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第9章 変わらないこと、変わりたいこと(前編)

この物語は、

「正しい志とは何か」

「変わらないことは、逃げなのか」

そんな問いを、答えを用意しないまま投げています。


誰かを否定するための話でも、

誰かを救済するための話でもありません。


ただ、

選ばされること

選ばないこと

選べないこと

その間で揺れる人間の話です。


正しさよりも、違和感を。

結論よりも、引っかかりを。


そんな気持ちで読んでいただければ幸いです。

 Dランクから、Aランク候補になった少年の依頼以降。

 ミラの様子は、明らかに変わっていた。

 机に向かう時間が増えたわけではない。

 むしろ、手は以前より速く動いている。

 文字をなぞる迷いも減り、読み返す回数も少なくなった。どんどん覚えている。どんどん吸収できている


 ――それなのに。


 息が荒い。肩がこわばっている。

 紙に視線を落としたまま、まばたきの回数が異様に少ない。

 知識を吸い込むというより、追い立てられているようだった。


 ユージンは、それを横目で見ていた。

 声をかけるべきか、かけないべきか。

 何度も迷い、そのたびに言葉を飲み込んだ。

 止めれば、彼女は立ち止まるだろう。


 だが、今のミラは「立ち止まる」ことで、自分を否定しかねない。

 進ませれば、このまま壊れるかもしれない。

 だが、進むことを否定すれば、それもまた暴力になる。

 教える側が、言葉を選び続ける苦しさ。


 ユージンは、それを誰よりも知っていた。

 そんな折、事務所に一件の予約が入った。

 

 予約。

 

 その二文字を見た瞬間、ユージンはわずかに肩の力を抜いた。


 最近は、ロウに振り回され、アーヴェルに絡まれ、成り行きで依頼を受けることが続いていた。


 正式な予約。

 約束された時間。

 約束された一人の依頼人。


 それだけで、妙な安心感があった。


 だが――


 依頼内容に目を通した瞬間、眉がわずかに寄る。

 簡潔な文面。感情の装飾はない。

 だが、行間にあるものは、見覚えがありすぎた。


 (……また、か)


 誰の名前でもない。どのランクでもない。


 それでも、これは――今の代筆屋には“判断”を求める事態が発生する種類の依頼だ。


 ユージンは、書類を静かに閉じた。

 

 その日の終わり。


 ミラに告げたのは、ただ一言だけだった。


「明日、予約が入った」


 内容は言わない。相手のことも、目的も、話さない。

 ミラは一瞬だけ顔を上げ、すぐに、静かにうなずいた。


 夜。


 寝床に戻ったミラは、天井を見つめていた。


 次の依頼人から、私は何を学ぶべきなんだろう。


 正しい答え?

 正しい志?

 それとも――正しく、判断する方法?


 考え始めた瞬間、胸の奥がざわつく。

 それでも、目を閉じることはできなかった。


 ここにいる意味。

 ここで学ぶ理由。


 明日の依頼人は、それを、教えてくれるだろうか。

 事務所に現れた少女は、拍子抜けするほど穏やかだった。

 年は、ミラとそう変わらない。

 姿勢も、視線も、受け答えも、ごく普通。


 ランクダウンを望んだ男のように、諦め切った目をしているわけでもない。

 高みを目指した少年のように、張り詰めた覚悟が滲んでいるわけでもない。

 ただ、そこに「いる」だけの少女だった。


 ユージンは、いつもと同じ調子で口を開く。


「名前を」

「……リーネです」

「ランクは?」

「Cランクです」


 声は小さいが、曖昧さはない。

 言わされている感じもしなかった。


「今日は、どういう依頼だ?」


 ユージンの問いに、リーネは一度だけ視線を伏せ、それから、はっきりと答えた。


「依頼文にも書きましたが、今のランクを、維持したいです」


 ユージンの眉が、ほんのわずかに動いた。


「維持…つまりCランクの志の代筆だな」

「そうです。上がりたくも、下がりたくもありません」

「このままでいたいんです。今を失いたくないんです」


 淡々とした口調だった。

 感情を抑えている様子もない。

 本当に、それが自然な考えであるかのように。

 ミラは、無意識に手を握りしめていた。


 維持。

 変わらない。

 その言葉が、胸の奥で引っかかる。


「理由を聞いてもいいか」

「はい」

「Cランクに、不満はない?」

「ありません」


 即答だった。


「仕事は?」

「家の手伝いで慣れています」

「失敗もありますけど……想定外は、少ないです」

「Bランクを目指そうと思ったことは?」


 リーネは、少し考えてから首を振った。


「ありません」

「なぜだ?」

「……怖いからです」


 その一言に、ミラの呼吸が止まる。


「知らない世界が」

「知らない責任が」

「知らない期待が」


 リーネは、言葉を選びながら続けた。


「今の場所なら、何が起きるか、大体分かります」

「失敗しても、取り返しがつく範囲です」

「だから……」

「だから、変えたくない」


 ユージンが、言葉を継いだ。

 リーネは、小さくうなずく。


「はい」


 そのやり取りを聞きながら、ミラの頭の中では、別の映像が浮かんでいた。

 ランクを下げたいと言ったデニム。

 あの人は、苦しさから逃げたかった。

 それでも、はっきりと「望み」を口にしていた。

 

 高みを目指したカイン。

 あの人は、足りないことを承知で、それでも進むと決めていた。


 でも、この少女は――

 逃げたいわけでもない。

 挑みたいわけでもない。

 ただ、「今」を続けたいと言っている。


「志は?」


ユージンが、核心に近づく。


「どんな志を書きたい?」


リーネは、少しだけ困った顔をした。


「……それが、分からなくて」

「分からない?」

「はい」

「何かになりたい、とか」

「何かを変えたい、とか」

「そういう強い気持ちは、ありません。ただ、今日と変わらない明日を迎えたい」


 ミラの胸が、ざわつく。


 分からない。でも、困っている様子もない。


「だから」


 リーネは、静かに続けた。


「今の生活を続けるために」

「必要なことなら、やります」

「努力もしない、というわけではありません」

「だが、上を目指す努力はしない」

「はい」


 ユージンは、それ以上すぐに返さなかった。

 沈黙が、部屋に落ちる。

 ミラは、頭の中で必死に考えていた。


 ――これは、何なんだろう。


 志は、上に行くためのものだと思っていた。

 下に行くためのものでも、同じだ。

 何かを変える。

 何かを選ぶ。

 でも、この人は、「変えない」ことを選んでいる。

 そう思ってしまった時にはもう、ミラは、耐えきれなかった。


「……そんなのは――」


 机に、手のひらが叩きつけられる。

 乾いた音が、事務所に響いた。


「そんなのは、志じゃないです!」


 ユージンが、反射的に口を開きかける。

「ミラ――」


 だが、その声よりも早く、リーネが小さく、しかし確かな動作でうなずいた。


「そうね」


一瞬、空気が止まる。

ミラの目が見開かれ、ユージンは言葉を飲み込んだ。


「私も、そう思う」

「だったら!」


 感情的なミラをは大局的にリーネは、静かに続けた。


「分かってる。志、と呼べるほど立派なものを私は持っていない」


 否定でも、開き直りでもなかった。

 事実を述べるような声。


「でも――自分が間違っているとも思っていない」


 リーネは、ミラをまっすぐに見た。


「一つ、聞いてもいい?」


 ユージンではなく、ミラに向けた問いだった。


「私たち、まだ十五よね」

「……いえ、私はまだ十三です」


 リーネは少し、驚いた顔をしたが、すぐにミラに問いかけなおす


「あなたは、この国のこと、どれくらい知ってる?」


 ミラは、答えられなかった。


「政治も」

「経済も」

「聖省の内部も」

「ランク制度の裏側も」


 リーネは、指を折るように言葉を並べる。


「ほとんど、知らない」

「教えられてないことの方が多い」

「それでも、志を書けって言われる」

「知らないまま」

「国の決めたルールに従って」

「評価されて」

「場合によっては、破滅する」


リーネは、少しだけ息を吐いた。


「……とても馬鹿らしいと思ったわ」


その一言に、ミラの胸が詰まる。


「だから私は」

「知ってる世界で、変わることなく生きていきたいと思った」

「それって、ダメなこと?」


 問いは、真っ直ぐだった。

 逃げ道も、言い訳もない。

 ミラの唇が、わずかに震える。


 ――言い返せない。


 そう顔に出たのは、一瞬だった。だが、ミラは視線を逸らさなかった。


「……それは」


 声を、絞り出す。


「それは、恵まれた人の意見です」


 ユージンが、息を呑む。

 ミラは、続けた。


「本当に辛い環境にいて」

「今の場所にいたら、壊れるしかない人たちがいる」

「生きるために」

「逃げるために」

「上を目指すしかない人たちがいる」


 言葉が、次第に荒くなる。


「あがき方を知らない人だっている!」

「チャンスが一度も回ってこなかった人も!」

「あなたは――」

「あなたのその言い方は、そんな人たちを踏みにじってる、あなたは何も知らないからそんなことが言えるんです!」


沈黙。


リーネは、眉一つ動かさなかった。


「そうね・・・あなたの言うことは一理あるかもしれない、でもね・・・」


ゆっくりと、問い返す。


「私が、「それ」を知る必要があるの?」

「なっ・・・」


ミラが、言葉に詰まる。


「そんなことは既に知ってる人がいて」

「それでも変えない・変えていないなら」

「それが、この国では“正しい”んでしょう?」

「だったら私は」

「そうならないための手段を、「選んでる」だけ」


 あまりにも、冷静で冷酷な断言だった。

 ミラの中で、何かが切れた。

 椅子が、乱暴に鳴る。


「……っ」


 ミラは、何も言わずに立ち上がり、

 そのまま事務所を飛び出した。

 扉が閉まる音が、重く残る。

 ユージンは、しばらく動けなかった。


「……」

 

 リーネは、俯いていない。

 ただ、静かに座っている。

 ユージンは、ようやく口を開いた。


「……あれは」

「分かってる」


リーネは、短く答えた。


「怒らせた」


その言葉に、後悔の色はない。

だが、どこか、覚悟だけがあった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


この章では、

「立派じゃない志」

「完成していない考え」

「未熟なままの衝突」

を、そのまま書くことを意識しました。


誰が正しいか、

どちらが上か、

答えは作っていません。


ミラは正しくもあり、乱暴でもあり、

リーネは冷静で、残酷でもあります。

ユージンは分かっていて、何も決めません。


それぞれが「今の立場でしか言えないこと」を言い、

それぞれが「まだ知らないこと」を抱えています。


もし読後に

「どちらにも共感できない」

「どちらにも少し共感してしまう」

そう感じたなら、この章の続きを読んでいただけた幸いです。

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