閑話休題 ミラの誕生日
その日、ミラはいつもより少し早く目を覚ました。
理由はない。ただ、胸の奥に微かなざわめきが残っていた。
裏通りR-7の事務所は、今日も変わらず静かだった。
壁際の机、使い込まれた椅子、角の欠けた棚。
ミラは短期間で何度も酷使され続けた教材と、自分で作った単語帳を開き、声を出さずに文字を追う。
――志。
――申告。
――等級。
覚えた言葉は増えた。それでも、まだ世界は遠い。
扉が開く音がした。
先頭を切って飛び込んできたのは、いつにも増して声の大きいロウだった。その後ろから、場違いなほど優雅に微笑むアーヴェル、そして最後に、いつもの不機嫌そうな顔をさらに歪めたユージンが続く。
「おかえりなさい……?」
ミラは慌てて単語帳を閉じ、椅子から立ち上がる。
三人が揃って帰ってくること自体が珍しい…というか、初めての気がする。
ロウの手には大きな箱。
アーヴェルは見慣れない瓶を抱えている。
ユージンは脇に、何かを包んだ細長い荷を抱えていた。
「あの……何か、あったんですか?」
「何か、じゃない!」
ロウが箱をカウンターにどん、と置いた。
「今日は何の日だったと思う?」
ミラは一瞬考え、首を横に振る。
「……分かりません」
「だよなぁ!」
ロウが満足そうに頷く。
「今日は君の誕生日だよ、ミラ」
アーヴェルの声は静かだった。
その一言で、ミラの思考が止まる。
「……たんじょう、び?」
「そう。戸籍上の記録によれば、今日がその日だ」
誕生日。
そんな言葉を、ミラは自分のものとして考えたことがなかった。
生まれた日付など、空腹の回数を数える以上の意味を持たない場所で育った。祝われる理由も、祝う習慣もなかった。
「……でも、私……」
一歩、後ずさる。
ロウが箱を開けた。
白いクリームに、色とりどりの果実。
見たこともないほど大きなケーキ。
「細かいこと考えるな!」
ロウが笑う。
「今日は祝う日だ!」
「……でも……」
「遠慮するな…こいつらに付き合ってやれ」
ユージンが短く言った。
彼は脇に抱えていた包みを、ミラの前に差し出す。
「最初の教材はずいぶん使い込んだな。あと1年で志を書くのに必要なものだ」
ユージンはぶっきらぼうに言いながら包みを渡した。
ミラは震える手で包みを開く。
現れたのは、一冊の本だった。
『図解・アイギス連邦のあゆみ』
難解な歴史と制度が、絵と簡潔な言葉でまとめられている。
ミラが何度も棚の前で立ち止まり、手に取ることすらできなかった種類の本。
「……私に……?」
ユージンはそれだけ言った。
「今のままで終わる気がないなら、読んで使いこなしてみろ」
言葉は少ない。
だが、拒む余地はなかった。
ロウが皿を並べ、アーヴェルが瓶の中身を注ぐ。
甘い香りが、事務所に広がった。
ミラは、本とケーキと、三人の顔を交互に見た。
胸の奥が、じんと熱くなる。
志だとか、等級だとか、そういう話ではない。
ただ――ここにいていい、と言われた気がした。
「……ありがとうございます」
声が震える。
「私……頑張ります。もっと、言葉を覚えて……」
「分かった分かった、今日はそういうのいいから」
ロウが笑う。
「まずは食え。溶けるぞ」
ユージンは何も言わず、ナイフを入れた。
それからしばらくして。
片付けが終わり、夜の気配が戻ってきた頃。
アーヴェルが、ふと思い出したようにユージンさんに言った。
「そういえば――カイン君の件だが」
ミラの指が止まる。
「……彼は、今かなり疲弊している・・それでミラ君にお願いがあるんだ」
「お願い?私にですか?」
「そうだ。カイン君あてに手紙を書いてくれないか?私から援助するよりその方が効果的な気がしてね」
「手紙…私が文字を書いて、渡すということですか?」
「そうだ、手紙さえ書いてくれたら、私から直接渡せる。頼まれてくれないかな?」
アーヴェルさんの言葉は途中から入ってこなかった。時間が止まったような感覚が出が過ぎていった。
「……ミラ」
ユージンさんの声で私は現実に帰ってこれたような気がした。
「どうするんだ?ミラ?」
「私なんかが、手紙を書いてもいいのでしょうか?」
「資格の問題じゃない、カインに対して何か力になりたいという気持ちがあるなら、書いたらいい。大事なのはお前がどうしたいかだ」
「お前が書きたいなら、書いていい。出してもいい」
それ以上は言わなかった。
ミラはゆっくりと頷いた。
「手紙書いてみます!私が何の力になれるかわからないけど、頑張って書いてみます!」
机に向かい、白い紙を前にする。
文字は、まだ拙い。
それでも、今なら――。
ペンを取る指は、震えていなかった。
鉄の扉に守られた、わずか数坪の事務所。
その夜、そこではひとつの誕生日と、
ひとつの手紙が、静かに始まっていた。




