第12章 復讐の聖女 第四幕
レオナが去った後の事務所には、彼女が持ち込んだ「完璧な清潔さ」の残り香が、澱んだ空気の中で浮き上がっていた。
ミラは、手に残された金箔の招待状を見つめたまま、動けないでいた。
授業料免除。 生活の保証。 そして、確実にランクを上げるという約束。
Eランクの泥の中にいたミラにとって、それは本来、疑う余地のない「救い」のはずだった。
「……ユージンさん」
震える声で、ミラが沈黙を破った。
「あの、あの人の言っていたこと……どう思いますか?」
ユージンは椅子に深く腰掛けたまま、天井の一点を見つめていた。 その視線は固定されているが、焦点が合っていない。
彼の右手は、無意識のうちに肘掛けを強く握りしめていたが、本人はそれに気づいていないようだった。 その顔には、レオナに向けた時のような激しい感情はもう残っていない。
「……何がだ」
「私、あんな風に言われたの、初めてで。私に才能があるとか、特別だとか……。ユージンさんのところでやるより、ずっといいって。私、どうしたら……」
ミラはすがるような目でユージンを見た。
彼が「行くな」と言ってくれれば、それで済む。 あるいは「行け」と言われれば、悲しくても諦めがつく。
誰かに決めてほしかった。 この足元のふらつきを、確かな力で導いてほしかった。
だが、ユージンの口から出たのは、突き放すような一言だった。
「……自分で決めろ。お前の人生だ」
その言葉が、ミラの胸の奥に火をつけた。
「なんで……なんでいつもいつも、そうやって突き放すんですか!」
ミラの叫びが、狭い事務所に響く。
「私は、何も知らないんです! どっちが正しいか、どっちが私のためになるか、自分じゃわからないから聞いてるのに! ユージンさんは、私のことなんて、どうでもいいんですか!?」
ユージンは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。 そして、ゆっくりと視線を落とし、ミラを射抜くように見た。
その目は冷たく、それでいて酷く真剣だった。
「ミラ。お前はこれから、自分の手で『志』を書くと決めたんだろう?」
「……そうです。だから、勉強して……」
「なら聞くが、自分の人生の根幹に関わる選択を、他人の意見で決めるのか?」
ユージンは机の上に拳を置いた。 その音は小さいが、はっきりとした重みを伴っていた。
「お前が俺の言葉に従ってあそこへ行き、もし失敗したとき、お前は俺を恨むだろう。逆に俺が引き止めて、お前が一生Eランクのまま終わったときも、お前は俺を呪うはずだ」
「……自分の選択を他人に委ねるということは、自分の人生の責任を他人に押し付け、逃げ道を作るということだ。そんな奴が自力で志にたどり着けると思うか?」
ミラは息を呑み、言葉を失った。
「自分で志を書くと決めたなら、『人生に関わる選択はお前自身で行う』覚悟を持て。それができないなら、今すぐその招待状を持ってあそこへ行け。……お前の望む『正解』を、彼女が与えてくれるさ」
押し黙ったミラの手の中で、金箔の名刺がくしゃりと音を立てた。
ユージンの言葉は正論だ。だが、それでも不安が消えるわけではない。 あそこに並んでいた親子たちの、何かに取り憑かれたような熱っぽさ。 レオナの、優しさの裏に張り付いたようなあの冷たい目。
「……ユージンさん」
「なんだ」
「あの……『たいけん』って、なんですか? あの人、まずはそれからでもいいって」
ユージンは一瞬、言葉に詰まった。 ミラの知識が、時折こういう「基本的な言葉」で止まることを、彼はまだ完全には把握しきれていなかった。
「……体験、か。……要するに、本格的に契約する前に、お試しで参加してみることだ。毒味のようなものだと思えばいい」
「毒味……」
ミラは少し考え、そして顔を上げた。
「じゃあ……その『たいけん』だけ行ってみて、それから決めるのは、あり、でしょうか?」
「……あ、ああ、お前がそうしたいなら、そうしたらいい」
ユージンはそれだけ言うと、ミラが塾で本当についていけるのかと不安になってしまっていることに気づいて、苦笑した。
体験初日。
ミラは再び、あの大通りに面した白い建物の前に立っていた。 建物の中は、外観以上に眩しかった。壁も床も、汚れ一つない純白。
行き交う人々は皆、穏やかな微笑みを浮かべ、小さな声で「感謝を」と挨拶を交わしている。 誰一人、足取りに迷いがない。視線は前を向き、動きは揃い、言葉に淀みがなかった。
「ようこそ、ミラさん。あなたが来てくれると信じていたわ」
レオナが、後光を背負うような輝かしい笑顔で現れた。 彼女はミラの肩に優しく手を置き、周囲の講師たちに紹介した。
「見て、皆さん。彼女こそ、泥の中から自らの意志で光を求めてやってきた、希望の芽よ。この決断こそ、あなたの人生で最高の選択になるわ」
周囲から拍手が沸き起こる。
見ず知らずの生徒たちが、自分を肯定し、褒めちぎる。 その拍手は揃っていて、熱心で、そして早かった。
(……なにここ・・・みんな同じ笑顔をしている…怖い…)
ミラは居心地の悪さに身を縮めた。 ユージンの事務所では、どんなに頑張っても「その調子だ」の一言で終わりだ。
それと比較すればここは天国のようだが、なぜかレオナの言葉は、ミラの心に一滴も染み込んでこなかった。
レオナは、ミラの反応が薄いことに一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに完璧な笑みに戻した。
初日に行われたのは、まず『自己分析』と称されたテストだった。 それは文字の読み書きを問うものではなかった。
「あなたは情熱的か? 合理的か?」 「暗い部屋と明るい部屋、どちらで眠りたいか」 「一人の空腹な子供と、十人の空腹な大人、どちらにパンを分けるか」 「あなたの幸福は、社会の安寧の上に成り立っていると思うか」
問いは延々と続き、ミラは首を傾げながら、自分の思う通りに丸をつけていった。
続いて行われた授業は、さらに奇妙だった。 美しい装飾が施された講堂に集められたのは、ミラと同じくらいの年齢の子供たちだ。
皆、小綺麗な服を着て、背筋を伸ばし、ほとんど瞬きもせずに前を見つめている。
「……皆さんには無限の可能性がある」
演壇に立ったレオナが、朗々と歌うように語りかける。
「人は、自分のためではなく誰かのために頑張るようにできているのです。自分のためだけに頑張るものは、その魂が濁りとなって志を曇らせます。私たちは、この国の平和と希望という『光』となるために、自己肯定感と自尊心を高め、自らがランクアップできることを証明しなければいけないのです」
子供たちが一斉に唱和する。
「我々は誰かのために努力し続ける!」
その声は揃っていて、力強く、感情の揺らぎがなかった。
ミラは、その光景に激しい違和感を覚えた。 語られている言葉は、どれも美しく、正しいように聞こえる。
けれど、ミラが地下街で見てきた「生きるための必死さ」や、ユージンが教えてくれた「言葉の重み」とは、決定的に何かが違っていた。
ここの言葉には、体温がない。
まるで、磨き上げられた冷たい石を無理やり飲み込まされているような、そんな感覚。 隣に座っている少女の目は、喜びで輝いているように見えるが、その焦点はどこか遠くを結んでいて、生きている人間というより、精巧な人形のように見えた。
(……一週間。とりあえず、一週間だけは頑張ろう)
ミラは自分に言い聞かせ、ノートに「器」という文字を書いた。 その文字は、ユージンに教わった力強い筆跡とは違い、どこか弱々しく震えていた。
一週間後。
体験期間を終えたミラは、地下街の事務所にいた。 窓のない、インクと古い紙の匂いが立ち込めるこの部屋に戻ってきたとき、ミラは自分でも驚くほど深く、安堵の息を吐いた。
その空気は澱んでいて、不揃いで、けれど確かに息ができた。
そこへ、約束通りレオナが訪れた。 彼女は今日、ミラの入塾を確信しているようだった。
手には、既にミラの名前が記載された『入会申込書』と、それを受理するための立派な羽ペンが握られている。
「さあ、ミラさん。素晴らしい一週間だったでしょう?」
レオナはミラの机の前に立ち、優雅に書類を広げた。
「あなたのテスト結果も見せてもらったわ。あなたはまだ少し『自己』が強すぎるけれど、それはこれからの教育で矯正していける。あなたは必ず、私たちの塾の誇りになるわ。さあ、ここに署名を。今日からあなたは、光の側へ行くのよ」
ユージンは、少し離れた席で黙って二人のやり取りを見つめていた。 ミラを助ける様子も、口を挟む様子もない。
ミラは、差し出された羽ペンを見つめた。
これを取れば、温かい食事、綺麗な服、そして「ランクアップ」としての輝かしい未来が手に入る。
だが、ミラの脳裏に浮かんだのは、レオナの美しい言葉ではなく、ユージンのぶっきらぼうな声だった。
『自分の人生の責任を他人に押し付けるな』
ミラはゆっくりと、羽ペンから手を引いた。
「……ミラさん?」
レオナの微笑みが、わずかに固まる。
「ごめんなさい。私……そこには、行けません」




