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神様シリーズ

神様だって溺れたい

作者: 遠野さつき

 拝啓、実家のお母さん。

 

 就職で上京して早十年。猛暑にも関わらず、財布にも心にも寒風が吹き荒ぶ毎日ですが、なんとかやっています。

 

 今日も上司のパワハラや、後輩のフォローや、顧客の理不尽な要望に打ちのめされた自分を慰めるために居酒屋に来ました。


 都会はすごいですね。朝まで営業している店があるなんて、実家にいた頃は想像もしませんでした。ましてや、巫女服を着た美少女が隣で突っ伏しているなんて。

 

「あの……。大丈夫ですか?」

 

 恐る恐る声をかけるが、美少女は微動だにしない。どんな夢を見ているのか。とても安らかな寝顔だ。

 

 枕がわりの腕に右頬が圧迫されていても、その美しさは寸分も損なわれていない。顎で切り揃えた金髪や、色素の薄い長いまつ毛、微笑を浮かべた赤い唇から覗く鋭い八重歯も、彼女の魅力を増しているように思う。

 

「いらっしゃーい! いっぱい飲んで食べてってね!」

 

 目の前で客が潰れているにも関わらず、満面の笑みを浮かべた大将が、入り口のドアを開けた客に声を張り上げる。旗艦駅の目の前にあるここは、今日と明日の境目が近づいてもなお、人が途切れる気配がない。

 

 大将の皮膚の色に似た健康的な小麦色のカウンターには、水茄子の漬物と、お猪口を握る俺のくたびれた右手が乗っている。まだ希望に燃えていた新人の頃は、深夜でも唐揚げにビールと洒落込んだものだが、最近はとても胃が受け付けない。

 

 寝息と共に上下する金髪の周囲には、大陸由来の神獣のマークがついた、明らかにメガな大きさの空ジョッキが数個と、食べかけの厚揚げ豆腐、焼いたお揚げに納豆を入れたもの(正式名称がわからない)、お出汁がしみしみの餅巾着が載っている。お狐様でもあるまいし、どれだけお揚げが好きなんだか。

 

「お姉さん、お待たせ! 生一丁お待ち!」

 

 どん、と鈍く響いた音を合図に、夢の中から浮上した美少女が、餌を放り投げられた鯉の如く、霜のついたジョッキに飛びつく。弾みで真白い袂に餅巾着のお出汁がしみたが、全く気にしていないようだ。

 

 それにしても、何で巫女服だよ。

 

 酔いが覚めてきたらしい。急に冷静になった頭でそう考える。いくら多様性が許容される時代でも、さすがに浮いていないか? 細かいことを気にしなさそうな大将はともかく、周りの客がじろじろと見ていないのが不思議なぐらいだ。

 

 イメクラか? 趣味か? そういえば、近くに稲荷神社があったな。そこの巫女が息抜きに来たのか? とても成人には見えないが、ちゃんと年齢確認しているんだろうな?

 

 俺には妻も子供もいないけど、自分の娘が都会で巫女服を着て、深夜に一人酒していたら泣くぞマジで。

 

「大将! おきゃわり!」

 

 顔を真っ赤にした美少女が、早くも空にしたジョッキを誇らしげに掲げる。おいおい、まだ飲むのかよ。呂律が回っていないけど、大丈夫か?

 

「お姉さん、いける口だね! おかわり一丁!」

 

 俺の心配をよそに、目尻を下げた大将が美少女にジョッキを差し出す。美少女は即座に受け取ると、さも当然といった様子で、キンキンに冷えたジョッキを艶やかな唇に運んだ。

 

 涼やかな切れ長の目を細め、嫋やかな見た目からは想像できない豪快さで、喉をごくごくと鳴らしている。本当に美味そうに飲むよな。なんだか、俺も飲みたくなってきた。疲れすぎて食欲はないけど、ビールだけなら入るかもしれない。

 

 空になったお猪口をカウンターに置き、メニューを手に取る。俺の好みは黒丸に星マークのやつだ。でも……ないな。今さら他の銘柄を飲む気もしない。心の中でため息をついて、メニューをそっと戻す。実家の冷蔵庫には常にあったのに。

 

「そういや、随分帰ってないな……」

 

 ぽつりと漏れた呟きは、美少女の「くーっ! このために働いとんのや!」という雄叫びにかき消された。喉が潤って食欲が増したらしい。左手にジョッキを握ったまま、猛然と箸を動かす姿を横目に頬杖をつき、スマホのアルバムを眺める。

 

 最後に撮ったのは十年前。俺の引っ越し作業の真っ最中だ。青々とした木々が生い茂る庭で、タオルを頭に巻いた俺が、同じくタオルを頭に巻いた母親と並んで写っている。写真の隅に父親の指が入っているのはご愛嬌だ。

 

 二人の背後には古ぼけた祠。手作りの供物台の上には、酒やいなり寿司の他に、小さな狐の人形が置いてある。


 俺の実家は先祖代々商売をやっていて、祖父母も両親も信心深かったから、子供の頃は拝んでから学校に行くのが日課だった。そのせいか、今でもつい、祠や神社を見かけると拝んでしまう。

 

 あの頃は楽しかったな。将来の憂いなんて欠片もなく、朝から晩まで走り回っていた気がする。外に広がるのは田んぼや畑ばっかりで、夜中まで営業している店なんてどこにもなかったけど、少なくとも、今みたいにざわめきと酒で心の穴を埋めなくて済んだ。

 

 いつから、こんなに毎日が色褪せて見えるようになったんだろう?

 

 不意に、脳裏に花束が浮かんだ。通勤途中の焼けたアスファルトの上に置かれていた、萎れかけの花だ。ネットの記事によると、世を儚んだ中年男性が発作的に自室のベランダから飛び降りたらしい。

 

 家族はとうになく、特別に親しい友人もいなかったようで、職場の同僚に、しきりに「寂しい」「辛い」と漏らしていたそうだ。記事で詳細を知った時、思わず手を合わせてしまった。もしかしたら、自分の将来の姿かもしれないと思ったから。

 

 ――ああ、駄目だ。これ以上、考えるのはやめよう。ただでさえ、最近、悪夢をよく見るんだ。花束の主のように、高所から飛び降りる夢を。

 

 アプリを閉じ、放り投げるようにスマホを置く。その音に被さるように、背後のテーブル席で上がった笑い声と、追従する子供のはしゃぎ声が耳をつんざいて顔を顰める。そんな自分を嫌悪する。

 

 この少子化のご時世、結婚の見込みすらない俺に、子育てに勤しむ他人をとやかく言う資格はない。人には色々な事情がある。違うテーブルでは、疲れ切った顔をした父親が、船を漕ぎ出した子供を膝の上に乗せて丼飯を掻き込んでいた。

 

 俺の後輩も、ああやって育児に励んでいるのかな。

 

 働きながら子供を育てるって、本当に大変だ。子供ってやつはすぐに熱を出すみたいで、今日も保育園から呼ばれて、慌てて早退していった。今週はこれで三回目。毎日毎日、何かしら調子を崩していて、他人事ながら心配になる。

 

 その度に残った仕事を片付けるのは俺だ。正直、目が回りそうに忙しいが、人員が足りないから仕方がない。……でも、こうして疲れている時、何で俺なんだよと思ってしまう。

 

 傷病や介護は人里に降りてきたヒグマと出会うようなものだから、お互い様と言われても、まだわかる。でも、子供を持つのは自分が望んだことじゃないのか。誰かの助けなしには生活が回らないのなら、持たない選択肢もあったはずだ。幸せな家庭を手に入れた後輩を、何も持たない俺が支えなきゃいけないのか。

 

「……くそっ」

 

 こぼれた舌打ちは、自分とは思えないほど刺々しかった。寝不足が祟っているのだろうか。頭の中が焼けた火鉢で掻き回されたみたいに痛い。長時間の事務仕事で凝り固まった両肩も鉛のように重いし、周囲の笑い声が妙に気に障る。

 

 いっそのこと、店で暴れてやろうか? そうしたら、この鬱憤も少しは晴れるかもしれない。ついでに仕事も辞められて一石二鳥――。

 

「それ以上はあかんよ」

 

 りん、と鈴を転がしたような音が耳に届いた。ジョッキと皿を空にした美少女が立ち上がり、俺の顔を覗き込む。横目で観察していたときは気づかなかったが、美少女の瞳は見事な緑色だった。まるで翡翠が埋め込まれたみたいな。

 

「あーあー、こんなに背負い込んでぇ」

 

 酒臭いため息をつき、美少女が俺の両肩を優しくはらった。実家でいつも嗅いでいた、甘い白檀の香りが鼻をくすぐる。

 

 呆気に取られる俺を尻目に、美少女は白魚のような手を肩から背中に滑らせ、何事かをもごもごと呟きながら、軽く二、三度叩いた。

 

 その途端、頭痛が消え、急に肩が軽くなった。耳を刺す笑い声も、少し遠ざかった気がする。変化についていけずに戸惑う俺に、美少女は八重歯を覗かせながらにんまりと笑うと、「もう大丈夫やで!」と得意げに胸を張った。

 

「あの、さっきのは一体……? 大丈夫って何が……?」

 

 俺の疑問に美少女が唇を開く前に、スマホがぶるりと震えた。社畜の悲しい習性で、こんな状況でも差出人を確認してしまう。ヘルメットを被った猫のアイコン――後輩からの新着メッセージだ。

 

 画面の上部にはゼロが三つ並んでいる。いつの間にか日を跨いでいたようだ。こんな時間に送ってくるなんて、緊急の用事だろうか。

 

「あ、どうぞ、どうぞ。私のことは気にせんと」

 

 愛想よく促す美少女に背中を押されて、恐る恐るスマホを触る。

 

『夜分遅くにすみません。今日は早退させてもらってありがとうございました。ようやく娘の容体も落ち着きました。先輩にはいつも助けられています。明日は人一倍働きますので、何卒よろしくお願いします。今度、お礼させてくださいね!』

 

 絵文字満載の文面に、ふっと口元が緩む。子供ができても、新入社員の時から何も変わらない。緊張でガチガチになりながらも、「先輩! これからよろしくお願いします!」と元気に挨拶したあの日のままだ。

 

『気にするなよ。育児が落ち着いたら飲みに行こうぜ』

 

 偽善に彩られた言葉。決して本心とは言えない。それでも、さっきまで感じていた苛立ちも鬱屈も、すっかりと消え去っていた。

 

「気分ようなった?」

 

 心配そうに俺を見つめる美少女に何と返そうかと考えているうちに、ふと気づいた。悪夢を見るようになったのは、花束に手を合わせた日からだ。死者に同情すると憑いてくるというが、もしかして、もしかするのだろうか。

 

「えっと……もう大丈夫です。巫女さん……ですよね? ひょっとして、さっきの、お祓いってやつですか? あなたに背中を叩かれた途端に、何だか、その……気持ちが楽になったんですけど」

 

 我ながらしどろもどろの言葉だ。美少女はそれには答えず、袂からお揚げ柄のレトロながま口を取り出すと、大将に代金を払いつつ、俺に微笑みかけた。その美しさに思わずドキッとする。

 

「お兄さん優しいから、色々と溜め込んでまうんよ。神様やって、酒や煙草に溺れたい日があんねんもん。お兄さんも、人に優しくする前に、もっと自分に優しくしたらなあかんで」

 

 お代を確認して、威勢よく「毎度!」と声を上げる大将に片手を挙げ、美少女が俺の背後を通り過ぎていく。帰るつもりなのだろう。咄嗟に立ちあがろうとしたが、何故か足が動かない。靴底が床に縫い留められたみたいだった。

 

「あっ、ちょ、ちょっと待ってください。お礼を……」

「ええの、ええの。いつも拝んでくれてありがとうなあ」

 

 巫女服をひらりと翻しながら、とても深酒していたとは思えない足取りで出口に向かい、大きく開いたドアから颯爽と夜の中に飛び込んでいく。

 

 その時、俺は見た。見てしまった。

 

 煌々と輝く満月に照らされた金髪には三角耳が、そして、闇の中でもくっきりと浮かび上がる緋色の袴には、ビールに似た黄金色の尻尾が生えているのを。

 

 急にざわめきが戻った店の中に、ケーンと甲高い鳴き声が響いた気がした。

 人生に疲れた第2弾。仕事に育児に頑張っている皆様、どうかご自愛くださいね。お察しの通り、巫女は実家の祠の主です。主人公がちっとも実家に帰って来ないので心配して見にきました。こんこん。


↓以下、登場人物まとめ


主人公(33)

 本名:山田優斗やまだゆうと。その名の通り優しく、お人好しに成長した。仕事を丸投げしてくるクソ上司と、育児に忙しい後輩に挟まれて疲弊している。


巫女(年齢不詳)

 山田家を見守り続ける稲荷神。主人公が最近お疲れなことは、お狐様ネットワークで知った。山田家は先祖代々、酒屋を営んでいるので、神饌には事欠かない。飲酒は適量を守ろうね。


花束の主(享年42)

 ひっそりとこの世界からいなくなってしまった誰か。あまりの寂しさに、手を合わせてくれた山田に憑いていった。山田が感じた苛立ちや鬱屈は、花束の主が抱えていたもの。

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― 新着の感想 ―
自分の書いた絵が、小説の中で動くなんて稀有な体験をさせていただきありがとうございました。居酒屋で一人酒を飲む雰囲気とその時間が滲み出るような作品で、素敵です。 彼女の絵の前にビールを置いたのは、色の…
描写が頭の中に映像になって流れ込んでくる~~相変わらず遠野さんの表現ってリアリティと優しさに満ちていて、読んでいて癒されます。疲れた日常の中でほっこりさせてくれるような、素敵なお話でした!あと、お狐様…
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