第11章 父と娘とランク(第2幕)
煙の立ち込める地下の居酒屋。ここは「白亜の塔」の潔癖な空気とは対極にある、欲望と情報の掃き溜めだ。 ユージンは、濁った琥珀色のエールを啜りながら、向かいの席で串を頬張る男を眺めていた。
「……で、ギルバート商会の『本当の評価』はどうだ、ロウ」
ロウは脂のついた指を舐め、にやりと笑った。その瞳には、酔客を装いながらも一切の隙がない。
「相変わらず食いつきが早いね、ユージン。ハワード・ギルバート。表向きは物価高の犠牲者、買収に怯える悲劇の経営者。……だが、裏じゃ『Bランクの暴君』だぜ」
「暴君?」
「ああ。あそこの商会はね、DランクやEランクに近い下請けを使い潰すことで、今のBランクの地位を維持してきた。無理な納期、言葉の暴力、不当な契約破棄。……今回、買収を持ちかけたインペリアル・コマースもどちらかというと、下請け救済の側面が強いな」
ユージンは眉を潜める。ハワードのあの必死な顔は、被害者のものではなく、追い詰められた加害者のものだったというわけだ。
「面白いのはここからだ」
ロウは声を落とし、テーブルに身を乗り出した。
「今回の買収条件、ハワード個人にはかなり過酷だが、商会自体は存続する。そして、買収側の担当者が妙にハワードの『弱点』を握りすぎている。どうも内通者がいるるってもっぱ腹の噂だぜ」
「内通者だと? 取締役級の誰かか」
「それがねぇ……」
ロウは空のグラスを振り、氷の音を鳴らした。
「ギルバート商会はすでに社長の腰ぎんちゃくだけだから取締役級とは思えないんだよなー」
ユージンの指が、グラスの縁で止まった。
「……エマ、か」
「ま、その可能性もあるかもな」
(この情報量…こいつ個人というより、飼い主から得た情報を問題ない範囲で垂れ流しているな…)
ユージンは無言でエールを飲み干した。
(さて、ミラ…がんばれよ)
*
ギルバート家の屋敷での生活は、ミラにとって驚きの連続だった。 毎日、汚れ一つないシーツが用意され、銀食器が並ぶ食卓がある。ミラは「住み込みの家庭教師助手兼、話し相手」という名目で、エマの部屋の近くに部屋を与えられた。
しかし、一週間も経つと、その輝きは色褪せ、代わりに「重苦しさ」が肌にまとわりつくようになった。
「ミラ、お茶のおかわりをお願い」
エマ・ギルバートは、絵に描いたような令嬢だった。
美しいブロンド、淑やかな所作、そして何より、父親ハワードが部屋に入ってきた時に見せる、天使のような微笑み。
「エマ、勉強の調子はどうだい? 会社のことは気にせず、お前が幸せになる志を目指すんだよ」
ハワードがエマの肩に手を置く。エマは少し恥ずかしそうに、それでいて完璧な信頼を寄せる瞳で父親を見上げた。
「いいえ、お父様、私はお父様を悲しませたあの企業に必ず一矢報いてみますわ。そして、私がこの家を、いつか……」
その光景だけを見れば、理想的な親子だった。 しかし、ミラは見逃さなかった。 ハワードが満足げに部屋を去り、扉が閉まったその「一瞬」。
エマの顔から、すべての感情が消えた。 手に持っていたペンを、まるで汚らわしい虫を叩き潰すかのように机に置く。その瞳に宿ったのは、軽蔑を通り越した、純度の高い「憎悪」だった。
(……え?)
ミラは、淹れかけた茶をこぼしそうになった。 エマはすぐにミラに気づき、またいつもの穏やかな表情に戻る。
「……ごめんなさい、ミラ。少し疲れちゃったみたい。一人にしてくれる」
それからさらに一週間。ミラは慎重に、エマとの距離を詰めていった。 ミラがEランクの出身であることを話すと、エマは意外なほど身を乗り出した。
「Eランクからでも這い上がろうと必死にしているのね。ミラは凄いわ。私もそんな風に頑張っている人の力になりたい。今噂のあの人みたいに」
「噂のあの人?」
「そう、元聖省の人なんだけど、わざわざ自分からCランクに降りてきて、志を書くための塾をやっておられるの!その塾に通うと1ランク上に上がれるって評判なの!誰かを犠牲にすることなく、誰かのためになれるって素敵なことじゃない?」
エマは窓の外の庭園を眺めながら心からそう言い切った。
手入れの行き届いた、美しく、逃げ場のない庭。
「ねえ、ミラ。お父様は、私のことを『純粋で無垢な犠牲者』だと思っているの。……滑稽だわ。お父様がBランクを守るために、どれだけの人の人生を『掃除』してきたか、私は全部知っているのに」
エマの声は、冷たく透き通っていた。
「私の部屋にあるこの高い本も、あなたが淹れてくれる上等な茶葉も、全部、誰かの『絶望と犠牲』で買われたものよ。……それを知りながら、『パパ、ありがとう』なんて言えるほど、私は馬鹿じゃない」
「……本当は、お父様に反抗したいんですか?」
「反抗? いえ、そんな子供じみたことじゃないわ。ただ、私が志を書いてこの家を出るにあたって、このギルバート商会をこのままになんてできない。必ず罪を償わせる」
ミラは背筋が凍るのを感じた。
「エマさん、それって……」
「お父様は私を愛しているんじゃない。Bランクという『トロフィー』を守るためのパーツとして、私を愛しているのよ。……だから、私も愛してあげる。彼が一番大切にしている『ランク』を、跡形もなく破壊することでね」
エマはミラに向き直り、その人差し指を自分の唇に当てた。
内緒よ、と微笑むその顔は、ハワードに見せるものと同じ、完璧な美しさだった。
しかしその奥で、彼女は十五歳の少女が抱くにはあまりに重く、鋭いナイフを研いでいた。
ミラは、言葉を失った。
「……ユージンさん」
ミラは心の中で、自分をここへ送り出した男の名を呼んだ。
この歪な親子の間で、自分たちは本当に必要とされるのだろうか…。
窓の外では、夕闇が屋敷を飲み込もうとしていた。




