第12章 復讐の聖女 第三幕
地下街R-7の事務所に足を踏み入れたその女性は、この場所にあるべき「匂い」を一切させていなかった。
カビ臭い湿気も、安酒の残り香も。 彼女の周囲だけは、まるで聖省の廊下をそのまま切り取って持ってきたかのように、徹底して無機質で、不自然なほどに「清潔」だった。
レオナの装いは、一見すれば街の塾講師らしい、控えめで機能的なものだ。過度な装飾はない。 だが、ミラの目から見ても、その上着の仕立ては異常だった。
激しく動いても皺一つ寄らない生地、ミリ単位で整えられた縫い目。 庶民の生活に馴染もうと努めながらも、隠しきれない「選ばれたもの」としての質感が、かえってこの薄暗い部屋では暴力的なまでの異物感を放っていた。
レオナは、埃を嫌うように指先で椅子を確かめてから、静かに腰を下ろした。 背筋は定規で測ったように真っ直ぐだ。 その完璧な姿勢こそが、彼女が自分を保つための防壁であるかのように。
「……随分と、不衛生なところで仕事をしているのね。ユージンさん」
レオナの声は穏やかだった。 だが、その瞳は一度もユージンと視線を合わせようとせず、卓上の使い古された万年筆や、ミラの抱えるボロボロの教材を、まるで欠陥品を見るような目で見つめている。
「用件を言え、レオナ。今更、俺に何の用だ?」
ユージンの問いに、レオナは唇の端をわずかに吊り上げた。 それは慈愛に満ちた教師の微笑みのようでありながら、どこか張り付いたような不自然さがある。
「噂を聞いたわ。……代筆を使って、Bランクの男をEランクに落としたそうね。……あろうことか、まさかあなたの程の人間が、志を書き誤るなんてね」
彼女の手が、膝の上でかすかに震える。 それを隠すように、彼女は指を強く組み直した。
「信じられない。ランクアップこそが、この国で生きる人々の唯一の救いよ。言葉を扱うプロなら、どんな無能でも、一ランクでも上へ引き上げてあげるのが義務でしょう? それを……あえて地獄へ突き落とすなんて。あなたのやっていることは、言葉への……いえ、救いを求める人々への裏切りだわ」
ユージンは、椅子に深く背を預けたまま、レオナをじっと見つめていた。
「Bランクの人間を俺がEランクに落とした? 何のことだ?」
「とぼけないで! 私の経営する塾にまでうわさが届いているのよ!」
「知らんものは知らんし、今まで俺の代筆を自分で改ざんして破滅した奴はごまんといる。いちいち覚えていられるか」
「な・・・・っ」
彼女は必死に冷静さを装っている。 言葉は理路整然としており、その態度は揺るぎない正義に基づいているように見える。
だが、ユージンの目には、彼女が自ら作り上げた「完璧な教育者」というガラスの城の中で、震えているのが見えていた。
「ところで、……レオナ、お前の塾はランクアップ率九十五パーセントだそうだな。大層な数字だ」
「当然よ。私の指導に従えば、誰だって光を掴める。私は一秒たりとも妥協せず、彼らの志を磨き上げているわ」
「……ああ、そうだろうな。お前は妥協しない。だが、その九十五パーセントという数字、どうやって維持している?」
ユージンがゆっくりと身を乗り出す。 その視線が、レオナの防壁の隙間を抉る。
「お前の塾には、毎年五パーセントの『脱落者』が出る。……いや、違うな。お前は、最初から自分の型にはまらない人間を、あるいは自分の正しさを汚しかねない人間を、密かに排除しているだけだ」
「な……何を根拠に……!」
「お前の目に映っているのは、生徒の顔じゃない。お前の実績を彩る『ランク』という記号だけだ。入塾のタイミングで選抜した生徒のうち、九十五パーセントの生徒は、お前の正しさを証明するための道具にすぎない。そして残りの五パーセントは、最初からお前の世界には存在しないことになる」
「……お前が愛しているのは生徒じゃない。生徒に感謝されている『自分自身』だ」
パリン、と。 目に見えない音がした。
レオナの表情が、一瞬で崩れる。 冷静さを保っていた瞳が大きく見開かれ、内側から溢れ出す激昂が、彼女の「聖女」の面影を粉々に砕いていく。
「黙りなさい!!」
レオナが立ち上がった。 その拍子に椅子が倒れ、乾いた音が響く。
「あなたに私の何がわかるの!? 私は救っているのよ! ついてこれない方が、あの子たちが、親たちが……悪いだけなのよ!!」
叫ぶ彼女の肩は、惨めなほどに震えていた。
かつて聖省でユージンに居場所を奪われたと、彼女が信じているあの日のように。 彼女は今、自分の拠り所である「九十五パーセント」という数字を否定され、剥き出しの子供のように怯えていた。
*
静寂が戻った事務所で、レオナは荒い呼吸を繰り返していた。
彼女は自分の醜態を悟ったのか、乱れた髪を乱暴に整えると、ふと視線を落とした。 そこには、二人の諍いに怯えながら、汚れた教材を胸に抱いて立ち尽くすミラの姿があった。
レオナの瞳に、暗い光が宿る。
ユージンへの敗北感を、目の前のこの「未完成の少女」を奪うことで上書きしようとする、歪んだ欲望。
「……ねえ、あなた、お名前は?」
「え・・・私ですか?・・ミ、ミラです」
レオナは、先ほどまでの激昂を無理やり押し殺し、再び「穏やかな仮面」を被り直した。 だが、その声には先ほどまでの余裕はなく、どこか必死さが滲んでいる。
「こんなところで、古い言葉をこねくり回していても、あなたの未来は開けないわ。……私のところへ来なさい。私の塾なら、あなたが一年かけて覚えることを、一ヶ月で完璧にしてあげる」
レオナは、ミラに歩み寄った。 その一歩一歩が、高級な靴の音を立てる。
「ユージンさんは、あなたのことを『根性がある』なんて言葉で放置しているけれど、それは無責任よ。彼はあなたを救う気なんてない。ただ、自分の手元に置きたいだけ」
「あ、あの……でも、私は……」
「迷う必要はないわ。……本来、私の授業を受けるには莫大な費用がかかる。けれど、あなたは特別よ。……授業料も、教材費も、生活の保証も、すべて私が持ちましょう」
「最高の環境を用意してあげる。……この薄暗い部屋で一生を終えるか、私と一緒に、誰からも見下されない『上の世界』へ行くか。答えは決まっているはずよ」
レオナは、震えるミラの手に一通の招待状を握り込ませた。 その指先は氷のように冷たかった。
「突然の幸運に戸惑うのも分かるわ、だから、まず体験からでもいいのよ。私は、待っているわ」
「……あなたが来れば、ユージンさんのやり方が間違っていることが、世界に証明される。……そうでしょう?」
レオナはユージンを一度も振り返ることなく、足早に事務所を後にした。 バタン、と扉が閉まる。
あとに残されたのは、不自然に清潔な空気の残滓と、ミラの手に残された、金箔が施されたあまりにも重すぎる招待状だけだった。
「……ユージンさん」
ミラが、消え入るような声で呼んだ。
だが、ユージンはただ、レオナが蹴り倒した椅子を見つめたまま、何も答えなかった。 その横顔は、いつにも増して深く、暗い影に沈んでいた。




