第7章 ランクダウンを望む男
この章に、
はっきりとした「事件」はありません。
誰も死なず、
誰も罰せられず、
街は今日も、何事もなかったように回っています。
けれど――
価値観だけが、静かにずれていく。
上を目指すことが正義で、
下を望むことなど、「だれも考えたことがない」世界で、
ひとりの人間が「それでも下でいい」と言った。
それを否定せず、
矯正もせず、
ただ“成立させた者”がいた。
この章で描かれるのは、
誰かを救った物語ではありません。
「選択を許す」という行為が、
どれほど残酷になりうるかを示す章です。
そして同時に、
ミラが初めて
「奇跡を信じる側」から
「奇跡を疑う側」へ足を踏み出す瞬間でもあります。
ユージンさんの過去を聞いてから、数日が経った。
時間は、ちゃんと進んでいる。
朝は来るし、夜は終わる。
書類も積まれ、依頼も舞い込む。
今では少し文字も読めるようになったから、簡単な…本当に簡単な書類の仕分けを頼まれるようになっている。
それなのに、私の中だけが、成長した実感を得ることができず、ただ立ち止まっているような感覚が消えないでいた。
文字の練習に際しても、ペン先が止まることが増えた。文字の書き間違いが増え、仕事の指示も聞き逃すことが増えた。
以前なら、そんなことはしなかった。
「集中しろ」
以前、できないときがあれば、そう言われ、それをばねに取り組みなおすことができていた。どうしても調子の悪いときは
「無理はするな。休んでいろ、それも立派な仕事だ」
そう言われれば、申し訳ないという気持ちからやり切って見せた。
でも今は――分からないままでも、手を動かすことはできる。
そして、意味を考え始めると、指が止まる。
私は最近、以前の自分と今の自分…その違いに気づいてしまった
*
また、数日がった。
何も言われない。あの日以降、ユージンさんの過去を聞いた日以降、ユージンさんは必要以上に私に声を掛けなくなった。まるで出会った頃のようだ。
それでも、ユージンさんは、私の筆跡を確認しつつ、教材の課題の結果を良くも悪くも評価せず、「その調子で頑張れ」とだけ言って返してくる
時々訪れるロウさんは相変わらず軽口を叩くけれど、私に向けてではない。ただ、ロウさんの来たときは事務所の堅い空気が少し柔らかくなるのは感じていた。
ここに来るまでは失敗すれば「だからEランクなんだ」と見下され、「できないなら邪魔だ!帰っちまえ!」と怒鳴られた。
でも、今は…
だれからも怒られない。
だれからも叱責もない。
それが、なによりも怖かった。私がここにいる理由が分からなくなってしまうからだ。
失敗しても、居場所が揺らがない。変わらない明日が来る。
でもそれは同時に、「いなくなっても問題ない」という意味にも思えてしまう。
それが怖い…。
私がここにいていいのかどうか、ここに居続けていいのかどうか。
それを、誰も決めてくれない。
そうおもってしまうと、胸の奥でじわじわと不安を膨らんでくる自覚があった。
*
その日の昼下がり、事務所の扉が、やけに大きな音を立てて開いた。
「よっ!詐欺師!今日も平和に世の裏側やってるか?」
「今日はちょっと変わった依頼人を一人紹介しにきたぞ!」
聞き慣れた軽薄な声。ロウだ。
その後ろに、ひとり――人を連れていた。
最初に目についたのは、体格だった。大きい。
骨太で、肩幅が広い。手も、首も、無駄に太い。
肉体だけ見れば、Bランクどころか、Aにだって手が届きそうだ。
でも。
目が、死んでいた。
生気がない、というより、
「期待を持つことを諦めた目」で、城外で寝起きするEランクに近いものさえ感じた。
「……自己紹介くらい、できるか?」
ロウが促す。
男は一拍、呼吸を整えてから、つまらなさそうな低い声で言った。
「名前は……Cランクのデニムですが‥どう呼んでもらってもいいです」
言葉は少ない。でも、雑ではなかった。
*
「ここが代筆屋なんですよね…」
「俺は……Dランクになりたい」
空気が、はっきりと変わった。
紙が擦れる音も、外のざわめきも、全部、遠のいた気がした。
「……え?」
私には理解できない依頼内容だった
ロウ「どうだ!驚いただろ?」と得意げな顔でうんうんと首を縦に振りながら得意げいった。
「いやいや、なかなか、例のない依頼だろう?」
男は、迷いなく頷いた。
「志を出さずにEになるのは嫌です。でも……Cのままも、もう嫌です」
拳を握りしめる。
「親がCランクで……Bランク以上の会社から、仕事を受けてます」
それだけで、十分だった。ユージンさんも、ロウさんも「わかったような表情」を一瞬していた。
無理な納期。
理不尽な要求。
責任は押し付けられ、裁量はない。
「毎日、何とかしろ。なんとかできるだろ?できないなら他をあたるだけだ。…そういわれて疲弊している両親を見て、おれ…おれ…」
男は、続きを言葉にできず、目を伏せた。
「‥‥」
「……俺には、ああはなれない」
声が、かすれる。
「Cランクを維持したいと思わない。だからといって、Bランクになって、ああいう連中と関わりたくもない」
そして、決定的な一言。
「だったら、Dでいい。言われたことをやって、最低限の仕事と生活が保証されるなら、それでいい」
私は、背中に冷たいものが走るのを感じた。
――下を、望んでいる。
この社会で、それは“間違い”とされてきた選択だ。
*
「……わかった。引き受けよう」
ユージンさんは、あまりにも自然に言った。
「は?」
ロウが目を見開く。
私も、言葉を失った。
「冗談だろ?CからDだぞ、ランクダウンを引き受けるのか?それでいいのか?」
「問題ない。依頼だからな」
短い答え。
「本人が望んでいる。間違いなく心からな…それ以上、何が必要だ?」
大きな男は、目を丸くしていた。
次の瞬間、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
その背中は、来たときより、わずかに軽く見えた。
*
扉が閉まると同時に、私の中で何かが弾けた。
「……どうしてですか!」
ロウも腕を組む。
「正直、俺も納得いかねえ。あんたなら断ると思ったぜ。いや断ると思ったからこそ、連れてきたんだ」
ユージンさんは、ロウさんをちらっと見てから、しばらく黙っていた。
そして、静かに言う。
「なあ」
視線が、私たちを順に捉える。
「俺たちは――誰かの生き方に対して、『それは間違っている』って言えるほどの存在なのか?俺たちの何を『根拠』に他人の希望に対して『判断』をする権利がある?」
胸を突かれた。
答えが、出ない。
ロウは舌打ちをして視線を逸らし、私は、何も言えなかった。
*
後日、正式な折衝。
私は部屋の掃除をしていた。ユージンさんとデニムさんは奥の部屋で話し合っている。ランクを下げる依頼…Dランク…私が望む世界の入り口…その答えをユージンさんが代筆している…そう思うと、どうしてもその折衝というのに参加したかったが…
「お前は参加するな。会議室で聞き耳を立てることも禁止だ」
とはっきりとユージンさんに命令されてしまった。
それでも時折聞こえる声にどうしても意識が持っていかれてしまう。
「……子どもは、好きです。屈託のない笑顔に癒されます。でも…この図体なんで、なかなか、子供からは人気がありません。」
「なるほど…Dランクの志のほうは問題ない。ただ、Dになった後お前がこの職場でよかったとなるよう、少し細工をしよう。」
それからほんの少しの時間がたったと思うと、デニムさんは出てきた。手には代筆されたであろうスクロールを持っている。そして、デニムさんは少し緊張した面持ちで事務所を後にした。
それと入れ違いにロウさんが入ってきた。
「よう!詐欺師。ついにランクダウンの代筆にも手を出すとは…世も末だな。
…で、どんな代筆を書いてやったんだ?」
私が最も聞きたいことをいとも簡単に聞き出そうとするロウさんの声に心臓が激しくなっていることを自覚した
「プライベートだ。教えるわけにはいかん」
「そういうなよ。Dランク以上を目指す嬢ちゃんだっているんだ、勉強だと思ってな?」
「…はぁ…まぁ…個人のプライベートに踏み込まない範囲ならな」
私の心臓はいっそう激しく動き出している。あのユージンさんがヒントをくれる。これだけは聞き逃してはならない。
「ちょっぴりの他者貢献と、自分ができる責任範囲を限定しただけだ。あと、ほんの少しの細工だな」
「細工?なんだよそれ?」
「これ以上は、言わん。いい加減黙れ」
「へいへい」
他者貢献…責任の範囲の限定…よく意味の分からない言葉だが、絶対に忘れてはいけないことだと、そう感じることができた。
*
Dランクになり、職場の内定の知らせを聞いた男は、何度も、何度も頭を下げた。
「…ありがとうございます!職場まで希望通りにあるなんて!!…これで、ちゃんと、生きられますよね?」
「ああ。あとはあんたが図体を理由に客に泣かれないこと祈るばかりだ」
ユージンさんは、即答した。
「本当にありがとうございます!!」
男の顔には今まで見たことないほど生気に満ちていた。
*
依頼人が事務所を出て行ったあと、私はずっと黙っていた。
私は、Dランクになれればいい、1ランクでもランクを上げたいと思っていた。
私の中で、ランクが上がるというのは奇跡なんだ。だから、代筆が呪いじゃないと分かったあの日、私 は代筆屋を探す決意をしたはずだ。奇跡を信じて…
でも、ユージンさんは違う。
上下に、意味を見ていない。
ユージンさんの代筆は奇跡ではなく、ランクダウンさえ簡単に実現させる…この人の代筆はやはり呪いなのだろうか…
知 りたいわけじゃない…普通なら、ランクダウンという絶望に対してあの笑顔が帰ってくる代筆という行為が、本当はとても怖いものなんだろうと思った。
――私は、この人のそばにいて、本当に大丈夫なんだろうか。本当にランクアップという奇跡にたどり着けるのだろうか…
答えは、まだ出ない。
*
普段の彼を知る者が見れば、まず気づかないだろう。
ロウは正装していた。
派手さはない。だが寸分の乱れもなく、袖口も襟元も完璧に整えられている。
いつものにやけた表情は影も形もない。
彼は、広い屋敷の一室で、主を待っていた。
天井は高く、壁には古い織物。
窓の外では、雨が静かに降っている。
強くもなく、弱くもなく――ただ、世界を濡らすためだけの雨だった。
やがて、扉が開く。
足音はひとつ。
それだけで、この部屋の空気が引き締まった。
男が入室すると、ロウは一歩下がり、深く一礼する。
「……ロウ」
穏やかな声が問う。
「彼は――ユージンは、ランクダウンの志を書いたのかい?」
ロウは、即座に答えない。
ほんの一瞬、呼吸を整えてから、事実だけを口にする。
「はい。Cランクの依頼人が、Dランクを望みました。ユージンは、迷いなく引き受けています」
男の顔にわずかばかりの驚愕の表情が浮かぶ。
「理由は?」
「……生き方を裁く資格は自分にはない、と」
言葉は簡潔。評価も、推測も、混ぜない。
男は、しばらく黙っていた。
雨音だけが、部屋を満たす。
「……そうか」
それだけを、呟いた。
そして、視線を窓の外へ向ける。
「彼女は今、迷いの真っただ中だろう」
独り言のような声音だった。
「学びを与えられなかった者が、学びを得る中で――人生を決める志の『上下のコントロール』を自在に行える存在がいる」
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「その事実に混乱なり、不安を感じるようなら…賢い子だ……悪くない」
ロウは、黙って聞いている。
「彼女は――私の計画の中で、最も重要な人物かもしれないね」
その言葉に、ロウの眉がわずかに動いたが、口は開かなかった。
「わかった。ご苦労さま」
男は振り返らずに言う。
「今後とも、彼には“適度に”依頼人を紹介してやってくれ」
「承知しました」
ロウは、再び深く一礼し、静かに部屋を辞した。
扉が閉まる。
部屋には、再び雨音だけが残った。
男は、ゆっくりと息を吐く。
「ユージンさん……」
その声には、呆れと、わずかな敬意が混じっていた。
「あなたは、本当に極端だ」
ため息ひとつ。
だが、その表情は――
どこか寂し気でもあった。
Dランクを望んだ男は、
救われました。
少なくとも、彼自身の言葉で言うなら。
生きる場所を得て、
役割を得て、
安心して息ができる明日を手に入れた。
それは、間違いなく“成功した代筆”です。
けれど――
ミラは、その成功を祝えなかった。
なぜなら彼女は、
まだ「上に行くことでしか意味を証明できない世界」を
生きてきたからです。
ユージンの代筆は、
奇跡を起こさない。
夢を与えない。
正しさを説かない。
ただ、
その人が耐えられる現実の形に、
人生を翻訳するだけです。
それは救済であり、
同時に、希望を削ぎ落とす行為でもある。
だからミラは迷う。
この人のそばにいれば、本当に“上”へ行けるのか。
それとも、「上も下も意味がない」という結論に
辿り着いてしまうのか。
そして章の最後で示されるのは、彼女やユージンの知らないところでこの国を憂う人物です。




