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第1章 銀貨3枚の庭師(後編)

D ランク地区を管轄する「市民行政局」のロビーは、古紙と乾いた汗、そして諦めの臭いが充満していた。 窓のないコンクリートの広間に、数百人の若者が押し込められている。義務教育を終え、最初の「志」を申告しに来た同世代だ。だが、聞こえてくる会話は小声ばかりだった。


「......どうせ、親父と同じ工場だ」

「D ランク維持なら御の字だろ。ヘマしなきゃいい」


誰も未来の話はしない。口に出るのは、工場の名前か、日銭の計算だけだ。 その淀

んだ空気を、不意に裂く声があった。


「......嘘だろ」


次の瞬間、機械的な音声が冷たく響く。


『判定:不適格。E ランクへの降格を処分する』


衛兵に腕を掴まれた若者が、抵抗することもできずに引きずられていく。その姿を誰も直視しなかった。列に並ぶ者たちは、祈るように俯き、自分の番が一秒でも遅れることを願った。 少年は、列の最後尾で懐のスクロールを握りしめていた。手汗で紙が滲まないよう、布で何重にも包んである。あの薄暗い裏通りの店で、銀貨三枚と引き換えに手に入れたものだ。


(......大丈夫なはずだ。あの人は、プロだと言っていた)


自分に言い聞かせるように、少年は息を整えた。それでも心臓の鼓動は、耳元で警

鐘のように鳴り続けている。 三時間後。ようやく順番が回ってきた。 受付のブースには、鉄格子越しに役人が座っていた。目の下には濃い隈。書類から視線を上げることすらしない。


「次。ID と志を」


感情のない声だった。今日だけで、何百、何千という志を処理してきたのだろう。


「......はい」


少年は ID プレートを差し出し、布包みを解いた。現れたのは、上質な羊皮紙ではな

い、安物のスクロールだ。役人は一瞥しただけで、顎をしゃくる。


「水晶にかざせ。読み上げは不要だ」


カウンターに埋め込まれた、拳大の透明な水晶。聖省のホストコンピューターに直結した採点機だ。 少年は息を止め、スクロールを広げた。


『私の志は......』


そこから先は、少年自身も意味を半分も理解していない文章だった。水晶の上を、文字が滑っていく。 ブゥン、と低い音が鳴る。 数秒。あるいは、永遠。 水晶が、見慣れない色に染まった。黄色でも、赤でもない。 役人が初めて顔を上げた。そのわずかな動きに、少年の喉が鳴る。


『判定完了。適合職種:造園技能士』

『推奨ランク:C』

『中流市民権の付与を承認します』


碧。 鮮烈なその光が、ブースの中を満たした。 背後から、どよめきが広がる。


「......今、C って言ったか?」

「ここからか?」


少年は膝が崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。頭の奥に、裏通りの暗がりが一

瞬だけ浮かぶ。 ――通る文章だ。あとは機械が仕事をする。 あの男の声。 役人は

無言で、緑色のプレートをカウンターに置いた。C ランクを示す新しい身分証だ。


「......運がいいな。出口は右だ」

「......ありがとう、ございました」


少年はプレートと、役目を終えたスクロールを胸に抱きしめ、歩き出した。 足取りはまだ覚束ない。それでも、入ってきた時とは違う重みが、確かにそこにあった。


石畳の向こうに、整えられた庭があった。 低い生け垣、均された土、剪定された若

木。どれも派手ではないが、手が入っていると一目で分かる。 ユージンは足を止め

た。 庭の奥で、一人の少年が動いていた。 腰を落とし、親方の指示に短く返事をし

ながら、剪定鋏を迷いなく入れていく。動きは速くないが、無駄がなかった。切り落とした枝を拾い、土をならし、次の作業へ移る。その一連が、途切れない。


「そっち、切りすぎるな」


低い声が飛ぶ。


「はい」


少年は即座に応え、手元を修正した。 叱責ではない。指導だ。信頼のあるやり取り

だった。 ――悪くない手つきだ。 ユージンは、それだけを思った。 名も、顔も、記憶には引っかからない。ただ、評価だけが残る。 その瞬間、少年の動きが、ほんの一拍だけ乱れた。 鋏が止まり、視線がわずかにこちらへ流れる。 目が合うことはなかった。それでも、少年は確かに気づいていた。

次の瞬間には、何事もなかったように作業が再開される。 近寄らない。反応しない。約束を守る動きだった。


「おい、次はこっちだ」

「はい!」


親方の声に、少年は駆け出した。 走りながら、一度も振り返らない。 庭に残ったの

は、整えられた土と、切り揃えられた枝だけだった。 ユージンは、ゆっくりと歩き出す。 誰かを救った実感はない。世界も、制度も、何一つ変わっていない。 それでも、今日もまた―― 一枚のパスポートが、確かに役目を果たしていた。



かくして少年はCランクの人生を手に入れた

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