第8章 ランクアップへの覚悟(前編)
今回の前編では、
文字を学び始めた少女の視点と、
DランクからBランクを目指そうとする少年の志を通して、
この世界の「評価」と「覚悟」の重さを描いています。
この時点では、
正解も結論も、まだ提示されません。
それぞれが何を知り、
何を知らされ、
それでも何を選ぼうとしているのか。
後編では、
この志がどのように扱われ、
どのような「結果」が返ってくるのかが描かれます。
まずは、
前編として、このやり取りと空気感を見届けていただければ幸いです。
最近、私は文字を学んでいる間は考えないようにしている。
考え始めると、手が止まる。
手が止まると、視線が文字から離れる。
離れた瞬間、頭の中に余計なものが入り込む。
――ここにいていいのか。
――私は、上のランクを目指している。でもどのランクを目指すの?が分からなくなっている。ここにいてその答えは出るのか?
そんな問いは、文字を覚えるにあたっての邪魔でしかない。
だから今は、目の前の紙だけを見る。インクの濃淡と、文字の形だけを追う。
それが一番、速くて、正確で、そして何より――楽だった。
ミスが増えた。
以前なら一度で「問題ない」とユージンさんに言われていた作文を、二度、三度と書き直すこともある。
それでも、ユージンさんは何も言わない。
ユージンさんは、私の筆跡を一瞥し、良くも悪くも評価せず、「その調子でいい」とだけ言う。
叱られない。それが、まるで期待されていないように思える。
それが、こんなにも不安を育てるものだとは、以前の私は知らなかった。
*
ユージンさんが外出している間も、私は一人で文字の勉強を続けていた。
最近は、アーヴェルさんに言われた「一つ一つの文字の意味」も、時間をかければ意味を思い出せる。
ただし、単語までだ。
二つ、三つと並ぶと、途端に分からなくなる。
「業務改善」
「効率化」
「最適化」
それぞれは分かる。
でも、これらの言葉が文章になると霧がかかってくる。
――言葉は、
――単体じゃなく、
――一つ一つの文字の意味を大切に作られる。
そう言われたのを思い出す。
それが分かるまで、私はどれくらい時間がかかるのだろう。私が志を出すまでの間にちゃんと分かるようになるのだろうか?
*
その日の朝。
事務所の扉が、いつもより硬い音を立てて開いた。
「ひさしぶりだね、失礼するよ」
入ってきたのは、アーヴェルさんだった。
初めて会ったあの日以降も時々訪れてはユージンさんと話をし、時折私に教えてくれていた。アーヴェルさんが来たことで、私も一瞬ドキッとした。
「ミラさん、ごめんね。今日はユージンに仕事を頼みたくて訪問させてもらったんだ」
どうやら今日はユージンさんに仕事の相談をしに来たそうだが…どんな仕事なんだろうと不思議に思ってユージンさんのほうを見ると…
「聖省の人間が俺に?冗談じゃない、帰れ」
ユージンさんは、顔も上げずに面倒くさそうに即答していた。
「代筆だったら、お前がやれ。いちいち俺のところに来るな。…まったく、今度は何を企んでる、世も末だ」
「心配しなくても、代筆じゃない」
アーヴェルさんは穏やかな笑顔を崩さないまま、淡々と話を続ける。
「君に頼みたいのは、代筆ではなく『添削』だ」
その一言で、部屋の空気が変わった。
私は、思わずペンを止めた。添削とはどういう意味だろう?
「……添削?」
ユージンさんが、ゆっくり顔を上げる。
「ずいぶん都合のいい言葉を使うな。添削なんぞしたら部分的に代筆と変わらんだろ」
(部分的な代筆?…ユージンさんの言ってることが分からない)
私はひどく動揺している。この2人の会話は本当に理解できないことが多い。
「内容は見せる。添削するかどうかの判断も君に任せる」
一拍。
「今回はね。Dランクの少年の案件だ」
「ほう。聖省の人間がDランクの案件をね・・・」
ユージンさんは、わずかに興味を示した。
「料金をお前が出すなら、話だけは聞いてやる」
ユージンさんはそう言って笑いを浮かべ、アーヴェルさんも笑って応じていた。
*
話は、最近成果を上げているDランクの組合から始まった。
作業工程の整理。
役割分担の明確化。
無駄な往復を減らす動線。
内容自体は、決して高度ではない。
「……最近Cランクの少し大きな工場で始まった、『工場制手工業』の入り口だな」
ユージンさんが言う。
「そうだ」
アーヴェルさんは頷いた。
「その通り、最近Bランクが依頼するCランクの工場で始まっている方式さ。まだ、Dランクには情報開示されていない」
「だが」
視線が、こちらに一瞬向く。
「それを“Dランクの少年”が『自力』で考えた」
「それは…大したものだな」
「そうだ。今回添削を依頼したい少年のことだ」
ユージンさんは、一瞬だけ目を細めた。
「……なるほどな。」
(何が…なるほどな…なんだろう)
「彼は、自分の案が特別優れていないことを知っている。すでに導入が始まっている方式であるということも」
「理解した上で?…(いや、そもそもどうやって導入が始まっていることを知った?)」
「それでも、もっと先を見たいと言っている」
沈黙。
「だから添削、か」
「代筆という括りでは、彼は首を縦に振らない」
「そいつはまた、誠実な子だ。時々いるが苦手なタイプだな」
ユージンさんは少し困ったように笑った。
*
少年が来たのは、その日の昼だった。
背は高くない。体も細い。
だが、目だけが妙に落ち着いていて、アーヴェルさんのように穏やかだった
「カインと言います。この度はよろしくお願いします」
「今回は添削だからな、さっそく本題に入ろう。志を見せてくれ」
差し出された紙を、ユージンさんは黙って読む。
長くもなく、派手でもない。
だが、他者貢献を明確に意識した構成で、最近の評価に丁寧に沿った内容だった。
これは評価基準を知っていなければこうは書けない…
間違いない…これは評価基準を聞いてから書いている。
(アーヴェルのやつ…この志は…すでに…)
ユージンは内心舌打ちをしながらも、できる限り感情のこもらない声で問う。
「……Bランクを狙っているそうだな」
「はい」
「理由は?」
「父や母、仲間たちのいる現場をもっとよくしたいと思ったからです」
「Bランクがどういう場所か、知ってるか?」
「知りません」
即答だった。
「正直だな」
ユージンさんは、苦笑しつつ淡々と続ける。
「まず確認しておく」
机に指を置く。
「君の現場での改革は、確かに成果だ」
少年の目が、わずかに揺れる。
「だが、すでにスタートしている。決して『新規』の手法じゃない」
「……はい」
「今君が“快挙”としてやったことは、向こうでは『すでに知られている』内容だ」
「分かっています」
少年は、視線を逸らさなかった。
「そして、君がBに行けば、まず現場には立てない。そして、父母のいる工場に戻ってくることはない」
「組織を回す側になるからだ」
「数字、契約、人の配置、責任」
「君が知っている現場とは、別物だ」
一拍。
「必要な基礎知識が、圧倒的に足りない。そして、君を補佐する後ろ盾もない」
「それは――」
少年は、言葉を選んだ。
「……勉強すれば、結果を出せば、追いつけます」
「確かにな。Bランク以上はまず、その志に見合う知識を身に着けるために『高等教育機関』で学ぶことになる。だが、基礎知識の面ですでに遅れている君は、追いつくまでに、心が折れる可能性がある」
「差別もある」
「“D上がり”というだけで、能力以前に切り捨てられる。今回の件も「どこかで聞いたんだろ?」と勝手に決めつけられる可能性だってある」
「結果を出すために無茶をするということは、肉体的にも精神的にも多大な負荷を与える。場合によっては過労死の可能性だってある」
部屋が、静まり返った。
「それでも、行くか?」
ユージンさんは、真正面から問いを投げた。
少年は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに上げる。そして穏やかな笑みとともに断言する
「はい」
「理由を聞こう」
少年は、静かに言った。
「自分の案が、上では当たり前だということも」
「自分が、“足りない側”だということも」
「全部、すでに聞いているので知っています」
拳を、軽く握る。
「Bランクが、現場じゃなく“組織を回す場所”だということも。
そのために必要な知識が、スタートラインに自分が『居ない』ということも。
――アーヴェルさんから、全部」
「でも」
「Dランクの僕が、Bランクになる。それはDランクでその日の生活が精一杯の工場のみんなの、そして、同じDランクの誰かの希望になれるなら」
「その距離に、今の自分がいるなら」
「挑戦したいんです」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
前編では、
「ランクアップを目指すこと」が
必ずしも前向きで軽い選択ではない、という点を中心に描きました。
少年カインは、
何も知らずに挑戦しているわけではありません。
むしろ、
知らされるべき現実はすでに与えられています。
それでも彼が進もうとする理由が、
この世界においてどのように評価されるのか。
後編では、
志制度という仕組みの中で、
この「覚悟」がどのような形で扱われるのかが描かれます。
良い結果か、
それとも別の現実か。
続きは、後編にて。




