第12章 復讐の聖女 第五幕
事務所の中に落ちた静寂は、鋭利な刃物のようだった。
レオナは、差し出した入会申込書を握りしめたまま、信じられないものを見る目でミラを見つめていた。 彼女の設計した「完璧な救済」が、教育も受けていないEランクの少女に拒絶された。
その事実は、彼女のプライドという名のガラスの城に、決定的な亀裂を生じさせていた。
――否定されたのは提案ではない。 自分が、これまで信じ続けてきた「善意」そのものだと、彼女自身が理解してしまったがゆえに。
「……ミラさん。今の言葉、理解して言っているの?」
レオナの声は低く、震えていた。 怒りを通り越し、理解不能な事態に直面した時の狼狽が混じっている。
「あなたは、この泥沼のような生活に戻ると言うのね? 私が差し出した、この清らかな光を捨ててまで。……何が不満だったというの? 設備? カリキュラム? それとも、講師たちの態度かしら?」
ミラは、机の下で自分の膝を強く握りしめていた。 怖くないわけがない。 目の前にいる女性は、この国の「正解」を体現しているような存在だ。
けれど、この一週間、白い壁に囲まれた教室で過ごした時間は、ミラにある確信を与えていた。
「……塾は、凄かったです。レオナさん」
ミラは、震える声を振り絞って話し始めた。
「私が一生かかっても知らないままだったことを、この一週間でたくさん知ることができました。あそこにあるものは、どれも新しくて、綺麗で、眩しかったです。……でも」
ミラは一度言葉を切り、レオナの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あそこに……『人』は、いませんでした」
レオナの眉が、ピクリと跳ねた。
「……何が言いたいの?」
「私は、ここで働いて、いろんな人を見てきました。ランクを上げたい人だけじゃなくて、今のランクを維持したい人や、自分からランクを落とすことを選んだ人……。でも、その人たちはみんな、悩んで、苦しんで、間違えるかもしれないって怯えながら、それでも最後は自分で決めていました」
「そこには、その人の『意志』がありました」
ミラの脳裏に、テオの誇らしげな顔や、エマの鋭い眼差しが浮かぶ。
「でも、塾にいた生徒さんたちは違いました。みんな同じ顔をして、あなたの言葉にすべてを預けて……自分で考えることを、やめていました。レオナさんの言葉をなぞるだけの『人形』になっていた」
「……私は、人形になりたくありません。正しいかどうか分からなくても、失敗するかもしれなくても、泥の中でも、自分で考えて、自分で決めて、自分で納得したいです」
「ふざけないで……!」
レオナの仮面が、ついに完全に剥がれ落ちた。
「自分で考える? Eランクのあなたが、そんな贅沢なことを言ってどうするの! 思考なんて、空腹と絶望を長引かせるだけの毒よ! 私はそれを効率的に除去して、彼らに『幸福な正解』を与えているのよ!」
「私のやっていることは、慈悲だわ……世界で最も崇高な救済なのよ!」
レオナは、ミラの肩を掴もうと一歩踏み出した。 その指先は、教育者のそれではなく、奪われたものを取り返そうとする執着に満ちていた。
その時。
「そこまでだ、レオナ」
低く、重い声が事務所の空気を制した。
ユージンが、ゆっくりと椅子から立ち上がっていた。 彼はミラを守るように、その前に立つ。 だが、その背中は庇うというより、彼女が選んだ場所に立ち続ける覚悟を示すものだった。
「ユージン……! あなたね、あなたがこの子にこんな理屈を吹き込んだのね! 自分の捻くれた思想を、何も知らない子供に押し付けて、私の邪魔を……!」
「俺は何も言っていない。これは、彼女が自分の足で歩き、自分の目で見た結果だ」
ユージンは冷徹な眼差しで、かつての同僚を見下ろした。
ミラが、ユージンの背中の後ろから、震える声で問いかけた。
「レオナさんは……塾を始めたときから、ずっと、ああいう授業だったのですか?」
その問いは、レオナにとって想定外の角度からの衝撃だった。 激昂していた彼女の動きが、凍りついたように止まる。
――塾を、設立したころ。
レオナの脳裏に、初めて受け持った生徒が、自分の言葉で何かに気づき、目を輝かせた瞬間が蘇る。 「先生のおかげで、未来が見えた」と、汚れた手で感謝の言葉を綴った手紙をくれた、あの少年の笑顔。
あの時の自分は、彼らを「器」だなんて思っていなかった。 彼らが自分の力で立ち上がる姿に、誰よりも自分自身が救われ、安堵していたはずだった。
ほんの一瞬。
レオナの瞳から鋭いトゲが消え、迷子のような、脆い色が混じった。 それは瞬きほどの時間だったが、この事務所の主が、その変化を見抜くには十分すぎる時間だった。
「……レオナ。かつて、俺はお前の居場所を奪った」
ユージンの声が、静かに、けれど逃げ場のない真実を告げる。
「だが、今のお前は、生徒たちの居場所を奪いかけている。……お前の型に嵌めることでしか彼らを愛せないのなら、それは教育じゃない。ただの、自己愛の再生産だ」
図星を突かれたレオナは、唇を噛み締め、言葉を失っていた。 言い返そうと開いた口は、力なく閉じられる。
彼女が築き上げてきた「完璧な正義」が、かつての自分の記憶と、目の前の少女の逃げない言葉によって、内側から瓦解しかけていた。
「……レオナさん」
ミラが、一歩前に出た。
「私に、一週間の時間をくれたこと……本当に感謝しています。あそこで学んだ文字の読み方や、世界の広さは、絶対に忘れません。……ありがとうございました」
ミラは深く、頭を下げた。 それは拒絶の言葉ではなく、対等な人間としての、心からの謝辞だった。
レオナは、手に持っていた入会申込書を見つめた。 金箔の縁取りが施された、高価な紙。
今の自分には、これがただの、自分を縛り付けるための契約書のように見えた。
「……勝手にすればいいわ」
レオナは、掠れた声で言った。 彼女は乱暴に書類を鞄に押し込むと、背を向けた。
「……後悔しても、もう知らないから。あなたは、その泥の中で、せいぜい『自分』というものの重さに苦しめばいいのよ」
レオナは出口に向かって歩き出した。 その足取りは、入ってきた時のような正確さは失われていたが、どこか、長年背負っていた重荷を一つ下ろしたような、不思議な軽やかさがあった。
扉を開ける直前、彼女は一度だけ足を止めたが、振り返ることはなかった。
バタン、と。扉が閉まる。
事務所に残された空気は、もう以前のような「不自然な清潔さ」に侵されてはいなかった。
ミラはその場に座り込み、大きく息を吐いた。 その目には涙が浮かんでいた。
「……怖かった…怖かったです……」
「そうだろうな。聖省の元エリートを相手に、あそこまで啖呵を切ったんだ。並の人間なら卒倒している。相変わらず根性だけは一流だな」
ユージンは椅子に戻り、いつものように万年筆を手に取った。 だが、その視線は書類ではなく、ミラに向けられている。
「……ま、あそこまで言ったんだ。だから、お前ももっと勉強を頑張らないとな」
ユージンの言葉は相変わらずぶっきらぼうだったが、そこには確かな信頼と、彼女に選ばせた責任を引き受ける覚悟の響きがあった。
ミラは、顔を上げた。 頬にはまだ緊張の赤みが残っていたが、その瞳には、一週間前よりもずっと深い、強い光が宿っていた。
「……もちろんです!」
ミラは、ボロボロの教材を力強く引き寄せた。
窓のない地下事務所。インクの匂いと、厳しい師匠。 ここには、レオナの塾のような眩しい照明はない。
けれど、自分で選んだ道の重さを引き受けるための、小さな、けれど消えない灯火が、確かに灯っていた。




