第11章 父と娘とランク(第1幕)
誕生日の一件から事務所の空気が変わった、とユージンは感じていた。
相変わらず窓のない地下の一室。埃っぽさと古い羊皮紙の匂いはそのままだが、どこか以前よりも「呼吸がしやすい」気がする。
その理由は、机の向かいで熱心に本をめくる少女にあった。
「……ユージンさん」
ミラが声をかけてくる。以前のような、距離を測る呼び方ではない。そこには明確な「知への欲求」が宿っていた。
「なんだ」
「この、六十年前の『大統合』の記述なんですけど。これによると、ランク制度が導入される前は、ランクなんて特になくて、今のCランクやBランクよりずっと豊かな生活をしていた人がたくさんいたって書いてあります。でも、今はBランクでも企業の倒産があるって……どういうことですか?」
ユージンは手元の万年筆を置き、少しだけ背もたれに体重を預けた。誕生日に贈った『図解・アイギス連邦のあゆみ』。ミラはそれを、ただの教材としてではなく、自分が生きる世界の地図として読み込んでいる。
「……効率化だよ」
「効率化?」
「かつては、無能な人間も有能な人間も、曖昧な基準で混ざり合って生きていた。それが富の無駄遣いだと結論づけられたんだ。ランク制度は『適材適所』という美名のもとに、無駄を削ぎ落とした。その結果、低ランクは変わらない安定を手に入れ、Bランクは『豊かさと競争』が定着したのさ」
ミラは真剣な眼差しでユージンの言葉を咀嚼し、手元のノートにペンを走らせる。 「だから、みんなあんなに必死なんですね」
「ああ。特に、代々Bランクで一度も落ちたことのない連中にとっては、ランクダウンは死と同義だ」
かつてのミラなら、ここで「怖い」と言って口を閉ざしていただろう。だが今の彼女は違う。
「……もし私が、ランクを上げたとき、その競争に巻き込まれることはあるのでしょうか?」
冗談めかした様子はない。ユージンは鼻で笑おうとして、思いとどまった。
「……さあな。まずはその下手な字を直すのが先決だ」
「あ、また言った! これでもアーヴェルさんには『個性的でいい』って言われたんですよ」
「あいつは嘘つきのプロだ。真に受けるな」
そんな軽口が交わされるようになったこと自体、この事務所における最大の変革だった。誕生日に贈られたケーキの甘い記憶と、一冊の本が、二人の間にあった見えない壁を少しずつ、しかし確実に溶かしていた。
その時、扉の呼び鈴が鳴った。 ミラは弾かれたように立ち上がる。
「私が出ます!」
しかし、扉を開けた瞬間のミラの表情が固まった。
「……あ、あの」
そこに立っていたのは、十五歳前後の志の提出を控えた少年少女ではなかった。
仕立てのいい、だがどこか皺の寄ったスーツを身にまとった中年の男性だった。顔色は土色で、目の下には深い隈が刻まれている。
「……ここが、クレール氏の事務所で間違いないだろうか」
男の声は震えていた。威厳を保とうとしているが、隠しきれない焦燥が漏れ出している。
「代理人か?」
「……ああ。そうだ」
男はミラを避けるように室内へ入り、ユージンの前の椅子に崩れるように座った。
「失礼、名乗るのが遅れた。私は、ハワード・ギルバート。中堅商社『ギルバート商事』の取締役を務めている者だ」
ミラが手際よく茶を淹れ、男の前に置く。男は礼を言う余裕すらないようだった。
「Bランクの重役が、こんな裏通りの店に何の用だ。志の提出は人生1回だけだぞ」 「……娘なんだ」
ハワードは、握りしめた拳を震わせた。
「今年十五になる、私のひとり娘の『志』を……君に書いてほしい」
ユージンは眉をひそめた。
「本人はどうした。この稼業は、本人の声を聞くのが大原則だ。カインの時のように、無理やり連れてくることもできたはずだろう」
「無理なんだ!」
ハワードの声が裏返った。ミラはビクリと肩を揺らす。
「娘には、この場所に来ることを……いや、代筆を依頼すること自体を、絶対に知られてはならないんだ。あの子は、あの子だけは、私のようになってほしくない……!」
ハワードは堰を切ったように語り始めた。
Bランクとしてそれなりの成功を収めてきた人生。しかし、近年の極端な物価高と、聖省が主導する「産業最適化」の荒波が、彼の会社を飲み込もうとしていた。
「来月、あの子が志を出す日には、我が社は巨大資本『インペリアル・コマース』に買収されることが決まった。……いや、買収という名の略奪だ。私はそこで一生飼い殺しさ」
「だが、娘のエマは……あの子は、まだ現実を分かっていない。私の会社を壊そうとしている連中を『私が大人になって、いつか絶対に潰してやる!』と息巻いているんだ。十五歳の、無知な正義感でな!」
ハワードの顔が歪む。それは愛情と、絶望が混ざり合った複雑な表情だった。
「あの子に『志』を書かせれば、間違いなくインペリアル・コマースへの敵意を込めるだろう。そんな私的な志を書けば間違いなくDランク以下になってしまう!」
ユージンは無言で聞き入っていた。 かつて自分が「聖省の良心」と呼ばれていた頃、同じような理由で居場所を奪われた人間を数え切れないほど見てきた。
「……それで、俺に何を望む」
「あの子の志を書いてくれ!」
ハワードは、絞り出すような声で言った。
「穏やかで、謙虚で、体制に従順な……そんな『志』を捏造してほしい。ランクは欲張らない。堅実なB、あるいは安全なCでいい。誰の目にも止まらず、誰からも標的にされない、ただ平穏に生きていけるだけの資格を……親としての、最後の贈り物として与えてやりたいんだ」
事務所に、重苦しい沈黙が降りた。 ミラは、自分の胸の奥がチリチリと焼けるような感覚を覚えていた。 かつて自分は、ランクを上げることだけが救いだと思っていた。でも、この父親が言っていることは逆だ。「娘の牙を抜き、平穏という名の檻に入れてくれ」と頼んでいる。
「……ユージンさん」
ミラは思わず口を開いていた。
「これって……」
「ミラ。客の前だ、控えていろ」
ユージンは鋭く制したが、その目はハワードを射抜いたままだった。
「ギルバート氏。あんたがやろうとしていることは、娘さんの人生の『簒奪』だ。本人の情熱をゴミ箱に捨てて、あんたの都合がいい仮面を被せる。……その代筆が成功したとして、そこに残る娘さんは、果たしてあんたの愛した『エマ』と言えるのか?」
「それでも、生きていてほしいんだ!」
ハワードはテーブルに身を乗り出した。
「かなわぬ志に取りつかれた目をして生きるのと、安心が確約された志に守られる生活…どちらがマシだと思う!? 君なら分かるはずだ、ユージン・クレール。言葉一つで人生が決まるこの国の恐ろしさを!」
ユージンは、デスクの引き出しから一枚の真っ白な羊皮紙を取り出した。 その白さは、白亜の塔の冷徹さを象徴しているようでもあり、これから描かれる嘘の残酷さを物語っているようでもあった。
「……前代未聞の依頼だな。本人のいない代筆、そして『牙を抜く』ための言葉か」
ユージンは万年筆のキャップを外した。
「引き受けるかどうかは、まだ決めない。だが、材料は必要だ。ギルバート氏、娘さんのこれまでの作文、趣味、口癖……彼女を形作っているすべての情報を置いていけ。それと……」
ユージンは一瞬、隣に立つミラを見た。
「ミラ。お前にしかできない仕事を頼みたい」
「……え?」
「ギルバート氏の家に家事手伝いとして、潜入して、娘さんの真意を聞いてこい」
ハワードが驚愕の声を上げる。
「潜入!? しかし、そんなことをして娘にこのことがバレたら……」
「こっちで勝手に代筆するのは簡単だ。でも彼女がその代筆を持っていかなければ意味がないだろ?だったら、少しでもあんたの娘の生の情報が欲しい」
ユージンの言葉に、ミラは強く頷いた。
「……わかりました。私、見てきます。その子が、本当に望んでいるものを」
事務所の扉が閉まった後も、空気の震えは収まらなかった。
「さて…今回の依頼…かなり面倒なことになりそうだ」
ユージンはそう言って外套を羽織って出かけた




