第10章 白亜の塔(前編)
空が、高すぎた。
アイギス連邦の中枢「白亜の塔」を見上げれば、首が痛くなるほどの純白が天を突いている。街で見かける石造りの建物とは異なり、その壁面には継ぎ目一つなく、光を反射して発光しているかのようだった。
内部に一歩足を踏み入れれば、そこは無機質の極致だった。空気は一定の温度に保たれ、微かな消毒液の匂いと、静電気のような乾燥した気配が肌を刺す。カインの足音が、磨き上げられた大理石の床に異質なほど大きく響いた。
(……ここが、選ばれた人間しか入れない場所)
カインは数週間前の「二次試験」の光景を反芻していた。
巨大な円形ホール。頭上から降り注ぐ冷たいスポットライト。その光の輪の中に立たされた自分と、対照的に影の中に座る「Sランク」の重鎮たち。
そして中央に座す、象徴――大賢者。
カインは震える声を抑え、自らの志と、そこに至るまでの経緯を必死にプレゼンした。それはアーヴェルからもたらされた膨大な情報と、ユージンによる緻密な添削によって組み上げられた、一点の隙もない「正解」だった。
『君のような逆境に挑む若者を、私は待っていた。素晴らしい』
大賢者の声は、慈愛に満ちていた。合格。その瞬間の歓喜の裏で、カインの心にはどろりとした冷たい感触が残った。
(見抜けないのか……。これが、他人の手によって上乗せされた『借り物の言葉』だということに)
この国の頂点に立つ大賢者ですら、一人の少年に施された「精巧な化粧」に気づかない。その事実は、聖省という権威に対する憧れを、一瞬で得体の知れない恐怖へと変えた。
合格後、カインは塔内にある「専門教育機関---通称『聖省学院」」への入学が認められた。
そこは、その年の合格者たちがAランクとしての業務や役割を叩き込まれる、選民のための学び舎だ。だが、カインが目にした同級生たちは、皆、宝石のような瞳をして自分の端末や書籍だけを見つめていた。
廊下ですれ違っても、視線が交わることはない。誰かが咳き込んでも、誰も振り返らない。
彼らにとって、他人は「存在しないもの」に等しかった。教育機関の最終試験を突破できなければ、即座に脱落者として元のランクへ突き落とされる。その恐怖が彼らを縛り、自分の志だけを頼りに自分を磨き上げること以外、一切の余裕を奪っていた。
「……くそ、追いつかない」
カインは自室の机で、吐き気を感じながらテキストをめくっていた。
Dランク出身の彼にとって、Aランクの教育課程は、別の世界の言語を学ぶようなものだった。周囲のエリートたちが幼少期から当然のように身につけてきた基礎教養が、彼には決定的に欠けている。
彼らが一時間でこなす課題に、カインは三時間、四時間を費やす。追いつくためには、睡眠を削るしかなかった。
一日の勉強時間は、優に十三時間を超える。
窓のない部屋、響くのはペン先の音と自分の荒い呼吸だけ。孤独がじわじわと精神を削り、連日の無理が肉体の疲労を限界まで溜め込んでいく。
選ばれた志に忠実であれ――。
教官の言葉が耳元で呪文のように繰り返されるが、今のカインにとって、その志こそが自分をこの白い監獄に縛り付ける鎖そのものに思えていた。
白亜の塔での一日は、永遠と見紛うほどに長かった。
朝、決まった時間に覚醒を促す光が差し込み、深夜、意識が途切れるまでテキストを這いずる。Dランクの工場で働いていた頃も、毎日は単調で過酷だったはずだ。けれど、そこには油の匂いと共に、父や母、同僚たちの些細な笑い声や、とりとめのない会話があった。今は、それがない。
周囲の者たちは一様に、自らの「志」という聖典を盲信していた。自分にはこの場所に相応しい能力があると疑わず、提示される膨大な課題を、血の通わない数字へと変換していく。その処理速度だけが、彼らの存在意義だった。
ここでは、誰かが誰かを見下す光景を目にすることはなかった。
視線は交わらず、言葉も交わらない。すれ違うだけで、互いの存在は風景に溶けていく。
誰もが自分の内側にのみ没入し、他者に割く注意そのものが、最初から用意されていないかのようだった。
その静けさが、カインにはひどく居心地が悪かった。
Aランクは、Bランクよりもさらに高く、人々がより個性を輝かせている場所だと思っていた。だが、実態は真逆だった。
彼らは皆、与えられた役割から一歩もはみ出さず、淡々と課題を処理していく。
その背中を眺めていると、カインは時折、ここが人の集まる学び舎ではなく、精密に組まれた装置の内部なのではないかという錯覚に襲われた。
自己の利益を剥き出しにし、感情のままに無理な要求を突きつけてきたCランクやBランクの元請け工場の連中のほうが、ここではよほど人間らしく思える。
完璧に調整された空調の音が、耳鳴りのようにカインの孤独を逆撫でし続けていた。




