第11章 父と娘とランク(第4幕)
夕闇がギルバート家の壮麗な屋敷を包み込み、街灯の淡い光が精緻な石造りの外壁に長い影を落としていた。 豪奢な馬車が正面玄関に滑り込み、荒々しい足音が大理石のホールに響き渡る。ハワード・ギルバートが帰宅した。その表情は、一時間前の事務所での屈辱をそのまま持ち帰ったかのように、どす黒く濁っている。
彼は居間に飛び込むなり、控えていたミラを指差し、怒鳴りつけた。
「……おい! お前、今すぐこの屋敷から出て行け! 解雇だ、荷物をまとめて消え失せろ!」
突然の怒号に、ミラの手から銀のトレイが滑り落ちそうになる。
「え……? ギルバートさん、あの、私は……」
「黙れ! Eランクの分際で、私の家庭をかき乱しおって。あの無礼な代筆屋に何を吹き込んだ! 清浄な我が家に貴様のような不浄な存在を入れたのが間違いだったんだ!」
ハワードの形相は鬼気迫るものがあった。長年築き上げてきた「完璧な父親」の仮面が、焦燥によってひび割れている。彼の手がミラの肩を掴もうと動いた、その時だった。
「お父様、おやめになって」
凛とした声が響き、エマ・ギルバートが二人の間に割って入った。彼女は怯えるミラの前に立ち、盾となるように立ちはだかる。
「エマ……! 退きなさい。この娘は不吉だ。あんな詐欺師の言葉を真に受けて、お前を誑かそうとしたに違いないんだ」
「ミラさんは何もしていませんわ。彼女は私の学びを助けてくれた、ただの誠実な使用人です」
「口答えをするな!」
ハワードは、愛してやまないはずの娘に対して初めて、野獣のような怒号を浴びせた。一瞬、ホールが凍り付いたような静寂に包まれる。 ハワード自身、自分の声の大きさに驚いたように目を見開いたが、振り上げた拳を下ろす場所を見つけられずにいた。
しかし、エマは一歩も引かなかった。彼女はゆっくりと微笑みを浮かべた。それは、ユージンやミラが目撃した「憎悪」の影など微塵も感じさせない、一点の曇りもない「完璧な娘」の微笑みだった。
「落ち着いて、お父様。私は……お父様を悲しませるような志など、書きはしません。お父様が私をどれほど大切に想ってくださっているか、誰よりも理解しておりますもの」
エマの柔らかい指先が、ハワードの震える腕にそっと触れる。
「志の提出まで、あと一週間。私にこのミラさんと共に、最後のお勉強をさせてください。これも、高ランク者としての務めですわ。下層の者の視点を知り、その上で自らの高潔さを証明する……。それこそが、ギルバート家の令嬢にふさわしい振る舞いだとは思いませんか?」
ハワードの息が、徐々に整っていく。娘の瞳に宿る、自分への「絶対的な信頼」という名の毒に、彼は自ら呑み込まれていくことを選んだ。
「……務め、か。ああ、そうだな……。お前は賢い子だ。エマ、お前の判断が正しい」
ハワードは憑き物が落ちたように肩を落とし、弱々しく頷いた。
「……一週間だ。それまでは好きにするがいい」
彼が力なく部屋を去っていくと、ミラはへなへなとその場に座り込んだ。
「……あの、エマさん。どうして、助けてくれたんですか?」
ミラは、エマの背中に向かって問いかけた。 エマは振り向かず、窓の外、暗い庭園を見つめたまま答えた。
「せっかく、自分には想像もできないランクの子が目の前にいるんだもの。もっといろいろ知りたいじゃない? あなたがどうやって文字を覚え、何を見てきたのか……。教えるという行為は、教えられる側の背景を知らなければ成り立たないもの」
エマの視線は、机の上に置かれた一冊の教育学の本に向けられていた。
「教育……教えること、ですか?」
「ええ。この国には、知識すら『ランク』で区切られている。それがどれほど残酷なことか……あなたは、身をもって知っているはずでしょう?」
その横顔には、令嬢としての余裕ではなく、どこか職人気質で冷徹な、しかし情熱を秘めた「教育者」の萌芽が見えた気がした。
*
一週間後。 ギルバート家の庭園には、春の訪れを告げる柔らかな陽光が降り注いでいた。手入れの行き届いたバラの蕾が、わずかに膨らみ始めている。
ミラは荷物をまとめ、玄関のポーチに立っていた。今日でこの屋敷での仕事は終わりだ。そこへ、封筒を手に持ったエマが、かつてないほど清々しい表情で現れた。
「ミラ。結果が出たわ」
エマは封筒をミラに見せた。そこには、聖省の公印と共に、鮮やかな文字が刻まれていた。 『判定結果:Cランク』
「Cランク……!?」
ミラは思わず叫んだ。Bランクの特権階級の娘が、一段階下がったのだ。この国において、それは失敗を意味するはずだった。
「どうして……! Cランク…がお望みだったのですか?」
「ええ、そうよ。私はギルバート家の娘でいることが嫌で仕方なかったのだから。これでいいの」
「それに…お父様は今、ショックで寝込んでいらっしゃるわ。その間に、インペリアル・コマーズにお父様の横暴を告発することもできたわ」
エマはいたずらっぽく笑った。その笑顔には、もうあの「完璧な仮面」はなかった。
「だから、これでいいの。私は自分の志で、お父様の用意した檻を壊した。Cランクなら、親の干渉を受けずに自立して働く権利がある」
エマは庭園を見渡し、深く息を吸い込んだ。
「私、まずは自分の力で働いて、貯金をしようと思うの。そして、いつか『塾』を作ってみたいのよ。小さな、けれど誰もが自分の望んだランクで、正しくいられるような場所。文字を知らない子も、ランクに絶望した子も、人として当たり前の大切さを学べる塾をね」
エマの言葉は、これまでの誰からも聞いたことがないほど、静かで、力強い意志に満ちていた。
「ランクが人を決めるんじゃない。人が、ランクに命を与えるのよ。私は、それを証明したいの」
ミラは、胸の奥が熱くなるのを感じた。 これまではランクを上げることだけが、地獄から抜け出す唯一の奇跡だと思っていた。けれど、目の前の少女は、あえて「下りる」ことで、自分の魂を救い出したのだ。
「……エマさんなら、きっとできます。私、そんな塾があったら、真っ先に生徒になりたいです」
「あら、私が貯金をためるころにはミラも志を出してるわよ。そのときは、職員になってくれる?」
「わ…わたしが、職員?‥お、お役に立てるなら…」
二人は、身分の差を超えた柔らかな握手を交わした。 屋敷の鉄門を出る際、ミラが振り返ると、エマは明るい陽光の中で、ずっとこちらに手を振っていた。
裏通りR-7へ続く道は、以前よりもずっと広く、明るく見えた。 文字を覚え、世界を知り、そして一人の少女の「志」が生まれる瞬間に立ち会った。 ミラの鞄の中にある、ユージンから贈られた歴史書が、以前よりも少しだけ軽く感じられた。




