第13章 飛躍のアーヴェル 第一幕
地下街R-7の事務所を支配するのは、もはや重苦しい沈黙ではなかった。 それは、何かに挑もうとする者の静かな熱気と、万年筆が羊皮紙をなぞる微かな摩擦音だ。
「……志を書く上で最も重要な『動詞』どうありたいか…」
ミラは唇を動かし、新しく覚えた単語を喉の奥で転がした。
レオナの誘いを断り、この薄暗い事務所に残ることを決めてから数週間。ミラの学習速度は飛躍的に上がっていた。文字はもはや記号ではなく、世界の成り立ちを理解するための道具になりつつある。
けれど――。 覚える言葉が増えれば増えるほど、ミラは喉の奥に小石が詰まったような、妙な「足りなさ」を感じ始めていた。 ユージンの教材にある「社会」「制度」「正義」といった言葉の一つ一つは理解できる。そして、それを覚えていくこともできている。しかし、その中で、自分が一体何をしたいのか?と考え始めて言葉にしようとしたとき、霧の中に迷い込んだような感覚に陥るのだ。
(覚えるだけでは足りない…私は自分で言葉を作る経験がない?……)
机に向かうミラの背中は、以前よりもずっと小さく、けれど頑固に見えた。
「……おい、ミラ。インクの余りはあったか?」
ぶっきらぼうな声に顔を上げると、ユージンが外套を羽織っているところだった。
「あ、すみません! すぐに買いに行きます」
「いや、いい。これから買い出しに出るから、ついでに買ってくる」
ミラは目を見開いた。
「買い出し……ユージンさんがですか? いつもなら、私が行くのに」
「たまには運動もしないといけないからな。ミラもあまり根を詰めすぎるな」
ユージンはミラの返事も待たずに、バタンと重い扉を閉めて出ていった。 一人残された事務所で、ミラはぽつりと呟く。
「……運動って…そんな分かりやすい嘘言わなくても」
ミラには分かっていた。 ユージンは、自分が買い物に行っている間の時間を惜しんで、ミラの勉強時間を確保しようとしているのだ。彼は決して口には出さないが、ミラが「自分の足で立つ」ことを決めたあの日から、ユージンの不器用な配慮が目に見えて増えていた。 ミラは熱くなった目元を指先で拭い、再びペンを握った。
(感謝しています、ユージンさん。だから、私は……止まっていられません)
一時間ほど経った頃、扉が開く音がした。 帰ってきたユージンの手には、いくつかの食材が入った袋と、一部の新聞があった。 彼は珍しく、椅子に座るなり食材を放置し、新聞の第一面を食い入るように読み始めた。その眉間の皺は、いつもよりずっと深い。
(……何か、あったのかな) ミラが声をかけようとした、その時だった。
「――よお! 詐欺師にその助手! 景気のいい話を持ってきたぜ!」
ノックも何もあったものではない。 蹴破るような勢いで入ってきたのは、情報屋のロウだった。彼はいつにも増して興奮した様子で、カウンターに両手をつく。
「おい、聞いたかユージン! 『白亜の塔』が揺れてるぜ。Sランクに欠員が出たらしい!」
ユージンは新聞から目を離さず、短く答えた。
「……今、ちょうど確認していたところだ。誰が崩御されたんだ?」
「まぁ、お察しの通り、最高齢のバウム卿さ。ま、雲上人のしより、街はもう、次のSランクが誰になるかの賭け事で大騒ぎだ」
話についていけないミラは、おずおずと手を挙げた。
「あの……すみません。Sランクの欠員ってどういうことですか?」
ユージンは新聞を机に置くと、ミラの方を向き、まっすぎめを見て答え始めた。
「あぁ、本来志の水晶判定でSランクっていうのはないんだ。Sランクというのは、Aランクから選ばれて、大賢者のすぐ隣に座ることを許された、たった十人の選ばれし者たちのことだ」
「十人……」
「そうだ。そして、Sランクの連中はこの国の方針を決めてかじ取りをするのさ。ただ、実際は自分たちの権力維持のための運営になってるがな。そして、Sランクの誰かが死んで、空席が出ることを『欠員』。欠員が出てその空席を埋めるために新たなSランクを選ぶことを『補充』っていうことさ」
ミラの背中に冷たい汗が流れた。自分たちが文字一つ覚えるのに必死になっている間に、そんな雲の上の人たちが、自分たちの運命を決めている。
「そう! そしてその『Sランク』の空いた椅子に、誰が座ると思う?」
ロウがニヤニヤしながら、もったいつけて身を乗り出した。
「ミラちゃん、驚くなよ。次のSランク筆頭候補……いや、事実上の内定者は、あのアーヴェルの旦那だ!」
「えっ……アーヴェルさんが!?」
ミラは思わず叫んでいた。 あの、時折事務所にやってきては穏やかに笑い、自分に文字の意味を教えてくれた優しい青年。彼が、そんな恐ろしいほど高い場所へ行くのか。
ユージンは、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに悟ったような溜息をついた。
「……なるほどな。カインの件か」
「ああ! Dランク出身の少年をAランクに引き上げ、実際現時点でも折れることなく成績を上げ続けている奇跡の少年を見つけたこと。あれが大賢者様の大のお気に入りになったらしい。異例の若さだが、誰も文句は言えねえよ」
「相変わらず、お友達人事が過ぎるな、あの塔は」
ユージンは吐き捨てるように苦笑した。
「お友達……人事? 仲がいいから、選ばれたということですか?」
「簡単に言えばそうだ。大賢者にとって、アーヴェルは自分の理想を形にしてくれる便利な『駒』であり『手足』だ。カインという成功例を作って、大賢者が自分の正しさを確認できた。その一助になった彼を、側近に置くのは理屈にかなっている」
「とはいえ、ユージン。若手が選ばれるのはいいことじゃないか」
ロウがどこか他人事のように肩をすくめた。
「凝り固まった年寄り連中より、アーヴェルの旦那みたいに話のわかる奴が上にいた方が、俺たちみたいな『日陰者』にとっても風通しが良くなるってもんだ」
「……お前にとっては、『別の意味』でも特にそうかもな」
ユージンの冷ややかな視線が、ロウを射抜いた。
「……っ。おいおい、何のことかわからないな。俺はただの街の情報屋だぜ」
ロウの顔から一瞬で余裕が消え、視線を泳がせた。
「……なんか、お前機嫌が悪いのか?俺は帰らせてもらうぜ」
嵐のように現れたロウは、逃げるように事務所を飛び出していった。 後に残されたのは、ユージンと、呆然としたミラだけだった。
「……今の、どういう意味ですか?」
ミラが恐る恐る尋ねると、ユージンは再び万年筆を手に取った。
「気にするな。腹の黒い、悪い大人の化かし合いさ。……俺も、その端くれだがな」
彼はわざとらしく椅子に深く腰掛け、格好をつけるように窓のない壁を見据えた。
「アーヴェルの台頭でこの国は間違いなく動き出す…明日はどうなるかってやつだな」
しばしの沈黙。 ユージンの横顔をじっと見つめていたミラが、小さく溜息をついて言った。
「……ユージンさん」
「なんだ」
「前から思っていましたが……あまりそういう、お芝居の主人公みたいな格好つけ……似合っていないと思います」
「…………」
ユージンの万年筆が、ピタリと止まった。
「……茶を淹れてこい」
「ふふ、はい。喜んで」
「やれやれ……」
ユージンの苦々しい独り言が、シュンシュンと沸き始めたケトルの音に溶けていった。 事務所の外では、新しいSランク誕生のニュースが、見えない津波のように世界を飲み込もうとしていた。




