燈る灯り、拭えぬ不安
夢ではなかった。
目を覚ました瞬間、龍之介は昨日の光景を思い出した。
ヘリの窓から見下ろした、青波の町。
いや、そこに町はなかった。
焦げた大地。
灰に覆われた影。
見慣れたはずの道路も、家々も、すべてが跡形もなく消えていた。
「……夢じゃなかったんだ」
乾いた喉を潤すように、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥にこびりついた違和感が、目覚めとともにじわじわと広がっていく。
ここは、燈の森。
元は小学校だった場所。
今は、アルカディアが設営した孤児院になっている。
龍之介が泊まったのは、旧校長室だった。
本来はゲスト用の部屋として使われているらしいが、昨夜は遅い時間に到着したため、一時的な個室としてそこをあてがわれた。
木製の机が隅に寄せられ、簡易ベッドが置かれているだけの簡素な部屋。
壁には、古びた掲示板や、誰が使っていたのか分からない本棚が残されていた。
他の子供たちとは、まだ会っていない。
──明日には、相部屋に移ることになるらしい。
龍之介は布団を抜け出し、窓際へと歩み寄った。
木製の窓枠に手をかけ、外を見つめる。
窓の向こうには、森が広がっていた。
深い緑が濃淡を作り、朝の光を受けてわずかに揺れている。
まだ薄く霧がかかっていて、奥のほうは霞んで見えた。
──燈の森。
青波とは、まるで違う場所。
耳を澄ませば、梢を渡る風の音と、小鳥のさえずりがかすかに聞こえる。
……そして、あの時、もう一つ見たものがある。
LUX。
山々に囲まれた森の中に、不自然にそびえ立つ巨大な建造物群。
高くそびえる無機質な壁、整然と区画された施設。
森の中に埋め込まれた異物のように、そこだけが周囲の自然から浮いていた。
何をする場所なのかは分からない。
けれど、あれほど大きな施設があるということは、それだけの理由があるのだろう。
「LUX……アルカディア……」
ぽつりと呟いた。
俺たちはアルカディアに助けられた。
舞も、悪い人間には見えない。
けど……不安が拭えない。
「おはよ、龍之介くん」
不意に、背後から穏やかな声がかかった。
振り向くと、そこには舞が立っていた。
白衣の袖を軽くまくり上げ、片手にはマグカップを持っている。
昨夜の疲れが抜けきらないのか、目元にはうっすらとしたくまが浮かんでいた。
「朝から難しい顔してるね」
そう言って、舞はわずかに微笑んだ。
「朝ごはんの時間よ。お腹減ってるでしょ?」
舞はそう言うと、手に持っていたマグカップを軽く傾けた。
白い湯気がふわりと立ち上る。
「……別に、そんなに」
龍之介はそう答えたが、胃の奥が小さく鳴るのを感じた。
昨日の昼から、何も食べていない。
舞は肩をすくめ、軽く笑う。
「素直じゃないなぁ。でも、いいの。どうせ食べるんだから」
そう言って、彼女は踵を返した。
「さ、行きましょ」
龍之介は、ゆっくりと彼女の後についていった。
廊下を歩きながら、龍之介はぽつりと尋ねる。
「……綾は?」
舞の足が、一瞬だけ止まった。
「容態は安定してる。でも、まだ目は覚ましてないわ」
舞の言葉に、龍之介は小さく息を飲んだ。
静かすぎる沈黙が、流れる。
「後で会わせてあげる。ちゃんと休んでるから、心配しすぎないでね」
舞の声は、いつも通りの穏やかさを保っていた。
けれど、その裏側に何かを隠しているようにも感じられた。
***
「さ、ここが食堂よ」
舞が扉を押し開くと、温かい空気と、ほのかに漂うパンの香りが広がった。
広い空間。
元は体育館だったのだろう。
白く塗られた壁に、いくつかの長机が並び、その周りには子供たちの姿があった。
ざわ……
龍之介が足を踏み入れると、いくつもの視線が向けられた。
子供たちは小声で囁き合いながら、ちらちらとこちらを窺っている。
この場所に馴染んでいないことを、一瞬で悟った。
まるで知らない街に迷い込んだ旅人のような、居場所のなさ。
「おはようございます、舞先生」
柔らかく、それでいてどこか落ち着いた響きを持った声だった。
龍之介が視線を向けると、一人の少年が立っていた。
端正な顔立ちに、落ち着いた眼差し。
そして、首元で銀のネックレスが、淡く光を反射していた。
「その子は……新入りですか?」
舞は軽く頷き、龍之介の肩を叩く。
「ええ、昨日の夜に来たばかりなの。羽瀬龍之介くんよ、よろしくしてあげてね」
少年は一瞬、龍之介を見つめ、それから少し笑んだ。
「そっか。じゃあ、羽瀬くん、一緒に食べようよ」
少年はそう言って、軽く手を差し出した。
「僕は伏見翔。よろしくね」
龍之介は、その自然な誘いに少し戸惑いながらも、手を握り返した。
「……ああ、よろしく」
翔は微笑んだまま、長机のほうへと手を向ける。
「こっちの席、空いてるよ」
「じゃ、翔くん。龍之介くんをよろしくね」
舞はそう言うと、マグカップを持ち直し、ゆっくりと立ち去ろうとした。
しかし、ふと思い出したように足を止め、振り返る。
「あ、そうそう。ご飯が終わったら、軽く燈の森を案内してあげて」
「……燈の森を?」
「ええ。まだどこにも行ってないでしょう?」
そう言いながら、舞は軽く指をさした。
「それと、その後は私のところに連れてきてくれる?」
翔は少し頷き、穏やかに微笑む。
「わかりました」
「頼んだわよ」
そう言い残し、舞は食堂を後にした。
「じゃあ、行こうか」
翔に促され、龍之介は食事を取るためにカウンターへと向かった。
長いステンレス製のカウンターには、いくつかの料理が並んでいる。
スープ、パン、スクランブルエッグ、サラダ、ハム……
決まった食事が配られるのではなく、好きなものを選べるビュッフェ形式だった。
龍之介は適当に皿を手に取り、パンとスクランブルエッグ、それにハムを乗せる。
翔はサラダを多めに取り、スープとパンを選んでいた。
「朝はあんまり食べないのか?」
「ん? ああ、そういうわけじゃないけど、なんとなくね」
「ふーん……」
翔はトレーを持ちながら、ふっと笑う。
「それに、食べすぎると動くのが面倒になるし」
「……?」
なんとなく意味がわからなかったが、龍之介は特に気にせず、二人で適当な席に座った。
「ねえ、羽瀬くんはどこから来たの?」
翔がパンを千切りながら、何気なく問いかける。
「……青波」
その一言に、翔の手が一瞬だけ止まった。
「ああ、そうなんだ……」
それ以上、何も聞いてこないのが、逆に気になった。
だが、翔は無理に話を続けようとはしなかった。
「じゃあさ、好きな食べ物は?」
「……」
「……」
「……別に、特にない」
「そっか」
「お前は?」
「うーん……強いて言えば、焼きたてのパンかな」
「パン?」
「うん。温かくて、ちょっと甘いやつ」
(意外と普通だな……)
なんとなく、それを聞いて少しだけ気が楽になった。
何気ない会話を交わしていると、ふと龍之介の視線が翔の首元に留まる。
銀のペンダント。
その中央には、どこか見覚えのある鉱石が嵌め込まれていた。
「……その石」
龍之介がそう呟くと、翔は少し驚いたように自分のペンダントを触る。
「ああ、これ?」
指で軽く弾くと、淡く光る鉱石がわずかに揺れた。
小さな音はしなかったが、揺れた光だけが、どこか響くようだった。
「ルミナイトだよ」
ルミナイト。
その言葉を聞いた瞬間、龍之介の脳裏にあの時の記憶がよみがえった。
──洞窟の奥で見つけた、あの鉱石。
──崩壊した青波の中で、綾とともに触れた光。
(あれが……ルミナイト……)
「父さんと母さんがアルカディアでルミナイトの研究をしててね。これ、貰ったんだ」
「……父さんと母さん?」
「うん」
その言葉とともに、翔の表情が少しだけ翳る。
──ここは、孤児院だった。
龍之介は、翔の両親もまた、事故か何かでいなくなったのだと察した。
翔はそれ以上何も言わず、ルミナイトのペンダントを指でなぞる。
その仕草は、愛おしむようで、同時にどこか切なかった。
「……まあ、大事なものなんだ」
それだけ言うと、翔はまた何事もなかったかのように微笑んだ。
***
食事を終えると、翔はトレーを片付けながら軽く手を振った。
「じゃあ、行こうか」
龍之介は何も言わずに立ち上がり、翔の後をついていった。
食堂を出ると、朝の冷たい空気がかすかに肌を撫でる。
「ここはもともと小学校だったんだ」
翔はそう言いながら、広い廊下を歩き出した。
窓の外には、まだ霧が薄く残る中庭が広がっている。
並ぶベンチ、遊具のあったと思われるスペース──。
だが、その端の方にはブルーシートがかけられた資材や、足場が組まれた場所がいくつも見えた。
「工事中?」
龍之介が何気なく問いかけると、翔は頷いた。
「うん。アルカディアが改築してるんだ。まだ全部は終わってないみたいだけどね」
よく見ると、校舎も部分的に新しい建材と古い部分が混在している。
廊下や教室は年季が入っており、鉄筋コンクリート造りだがどこか古めかしい。
一方で、新しく増設されたエリアは、無機質な灰色の壁や大きなガラス窓が目立っていた。
「なんだか……ちぐはぐだな」
龍之介がぽつりと呟くと、翔はクスッと笑う。
「まあ、そうかも。でもそのうち馴染んでいくんじゃない?」
「ここが教室。基本的に、普通の学校と同じように授業を受けるよ」
翔は足を止め、開け放たれた教室の扉を指差した。
中では数人の子供たちが机を並べ、何かのプリントを広げている。
彼らの年齢層はバラバラだが、明らかに同じ年代の子ばかりが固まっていた。
「授業はね、低学年、高学年、中学生って感じで分かれてるんだ」
「ふーん……」
「国語、算数、理科、社会……普通の学校とほとんど同じだよ。教えるのは、アルカディアの職員だけどね」
龍之介は軽く眉をひそめる。
「外から先生を呼んだりはしないのか?」
「うん。アルカディアが管理してるからね」
それ以上、翔は特に気にせず話を続けた。
「あと、出入りは自由だけど──」
翔はふと立ち止まり、廊下の窓の外を指差す。
「見ての通り、燈の森は周りを森に囲まれてる。むやみに外に出ると、迷うことになるかもね」
龍之介は窓の外を見た。
濃い緑の木々が遠くまで広がり、地面には朝霧がまだ薄く漂っている。
「……森の外には、何があるんだ?」
「うーん……特に何もないよ」
「特に何も?」
「本当に森しかないんだ。道もないし、地図にも載ってないような場所だしね」
そう言いながら、翔は軽く肩をすくめた。
「だから、外には出ない方がいいと思うよ」
龍之介は無言で森を見つめた。
昨日、ヘリの中から見たLUXの建物群が脳裏をよぎる。
(本当に、何もないのか……?)
けれど、翔の言葉を否定するだけの材料はなかった。
「……わかった」
龍之介がそう答えると、翔は満足そうに微笑んだ。
ひと通り、燈の森の案内は終わった。
校舎の中を歩き回り、教室や職員室、倉庫、図書室などを一通り見て回ったが──
特におかしな点はなかった。
確かに、あちこち工事が進められてはいるが、
それも単なる改築の範囲内に収まる。
(……考え過ぎなのか?)
アルカディアへの漠然とした不信感は、あの事故の記憶とともにこびりついていた。
けれど、この施設を見た限りでは、何か裏があるようには思えない。
結局、ここはただの小学校を改築した孤児院なのだろうか。
ふと、校庭の端に視線を向ける。
校舎から少し離れた位置に、小さな建物があった。
学校の他の施設とは異なり、無機質な灰色の外壁で囲まれている。
周囲には簡易的なフェンスが設置され、入り口には「関係者以外立入禁止」のプレートが掲げられていた。
「……あれは?」
龍之介が問いかけると、翔は一瞥してから答えた。
「あれは療養施設だね。保健室じゃ手に負えない場合、あそこで治療を受けるんだ」
(……じゃあ、綾もあそこに)
龍之介は無意識のうちに拳を握りしめた。
「基本的に、職員しか入れないようになってるよ」
翔は特に気にする様子もなく、そう付け加えた。
「……そうか」
龍之介は、もう一度その建物を見つめる。
静かに佇むそれは、どこか校舎とは異なる、閉ざされた空間のように感じられた。