ユージンは椅子を回し、ミラを真っ向から見据えた。 彼女の瞳には、かつての「捨てられる恐怖」が、再び微かな光を宿していた。


「……お前が自分で志を書くと決めた時から、分かっていたことだ。今のままでは、お前は一生、自分の志を書くことはできない。……お前は、今、ここに来る依頼人たちと同じように、袋小路に追い詰められている」


「袋小路……?」


「ああ。机の上で覚えるのは、ただの制度の知識だ。だが、志は、この街の空気がどんな匂いか、人々が何を嘆き、何を笑って生きているのか……それをお前の目で見、お前の足で歩いて拾い集めたものでなければ、形にはならない」


「……ましてや、お前はこの事務所でしか言葉を学んでいない。だからこそ、外を知る機会が今必要だ」


ユージンは、ぶっきらぼうに出口の扉を指差した。


「今のこの事務所に、お前のための言葉は落ちていない。明日から、日中は外へ出ろ。自分の言葉を探すことが、お前の『仕事』だ。夜、寝泊まりする時だけ帰ってこい」


ミラは、言葉を失った。


追い出されるのではない。 彼は、ミラが「自分の物語」を始めるために、最も過酷で、自由な修行の場を差し出しているのだ。


自分だって、この異常な忙しさに押し潰されそうなはずなのに。


「……っ……」


こらえきれず、ミラの目から涙が溢れた。


「ユージンさんは……本当に、説明が下手なんですよ。もっと、普通に『頑張ってこい』って言えばいいのに……」


「……ふん。さっさと寝ろ。明日は早いぞ」


ユージンは鼻を鳴らし、再び机に向き直った。 その背中が、少しだけ誇らしげに揺れたのを、ミラは見逃さなかった。


ユージンは、万年筆を握り直す。


誠実な者が報われず、言葉を持たぬ者が淘汰される、この末期的な国の「欠陥」。 それを見せつけるかのように送り込まれてくる依頼人たち。


(拾ってこい、ミラ。この泥沼の中で、お前にしか見つけられない、お前だけの言葉を)


暗い事務所に、鋭いペン先の音が、決意のように響き始めた。

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