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第10章 白亜の塔(後編)

 白亜の塔での生活が数か月を過ぎる頃、カインの指先からは、かつての工場仕事でついた硬いタコが消え、代わりにペンを握るための小さな隆起ができていた。


 死に物狂いの数か月だった。基礎学力が身につくにつれ、あんなに絶望的だった課題の山も、少しずつだが処理の速度が上がっている。かつて十三時間を要したノルマは、今では数時間の余白をカインに残すようになった。


 だが、その「余白」が、今のカインには毒のように作用していた。

 楽しくない。……そんな、贅沢な感情が胸をかすめる。


 あの日、泥の中から這い上がるためにランクアップを望んだのは自分だ。その切符は、アーヴェルの狡猾な情報と、ユージンの精密な言葉によって用意された。自分自身の力ではない、いわば「ズル」をして手に入れた席なのだ。


 だからこそ、カインには弱音を吐く権利などない。どんな非人間的な環境であっても耐え抜き、この場所で「Aランク」としての結果を残し続けなければならない。それが、添削という禁忌を犯した自分に課された義務だと思っていた。


 静まり返った自室で、ふと自分の手を見る。

 ペンを握る指は、もう痛まない。

 その事実が、なぜか怖かった。

 ランクが上がれば、すべてが解決すると思っていた。


 だが、手に入れた「A」の称号は、かつていた世界を救うための武器ではなく、自分をそこから遠ざけていくもののように感じられた。


 限界だった。


 ここでは、呼吸の音さえも不純物に思える。一定の温度に保たれた空気、影を許さない均一な照明、そして自分という人間を「A」という記号へ最適化していく終わりのない修正作業。白亜の塔は、人が生きる場所ではなく、純度の高い「志」を培養するための巨大なフラスコだった。


 そんなある日のことだ。講義室を繋ぐ回廊で、アーヴェルに呼び止められた。


「ずいぶん浮かない顔をしているね、カイン君」


 彼の声は、この塔の空気によく馴染む、涼やかで無害な響きをしていた。カインは反射的に口角を上げ、歪な笑顔を作った。


「そんなことないですよ。最近は要領も掴めてきて、自分の時間も作れるようになってきましたから」


 声が微かに震えた。吐いた言葉が、空虚な音を立てて冷たい大理石の床に転がる。誰が見ても下手な嘘だと気づくだろう。アーヴェルはわずかに眉を寄せ、値踏みするような、あるいは憐れむような目を一瞬だけ向けたが、それ以上は追求しなかった。


 代わりにおもむろに懐へ手を入れると、一通の封筒を取り出した。


「あの事務所の少女――ミラさんから手紙を預かったんだ。一度読んでみるといい」


ミラ。あの薄暗い代筆屋の事務所で、ユージンのそばにいた少女だ。まともな会話などした記憶はない。ただ、自分が必死に志を絞り出していた時、少し離れた場所で、壊れ物を眺めるような瞳でこちらを見ていた彼女の姿が、記憶の底から浮かび上がった。


 自室に戻り、一人になったカインは、震える指で封を切った。  中から出てきたのは、上質な聖省の書簡紙とは程遠い、ざらついた紙。そこに躍っていたのは、お世辞にも綺麗とは言えない、ひらがな混じりのたどたどしい文字だった。    


 一文字一文字が、紙に深く刻まれている。筆圧の強さが、彼女がどれほど懸命にペンを握ったかを物語っていた。この塔に住む「選ばれた者」が決して見せることのない、無骨で、必死で、泥臭い筆跡。それを見ただけで、彼女が自分たちより遥かに過酷なEランクという底辺から、必死に手を伸ばしていることが伝わってきた。


『おしごとがんばって、ください。カインさんのことばでわたしたちのせいかつをせつめいしてもらえるのを、たのしみにしています』


 それは、聖省の教育課程で教わる「論理」も「説得力」も持たない、あまりに幼稚な数行だった。  

 だが、カインの視界は瞬く間に滲んだ。  

 これまでカインを追い詰めていたのは、「自分の志」という名の孤独な鏡だった。鏡の中の自分と向き合い、磨き、高めることだけを強要される世界。そこには「他者」は存在しない。  


 けれど、この拙い手紙は、自分を「Aランク候補」としてではなく、ただの「カイン」という名の人間として呼びかけていた。


 自分の志を磨くことより、他人の生活を、自分にしか出せない言葉で説明してほしいと、彼女は願っている。 自分を部品としてではなく、一人の代弁者として必要としている誰かが、あの塔の外にいる。  


 嗚咽が漏れた。膝をつき、紙がふやけるのも構わずカインは泣いた。大賢者の絶賛も、Aランクの称号も、彼を救うことはできなかった。彼を救ったのは、文字さえ覚えたての少女が放った、あまりに無防備で真摯な、ただの「思いやり」だった。    


 ひとしきり泣き終えた後、カインは顔を上げた。  冷え切っていたはずの指先に、微かな熱が宿っている。  


 自分はまだ、歩ける。  


 白亜の塔を包む無機質な沈黙の中で、彼は生まれて初めて、自分自身の内側から湧き上がる静かな意志を感じていた。


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