第12章 復讐の聖女 第2幕
地下街R-7の事務所。
窓のないこの部屋では、インクの匂いと古い紙の湿り気だけが、確かな時間の経過を教えてくれる。
壁一枚隔てた外では、怒号や取引の声が絶えず、時折、金属を叩く乾いた音が響く。子供が学び、言葉を考える場所としては、あまりにも不釣り合いな区画だ。それでも――この街で「居場所を失った者」たちにとって、R-7は最後に辿り着く場所でもあった。
「……ユージンさん」
「なんだ」
「この、えっと……『不当な不利益を……こ、こうむる』っていうのは、お腹が空いているのにパンを隠されるのと同じ、ですか?」
ミラの問いかけに、ユージンはわずかにペンを止めた。
最近のミラの質問は、語彙こそ追いついていないものの、事の本質を突くことが増えている。彼女は言葉の「定義」を学ぶのではなく、自分の生きてきた「泥の中の経験」に照らし合わせて理解しようとしていた。
「……概ね合っている。だが、パンを隠すのが『個人の悪意』なら、不利益を被るというのは『仕組みの悪意』だ。……その教材、今日はそこまでにしておけ。知恵熱が出るぞ」
「はい……。でも、わかるようになったとおもったら、結局よくわからないことが増えてるような気がします」
「……そうだろうな」
ユージンは椅子に深く背を預け、ミラを見つめた。
出会った頃の怯えた小動物のような気配は消え、今では事務所の風景の一部になっている。彼女が淹れる茶の温度も、掃除の加減も、ユージンにとっては心地よい。
だが、ユージンは決してその先――「家族」や「師弟」といった甘い領域へは足を踏み入れない。
「ミラ、買い物に行ってきてくれ。リストはそこだ」
「あ、はい。……行ってきます、ユージンさん」
渡されたメモを大切そうに握り、ミラが部屋を出ていく。
ユージンは、彼女が閉めた扉を数秒だけ見つめ、誰もいない空間に向かって一人つぶやいていた。
「やれやれ…少しは静かに過ごせるな」
市民区画のマーケットへ向かう道すがら、ミラはいつも気になっている場所があった。
大通りに面した、真っ白な三階建ての建物。そこだけが聖省の「白亜の塔」の欠片を切り取ってきたかのように、整然としていて、冷たかった。
(いつも、人がいっぱい……)
建物の前には、子供の手を引いた親たちが列をなしている。どの親も顔色を変え、必死な面持ちで中を覗き込んでいた。Eランクの掃き溜めでは決して見ることのない、「焦燥」という名の熱気がそこには渦巻いている。
ミラがその横を素通りしようとした、その時だった。
「はい、お嬢さんもどうぞ。未来を掴むための第一歩ですよ」
建物の前に立っていた職員らしき人物が、ミラの手に一枚の紙を押し付けた。
ミラは驚いて足を止めたが、職員はもう次の親子に声をかけている。
手の中のチラシには、色鮮やかな装飾と、ミラでも読める大きな文字が躍っていた。
『あなたの志を、光り輝くランクへ。ランクアップ率95%の奇跡――ライフ・エナジー』
(ライフ……エナジー。ランクアップ率95%……?95%ってすごいことなのかな?)
ミラはそれを、買い出し袋の隙間に差し込んだ。
自分には関係のない、高い壁の向こう側の話だと思いながら。
*
「ただいま戻りました」
事務所に帰ると、ユージンは変わらず机に向かっていた。
ミラは買ってきたものを片付ける。その際、袋の底からさっきのチラシがひらりと床に落ちた。
「なんだ、それは」
ユージンの声に、ミラは慌ててチラシを拾い上げた。
「あ……これ。帰り道、いつも人だかりができてる建物の前を通りかかったら、無理やり渡されました。ランクアップ95%って書かれていましたが、すごいことなんですか?」
ミラからチラシを受け取ったユージンは、最初は鼻で笑った。
「……フン。ここ数年、羽振りがいいと噂の塾だな。志の書き方なんていう『正解のないもの』を教えて金を稼ぐ。あくどい商売だよ」
ユージンの皮肉に、ミラはふと首を傾げる。
「……でも、ユージンさんの『代筆』も、同じじゃないですか? 言葉を書いて、ランクを変えるのは……」
鋭い指摘だった。ユージンは苦笑いしながら、チラシの細部に目を向けた。
「……手厳しいな。確かに、俺のやっていることも――」
そこで、ユージンの言葉が止まった。
チラシの下部に記載された、代表者の名前。そして、その塾の「教育方針」として書かれた独特な言い回し。
ユージンの瞳から、いつもの冷静な色が消えた。
指先がチラシの端を強く握りしめ、わずかに震える。
脳裏に浮かんだのは、八年前、白亜の塔の窓際で、退職届を前に立ち尽くしていた一人の女性の背中だった。
――救ったつもりで、壊してしまった。
そう結論づけ、記憶の底に沈めたはずの光景が、今になって鮮明によみがえる。
「……ユージンさん?」
ミラの問いかけに、彼は答えない。
ただ、その目は五年前に自分が「壊してしまった」はずの、ある女性の姿を追っているようだった。
「何か……気になることでも、ありますか?」
ミラが恐る恐る尋ねようとした、その瞬間。
バタン、と。
ノックもなしに、事務所の重い鉄扉が開け放たれた。
「……す、すいません! あの、予約はされてますか?」
ミラが反射的に前に出た。
そこに立っていたのは、高級なマントを羽織り、凛とした美しさを湛えた一人の女性だった。彼女はミラの存在など目に入っていないかのように、まっすぐに部屋の奥――ユージンを見つめた。
「いいえ。お嬢さん、予約はしていないけれど」
女性は、どこか懐かしむような、それでいて勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「お宅の所長さんは、会ってくれるはずよ? ……ねえ、ユージンさん。いいえ――『聖省の良心』」
ユージンは、チラシを握ったまま、椅子から立ち上がることもできずに彼女を凝視していた。
「……レオナ」
事務所の空気が、一瞬で凍りついた。
ミラは、二人の間に流れる「言葉にできないほどの重い沈黙」に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




