第13章 飛躍のアーヴェル 第二幕
アイギス連邦の頂点に君臨する「白亜の塔」。
その最上階にある「志源の間」は、地上の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 高い天井から差し込む光は、チリひとつない床を冷徹に照らし、空間そのものが「正しさ」を強制しているかのようだ。
その中心に、アーヴェルは立っていた。
彼の周囲を囲むのは、この国の運命を握る九人のSランク。 彼らの大半は、人生のすべてをこの塔に捧げてきた老人たちだ。 彼らがアーヴェルに向ける視線は、決して歓迎のものではない。
(……また、大賢者様のお気に入りが増えたか) (若造が。我々が築き上げた秩序を理解もせんうちに、末席に座るとはな)
そんな無言の圧力が、重苦しい湿気のようにアーヴェルにまとわりつく。
対照的に、円卓の外周で控えるAランクの精鋭たちの視線は、より複雑だった。 自分たちが一生をかけても届かないかもしれない席に、自分たちより若い男が座ろうとしている。
そこには、身の毛もよだつような嫉妬と、一縷の希望を抱いた羨望が半々に混ざり合い、熱を帯びた渦となっていた。
しかし、アーヴェルはそれらすべての視線を、いつもの穏やかな微笑みという名の仮面で受け流していた。
「アーヴェル。前に」
円卓の最奥、光の向こう側から響く声。 この国の生ける神、大賢者だった。
「はい、大賢者様」
アーヴェルは優雅に一歩前へ出て、跪いた。
「君の功績は、見事である。Dランクの少年をAランクへと導いたその手腕、そして教育に対する情熱。これからのアイギスには、君のような新しい風が必要だ。……本日をもって、君を十人目のSランクに任命する」
聖省の職員が捧げ持った、純白のガウンとSランク専用のIDプレートがアーヴェルに授与される。
大賢者は、慈愛に満ちた、しかしすべてを見透かすような瞳をアーヴェルに向けた。
「さて、新しき同胞よ。君はSランクとして、この国で何をなしたいと考えているか?」
一瞬、老いたSランクたちの視線がさらに鋭くなる。 試すような、値踏みするような沈黙。
アーヴェルは顔を上げ、淀みない声で答えた。
「私は――この国の人すべてが、より一段高い『志』を目指し、国に貢献できる社会を作りたいと考えています。そのために、多くの若者が学べる機会の創設を始め、様々な改革を実施したいと考えております」
「改革」という言葉が発せられた瞬間、円卓の空気が凍りついた。
数人のSランクが、隠しきれない不快感を露わにする。 「もの知らぬ若造が、余計なことを」という軽蔑の念が、物理的な圧力となってアーヴェルを刺した。
しかし、大賢者は満足げに深く頷いた。
「改革、か。よかろう。思うようにやってみるがよい。……チャレンジする若者は貴重だ。改革とは久方ぶりに聞いた。アーヴェルよ、汝に期待するとしよう」
「身に余る光栄です」
アーヴェルは深く頭を下げた。 伏せられた瞳の奥で、どのような光が宿っていたかを知る者は、その場には一人もいなかった。
*
任命式を終え、白亜の塔の中層階にある専用の執務室へと戻ったアーヴェルは、扉が閉まり、防音魔法が作動したのを確認すると、深く溜息をついた。
鏡に向かい、首元の窮屈なタイを緩める。
「――アーヴェル様、お疲れ様でございます。お召し替えの準備は整っております」
部屋の影から、一人の男が静かに現れた。 場に似つかわしくない大柄な体格だが、身だしなみはきちんと整えられており、アーヴェルの前では借りてきた猫のようにおとなしくたたずんでいた。
「ああ、本当に疲れたよ。既存のSランクのご老人の皆様は改革がお気に召さないらしい。ずいぶんと厳しい目を向けられたよ」
アーヴェルはソファに深く腰掛け、椅子の背にもたれかかった。 先ほどまでの「聖者」のような表情は消え、そこには実務的で、どこか退屈そうな一人の男の顔があった。
「それは左様でございますでしょう。あの方々にとって、変化とは自らの席が揺らぐ恐怖と同義でございますから。……して、本日の式典の裏での動向ですが」
男は淀みない、丁寧な言葉遣いで、聖省内部の反対派の動きや、Aランクたちの反応を簡潔に報告していく。
一通りの報告を終えた後、男はわずかに言い淀み、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……恐れながら、一点ご報告が。ユージン・クレールの件でございます」
「彼がどうしたんだい?」
「はい。私の不徳の致すところですが……彼、おそらく私とアーヴェル様のつながりに気づいている様子でございます。直接言及はされておりませんが、あの鋭い眼差しは、私の『芝居』の奥を捉えているように感じられました」
ロウの言葉に、アーヴェルは一瞬の沈黙の後、少年のように楽しげに笑い出した。
「ふふ、あははは! なんだ、そんなことか。気にする必要はないよ、『ロウ』」
「しかし、もし彼が不測の動きを見せれば……」
「いや、それは当然のことだよ。ユージンさんの最も優れているところは、物事の構造や本質を瞬時に掴むところなんだから。……いいかい?」
アーヴェルは身を乗り出し、言葉を重ねる。
「彼は単なる代筆屋じゃない。聖省のシステム、水晶の判定ロジック、それらすべてを逆算して『ハック』しているんだ。だからこそ、代筆という禁忌を100%の精度でやり遂げられる」
「そんな彼が、私の『手』として動いている君の正体に気づかないはずがない。私と君の関係なんて、だいぶ前から気づいていると思うよ」
アーヴェルの断言に、ロウは絶句した。
地下街のあの薄暗い事務所で、不機嫌そうに茶を啜っているあの男。 彼は、自分たちが仕組んだ精巧な演劇を、最前列で冷ややかに鑑賞していたというのか。
「……気づいていながら、私をあの事務所に出入りさせていたと?」
「そうさ。でも、別にユージンさんは私に危害を加えたりはしないし、私がどこまで考えているかについても、ぼんやりとは推測しているかもしれないが、正確にはわかっていないさ」
「彼は現状に満足はしていないが、壊す勇気もない。……だから、君も気にせず、これからも『腕の良い情報屋』をやってくれたまえ」
「……畏まりました。左様であれば、今後もそのように」
ロウは深く一礼し、影に溶け込むように部屋を去っていった。
一人残された執務室で、アーヴェルは窓の外に広がる広大なアイギス連邦を見下ろした。 眼下には無数の「ランク」という檻に閉じ込められた人々が蠢いている。
「ユージンさん……レオナともども、私の作る新しい世界のために、精一杯役に立ってもらいますよ」
アーヴェルの唇が、穏やかに、しかし凍りつくような冷徹さで歪んだ。
白亜の塔の頂で、時代の歯車は、後戻りのできない速度で回り始めていた。




