第12章 復讐の聖女 第一幕
聖省、通称「白亜の塔」の内部は、今日も静謐という名の暴力に満ちていた。
高い天井から降り注ぐ光は、汚れなき大理石を照らし、行き交う書記官たちの足音さえも「記号」として処理していく。ここには、ランク制度という名の神が支配する絶対的な秩序があった。
そんな、選ばれた塔で責務を果たすことに夢を見ていた彼女は――十年前、希望に満ちた役職の責務を果たすことができなかった。
八年前のあの日、市民折衝課への異例の抜擢を得た彼女は、Sランクの方針を「一般のランクへ浸透させる言葉」へと翻訳させる立場になったことに希望に満ちていた。
だが…
――「あんたの説明じゃ、結局どうすればいいか分からないんだよ」
――「あの人……ユージンさんなら、もっとわかりやすく、俺たちの立場になって言葉にしたぞ!」
窓口で浴びせられた溜息と、比較の言葉。
ユージン・クレール。かつて「聖省の良心」と呼ばれた男。彼が現場に現れた瞬間に空気が変わり、混乱が秩序へと変わるあの魔法のような光景。
彼女は、その力量をまねできるだけの自信があった。だが、彼の紡ぐ言葉を再現しようとする彼女の説明は、常に「正解」に届かず、市民を苛立たせ、ついには現場を崩壊させた。
ユージンは場を救ったが、同時に彼女の居場所を永遠に奪い去ったのだ。
だから彼女は市民折衝課の担当を辞任し、今は資料整理室で淡々と資料整理をこなしながら、三年の月日を無為に過ごしていた。
(私は、この塔の不純物だ。……もう誰も私のことになんて無関心だろうな…)
彼女は、震える手で『退職届』を書き上げた。
誇りも、希望も、すべてを捨てて、聖省を去ろう…もう私の居場所などどこにもない。
*
「…レオナ…退職届に名前を書いて、そんな悲しい目のままここを去る気かい?」
不意にかけられた声に、レオナは心臓を跳ねさせた。
振り返ると、そこにはアーヴェルが立っていた。かつての同期で今でも、滞りなく実務をこなす彼は、レオナと並んで『次代の希望』と呼ばれ、彼の笑みは塔の冷気さえも和らげるような、温かさを備えていた。
「アーヴェル・・・・私を笑いに来たの?」
「とんでもない。君が悩んでいるのは知っていたからね。ユージンの件も……彼は優秀すぎて、時として残酷な太陽になる」
アーヴェルはレオナの退職届を一瞥しながら言葉をつづけた。
「レオナ。君がここで失敗したのは、君に才能がないからじゃない。この『塔』というシステムが、君の『優しさ』を処理しきれなかっただけなんだよ。ここでは言葉は刃だが、外の世界では言葉は『灯火』になる」
彼はレオナの隣に寄り添い、窓の外に広がる灰色の街並みを優しく指差した。
「見てごらん。この国には、ランクの壁に絶望し、自分の志さえ見失っている子供たちが溢れている。聖省は彼らを切り捨てるが、誰かが彼らに『正解の書き方』を教えてあげなければ、この国は停滞する」
レオナの瞳に、わずかな光が宿った。
「教える……私が?」
「そう。教え、導き、救うんだ。君がここで味わった『分からない側の苦しみ』は、教育者としての最大の武器になる。……どうだい、レオナ。この窮屈なAランクを捨て、自由なCランクとして、君だけの『聖省』を作ってみないか?」
「ランクを捨てる」という言葉は、本来なら絶望を意味する。だが、アーヴェルの口から発せられると、それはまるで「聖者への転身」であるかのように響いた。
「君ならできる。妥協せず、誠実に。私が個人的に支援を約束しよう。……この国に、正しい『教育』を根付かせるためにね」
レオナは、差し出されたアーヴェルの手を取った。
その眼には新しい希望が…「私が子供たちを導く」という使命が宿っていた。
*
それから五年の歳月が流れた。
街の喧騒から少し離れた一角に、白亜の塔を模したような端正な建物がある。
私設塾「ライフ・エナジー」
その代表であるレオナの名を知らぬ親は、今やこの界隈にはいない。
レオナは、塾の廊下を静かに歩いていた。
背筋を伸ばし、一分の乱れもない落ち着いた所作。廊下ですれ違う生徒たちが、緊張と憧れの混じった眼差しで彼女に会釈する。レオナはそれに対し、慈愛に満ちた、しかしどこか不可侵のオーラを纏った微笑みで応える。
「……先生、ありがとうございました! うちの子、本当にCランクに上がれたんです!」
「先生……すみません。今回は現状維持で……。大変よくしていただいたのに、結果が出せず申し訳ないです」
受付ホールでは、日々ドラマが繰り広げられていた。
ランクアップを勝ち取った親は、涙を流してレオナの手に花束や記念品を握らせようとする。
レオナは「あの子の努力の結果ですよ」と穏やかに微笑む。その姿は、まさに生徒を救う聖女そのものだった。
一方で、ランクを維持するにとどまった親には、レオナは微笑みを消さぬまま、射抜くような鋭い視線を向ける。
「お母さま、こちらこそお力になれず申し訳ありません」
生徒の結果を自分事のようにとらえるその姿勢が、保護者からの親交を深めていった。
そして――ランクダウンを喫した子の親。
彼らがレオナに向けるのは、さげすむような、呪わしげな視線だ。
「あんなに金を払ったのに……。結局、詐欺じゃないか!」
警備員に連れ出される親の罵声を背中で受けながら、レオナの心は、凪いだ海のように静かだった。
*
代表室の重厚な扉を閉めた瞬間、レオナの顔から「聖女」の表情が剥がれ落ちた。
彼女は高級な革椅子に深く腰掛け、デスクに広げられた実績表を見つめる。
――『ランクアップ成功率:九十五パーセント』。
レオナは、入塾前の面談で「上がる子」と「落ちる子」を正確に嗅ぎ分けていた。
地域の評判が確立した今は、この数字こそが、彼女の命綱だった。成功した九十五パーセントの生徒は、彼女の正しさを証明する輝かしいトロフィーだ。彼らの名前だけは、愛おしく記憶に刻む。
だが、残りの五パーセント――。
(……ついてこれなかったのは、私ではなく、あの子たちの資質の問題。教育を理解しようとしなかった親の責任。……私が責任を感じる価値はない)
レオナはそう自分に言い聞かせ、記憶の隅にある「失敗した顔」をシュレッダーにかけるように消去していく。
だが、どれほど実績を積み上げ、どれほど感謝の言葉を浴び、どれほど財を成しても、レオナの胸の奥にある「穴」が塞がることはなかった。
成功させた子供たちを見ても、その子供たちの未来に興味がない。ただ必要なのは、ランクアップしたという事実だけなのだ。
そんなある日のことだ。
レオナは保護者からあるうわさを聞いて、呼吸が荒くなっていることを自覚した。
曰く…
「……Bランクだった傲慢な男が、Eランクへと落ちた。その際、代筆のせいだとわめいてたらしい」
「ランクを上げることではなく、その人間にとって最も正しい言葉を見つけ出す、呪われた物書きがいる」
「ただ、同時に代筆でランクを上げたものがいるらしい」
保護者からの話に、レオナの指先が白くなるほど震え、呼吸が荒くなった。
この国において、志の提出は神聖な儀式である。その神聖な儀式に代筆という行為を行える人物。他人の言葉を代替できるだけの人間…
そんな真似ができる狂人は、世界にただ一人しかいない。
「……ユージン・クレール」
八年前、自分を絶望の淵に突き落とした男。
言葉の正しさだけですべての民衆を納得させる、あの「聖省の良心」。
「ユージンさん…あなたが代筆をしてなんで、ランクダウンなんかが起きているの。」
レオナは、立ち上がって窓の外を見つめた。
彼女の運営する塾の窓からは、アイギス連邦の市民区画が一望できる。
自分は、アーヴェルに導かれ、九十五パーセントの成功を積み上げてきた。
自分は、あの日居場所を奪った男よりも、ずっと多くの人間を「救って」きたはずだ。
なのに、なぜ。
なぜ、この噂を聞いただけで、吐き気がするほどの「敗北感」が喉元までせり上がってくるのか。
「確かめなければ」
レオナは、デスクの上に置かれた端末を通じて、『代筆』というキーワードをもとに検索を始める…
そして見つけた
…私の運命を狂わせたであろう、人物が運営している『代筆屋』を…私の人生を狂わせたあの男が、やり方は違えど私と同じ領域にいる。
「…他人の志に介入していいのは、九十五パーセントのランクアップを実現している私だけだ。ユージンさん‥あなたじゃない。」
教育という名の戦場に立つ「女神」は、かつての恩師であり、宿敵である男との邂逅を決意した。
(私は間違っていない。……間違っているのは、あの人の『言葉』だ)
そう呟いた彼女の瞳には、かつての絶望した少女の影ではなく、自分自身をランクという鎖で縛り上げ、そこから逃げられなくなった一人の亡霊の姿があった。




