第11章 父と娘とランク(第3幕)
久しぶりに戻ったR-7の事務所は、地下特有の湿った冷気に包まれていた。 ミラは、ユージンが淹れた茶の熱さを指先に感じながら、屋敷で目撃した「二人の親子」を語った。エマ・ギルバートの完璧な微笑み。その裏側で研ぎ澄まされた、父親への静かな殺意にも似た憎悪。
語り終えたミラの声は、かすかに震えていた。
「……ギルバートさんは、彼女が何も知らないと思い込んでいます。でもエマさんは、お父様が誰を犠牲にしてあの生活を守ってきたのか、すべて知っていました。彼女は……志を出して家を出ると同時に父親の商会を訴えるつもりのようです」
ユージンは、情報屋のロウから届けられた厚い報告書を机に放った。
「……ロウが調べたギルバート商会の実情だ。ハワードが娘のために築いたその屋敷は、彼が使い潰した下請け業者たち労働の上に建っている。今回の買収劇も、元はと言えばハワードに切り捨てられた連中が訴えたことが始まりだ」
ミラは報告書に目を落とし、絶句した。文字しかわからなかった先月までと違い、社会の歴史を学習する機会を経て、それが単なる記号ではなく、奪われた人生の記録であると理解できてしまう。文章の意味を文字だけでなくその中身について思いをはせられるようになっている。
「……こんなの、あんまりです。お互いがお互いのために、嘘をつき続けて……」
「どうしたらいいか、なんて顔をするな」
ユージンは、冷淡にミラの視線を遮った。
「俺は代筆屋で、お前は助手だ。崩壊しかけた親子の仲を取り持つ慈善事業家じゃない。……それに、親子関係なんてものに、他人が言葉を挟む余地など最初からない」
「でも、このままじゃ……エマさんが志を出したら、ギルバートさんは…」
「ミラ。自分の親の悪行を正確に把握し、その喉元にナイフを突き立てようとするほど賢い娘だ。……そんな奴なら、たとえ俺たちが手を貸さなくても、自分の希望を叶え、生き残るための『志』を自分自身の力で書ける。……そうは思わないか?」
ユージンの言葉は、冷たく突き放すようでいて、どこかエマという少女の「意志」を尊重しているようにも聞こえた。 ミラは唇を噛み、しばらく黙り込んだ。納得できたわけではない。けれど、ユージンの言う通り、あの屋敷で見たエマの瞳には、代筆など必要としない強固な輝きがあったことも事実だった。
「……わかりました。でも……」
ミラは立ち上がり、コートを手に取った。
「あと一週間だけ、あの屋敷にいさせてください。来週、エマさんも志を提出します。彼女が最後に何を選び、どんな言葉を綴るのか……それだけは、見届けたいんです」
「勝手にしろ。だが、深入りして自分まで共倒れになるなよ」
ユージンのぶっきらぼうな背中に一礼し、ミラは再び、偽りの微笑みが満ちる屋敷へと戻っていった。
*
ミラが屋敷へ戻ってから数時間後。 事務所の扉が、叩きつけるような勢いで開かれた。
入ってきたのはハワード・ギルバートだった。一週間前よりもさらに顔色は土色に沈み、高級なはずのスーツにはだらしなく皺が寄っている。その目は、焦燥と狂気で血走っていた。
「……できたのか、クレール氏! 娘の志の代筆は!」
ユージンは椅子に深く腰掛けたまま、机の上に置かれた金貨の入った袋を、指先で静かにハワードの方へ押し返した。
「……この依頼は、受けられない。帰ってくれ」
ハワードの動きが止まった。
「……なんだと? 理由を聞こう。金が足りないのか? ならば、今の倍……いや、三倍出そう! 私はBランクだぞ、金ならいくらでも工面できる!」
「金の問題じゃない」
ユージンは淡々と言った。
「俺の調査と、現場を見た部下の報告を総合した結果だ。……あんたの娘に、この代筆は不必要だ」
「な、何を言っている! 必要に決まっているだろう! あの子はまだ十五だ! 世の中の仕組みも、ランク制度の厳しさも、何一つ分かっていない無垢な子供なんだ! 私が……私が守ってやらなければ、あの子は地獄に落ちるんだぞ!」
唾を飛ばして叫ぶハワードを、ユージンは冷めた目で見上げた。
「ギルバート氏、あんたの商売のやり口は調べさせてもらった。下請けを使い潰し、他人を踏み台にして今の地位を築いた。……そんな血の匂いが染み付いた屋敷で育った人間でも娘だけはいとおしいようだな」
ハワードの顔が引きつる。痛いところを突かれた反応だが、それでも彼は首を振った。
「それがどうした!当たり前だ!でも娘は違う! あいつは、私の仕事のことなど何も知らない! 知るはずがないんだ!」
「知っているか知らないかはどうでもいい。問題は、そこじゃない」
ユージンはため息をついた。
「ミラは、あんたの娘を見てこう言った。『彼女は自分で自分の道を決めている』とな。……俺は助手の目を信じている。あんたの娘は、あんたが用意した『檻』に入るようなタマじゃない。それだけだ」
ハワードは、信じられないものを見るような目でユージンを睨んだ。
「……助手? あのEランクの小娘のことか?」
怒りが、温度を変えた。侮蔑の色が濃くなる。
「ふざけるな……。教育も受けていないようなゴミ溜めの住人を潜り込ませて、何を吹き込まれたか知らんが……! ああ、そうだ、あんな不浄な存在を娘に近づけたのが間違いだったんだ! 底辺の人間ごときが、私の娘の何をごときが分かると言うんだ!」
「その底辺を見下す傲慢さが、あんたの目を曇らせているんだよ」
ユージンは静かに言い放った。
「自分の都合のいいようにしか他人を見ない。娘ですら、自分の保身のための道具として見ている。……そんな人間を通してみた娘の代筆など、俺にはできない」
「言語道断だ! まさか、これほどまでに無能で無礼な男だとは思わなかった!」
ハワードは震える指でユージンを指差した。
「『あの方』の推薦だというから、こんな下町までおつずれたというのに!……全くの期待外れだ! 詐欺師同然ではないか!」
ユージンの眉が、微かに跳ねた。
「……あの方?」
ハワードはハッとしたように口を噤んだ。しまった、という表情が顔を走るが、すでに吐き出した言葉を飲み込むことはできない。
「……な、何でもない。とにかく、こんな店はもう終わりだ! あのEランクの娘もすぐに解雇して追い出してやる! 契約は破棄だ、前払金も返してもらうぞ!」
「……金はそこに置いてある。持って失せろ」
ハワードは金貨の袋をひったくるように掴むと、激しい足音を立てて事務所を飛び出していった。
静まり返った室内で、ユージンは一人、万年筆を弄んでいた。 ハワードが口にした「あの方」という言葉。 この裏通りの、それも「R-7」という暗号のような場所を知り、ユージンの過去の経歴を知り、わざわざハワードのような人間にここを教える存在をユージンは一人しか知らない。
「……アーヴェル…それがお前のやり方なのか?」
ユージンは、真っ白なままの羊皮紙を見つめた。
ハワードは最後まで、自分の娘が研いでいるナイフの存在に気づかなかった。 ピエロは舞台から降りたが、劇はまだ終わっていない。
「ミラ。すまん、1週間屋敷勤めは無理かもしれん」
ユージンは、キャップを開く音を静かに響かせた。
Bランクの親子の決裂。その背後に暗躍しているかもしれない元同僚。
物語の歯車は、ユージンの意志とは無関係に、より巨大で残酷な方向へと回り始めていた。




