藍碧の記憶
「どうぞー」
扉をノックすると、中から舞の明るい声が返ってきた。
龍之介は無言でドアを押し開ける。
「どう? 燈の森は」
部屋の奥の机に腰掛けたまま、舞は軽く問いかけた。
片手には、いつものマグカップ。
「翔くんとは仲良くなれそう?」
龍之介は何も答えなかった。
沈黙が落ちる。
舞はふっと短く息を漏らし、肩をすくめる。
「……そんな事より、綾ちゃんが心配か」
その言葉に、龍之介の視線がわずかに揺れた。
舞は立ち上がり、軽く身支度を整える。
「じゃあ、行こうか」
そう言って、部屋を出た。
「ついてきて」
龍之介は、黙ってその後を追った。
***
燈の森の敷地を抜け、療養棟へと向かう。
校舎の端を過ぎたあたりから、周囲の雰囲気が変わった。
普通の学校の建物とは異なり、療養棟の入り口には厳重なセキュリティゲートが設置されていた。
扉の前で舞が手をかざすと、電子音とともにロックが解除される。
龍之介はその光景を静かに見つめた。
(……孤児院の施設にしては、やけに厳重じゃないか?)
扉が開き、二人は中へ入った。
そこは、校舎の古びた雰囲気とは全く異なる世界だった。
白いタイルの床。
無機質な壁。
規則的に並ぶ機器の数々。
温度管理が行き届いているのか、室内はひんやりとしていた。
まるで、病院──
いや、研究施設のような場所だった。
龍之介は足を止め、無言で周囲を見渡す。
学校の一部とは思えない設備の充実度。
舞は何も言わず、静かに歩き続ける。
龍之介も、黙って後を追った。
長い廊下を進んだ先、ガラス越しに仕切られた一室が見えた。
「……綾」
窓の向こうのベッドには、綾が横たわっていた。
昨日よりは幾分か顔色が良くなっている。
しかし、まだ意識は戻っていないようだった。
龍之介はガラスに手をつき、じっと綾を見つめる。
「……会えないの?」
「意識も無いし、会っても話せないわよ」
舞の言葉に、龍之介は無言のままガラス越しの綾を見つめ続けた。
「龍之介くん……ちょっと話したいことがあるの……」
舞の静かな声が、後ろから聞こえた。
龍之介が振り向くと、舞は少しだけ真剣な表情をしていた。
「こっちへ来て」
そう言って、舞は別の部屋へと歩き出した。
龍之介は、一度綾を見つめ、そしてゆっくりと舞の後を追った。
舞に案内され、龍之介は別の部屋へと足を踏み入れた。
そこは、雑然としていた。
机の上、棚の中、床にさえも、さまざまな資料が散らばっている。
ファイルや紙の束、端末の画面には数値やデータの羅列が映し出されていた。
……ここ、舞の部屋か?
ふと、無造作に積まれた書類の端に、ある単語が目に入る。
ルミナイト。
翔のネックレス、そしてあの洞窟の光景が頭に浮かんだ。
「座って」
舞の声に、龍之介は顔を上げる。
部屋の隅、デスクとは別に置かれたソファに、舞は腰を下ろしていた。
向かい合わせに、龍之介も無言のまま座る。
「龍之介くん……」
舞は、ゆっくりと息をつくと、彼の目をまっすぐに見据えた。
「あの日、私たちがあなた達を見つけた日……一体何があったの?」
龍之介は、わずかに眉をひそめる。
「………なんで?」
舞は、一瞬だけ迷うような表情を浮かべた。
「綾ちゃんの体調不良……」
そう言いながら、軽く髪をかき上げる。
「色々検査をしたけれど、原因が全く分からないの」
龍之介は、無言のまま聞いていた。
「あなた達を助けた後、私たちはあの辺りを調べたの。
そうしたら、近くの洞窟でルミナイト──こういった光る鉱石の鉱床を見つけた」
舞はそう言うと、デスクの上に無造作に置かれていた鉱石を手に取った。
かすかに光を帯びた、不思議な輝きを放つ鉱石。
「これがルミナイトよ」
それを龍之介に見せるように、舞は手のひらに載せたまま差し出した。
龍之介は、その石をじっと見つめる。
──これは、あの時の……
龍之介の脳裏に、洞窟の光景が蘇る。
静寂の中で、かすかに光る鉱石。
瞳に藍碧色の光を宿す綾。そして、理屈では説明できない“力”の感覚。
あの時、俺たちは……
龍之介の拳が、わずかに握られた。
舞は、手の中のルミナイトを軽く転がしながら言った。
「私は……アルカディアは、このルミナイトの研究をしているの」
彼女の声が、少し硬くなる。
「この鉱石には、私たちがまだ解明できていない“未知のエネルギー”がある」
龍之介は、無言で舞の手の中の鉱石を見つめる。
かすかに光を放つ、不思議な鉱石。
だが、それはただの光ではなかった。
舞は、ふっと目を細めた。
「あの日、あなた達の目……このルミナイトと同じ色に光ってた」
ビクッ。
龍之介の肩が、わずかに震える。
「昨日、青波の光景を見たわよね?」
舞の声の調子が、ほんの少しだけ変わった。
「壊滅状態だった。ほとんどの人が消え去って、痕跡すら残っていなかった」
龍之介は、口を引き結んだまま黙っていた。
「……あの中で、あなた達のような子供が生き残るなんて──」
舞は、言葉を切る。
そして、龍之介をじっと見つめた。
「奇跡でも起きないとありえないわ」
部屋の空気が、張り詰める。
龍之介の拳が、無意識に強く握られる。
「あの日……」
舞は、一拍の沈黙を置いた。
「何があったの?」
語気をわずかに強めて、舞が再び問いかける。
龍之介は、唇を噛んだ。
何を言えばいいのか。
どう説明すればいいのか。
──瞳に宿った藍碧色の光。
──自分の体を駆け巡った、理屈では説明できない”力”。
思い出したくない。
でも、思い出さずにはいられない。
──あの日、何があったのか。
「俺は……俺たちは、あの日……」
重い口を開く。
「……あの日、洞窟で遊んでた。いつも通りだった」
「でも……突然、洞窟が地震みたいに揺れて、俺たちは閉じ込められたんだ」
舞は静かに耳を傾けている。
「そしたら……洞窟の中の石が光って……身体が熱くなって……」
龍之介は、無意識に拳を握る。
「綾の……綾の目の色が変わったんだ。そして、出口を教えてくれた」
──あの時の綾の目。
暗闇の中で、藍碧色に輝いた瞳。
「あの時、綾が言った。岩を押せって」
舞の視線が僅かに鋭くなる。
「……それで?」
「大きな岩だった……普通なら、動くはずないって思った。でも……また身体が熱くなって……」
龍之介は、自分の両手を見つめた。
「……そしたら、岩が動いたんだ」
部屋の空気が静まり返る。
龍之介の言葉が、重く落ちた。
舞は何も言わなかった。
ただ、じっと龍之介を見つめていた。
龍之介は、呼吸を整えるように一度深く息を吐いた。
「……それが、俺たちに起こったこと」
舞は、ルミナイトの鉱石を手の中で転がす。
「綾ちゃんが、出口を”視た”……」
その言葉に、龍之介が顔を上げる。
「そして、龍之介くんは”岩を動かした”……」
ゆっくりとした口調で、舞は言葉を選びながら繰り返した。
「……それが、ルミナイトの影響だとしたら?」
龍之介は、無意識に喉を鳴らした。
何かが──
何かが、変わってしまったのかもしれない。
自分たちは、もうあの日以前と同じではないのかもしれない。
沈黙が、部屋を満たしていく。
「話してくれてありがとう」
舞の声は、いつもの軽やかさをわずかに抑えていた。
「綾ちゃんに関しては、私たちに任せておいて」
龍之介は頷かないまま、ただ黙って立っていた。
「あ、それと」
舞は言葉を切り、軽く身を乗り出すようにして龍之介の目を覗き込んだ。
「この話は、絶対に他の人には話さないようにね?」
その言葉が、釘を打つように突き刺さる。
龍之介は何も言わず、扉の外へと出された。
***
校舎へ向かう途中、翔がいた。
「あ、羽瀬くん」
こちらに気づいた翔が、軽く手を上げる。
「どうしたの? 暗い顔して」
「……別に。なんでもない」
龍之介は視線を逸らしながら、そう答えた。
翔は少しだけ考えるような仕草を見せた後、ふっと微笑む。
「そうだ。いいところがあるから、ついてきて」
そう言って、校舎の階段を登り始める。
屋上の扉を開けると、強い夏の日差しが降り注いだ。
「こっち」
翔が指差したのは、階段室の上。
屋上の片隅にある、小さなコンクリートの建物だった。
「登れるのか?」
「もちろん」
翔は、慣れた手つきでよじ登ると、軽々と屋上のさらに上へと足を踏み入れた。
「ほら、羽瀬くんも」
龍之介は少し迷ったが、翔の後を追うように登った。
そこからの景色は、想像以上だった。
山の上にある校舎、その屋上のさらに上。
視界を遮るものは何もなく、遠くまで見渡せる絶景。
青々と広がる森の海、
地平線の先に微かに見える町の影、
そして──
「……LUX」
遠くに、白くそびえ立つ建物群があった。
昨日、ヘリから見た光景と同じ。
龍之介は、じっとその方角を見つめる。
翔は特に何も言わなかった。
ただ、静かに寝転がる。
龍之介も、ゆっくりとその隣に腰を下ろす。
風が吹き抜ける。
夏の日差しが肌を焼くように熱い。
眩しい──けど、絶景。
何も話さず、二人はただそこにいた。
時間が流れる。
ゆっくりと、夕日が空を赤く染めていく。