ようこそ、燈の森へ
「……は? 綾をどこに連れて行くって?」
龍之介の声が、避難所の一角に響いた。
その場にいた医療班の大人たちが、一瞬だけ動きを止める。
「綾さんの容態が、思ったよりも回復しない。このままだと危険だから、大きな病院に移送することになった」
淡々と告げられた言葉に、龍之介は食い気味に返す。
「じゃあ、俺も行く!」
即答だった。
当然のように言った。
それなのに、大人たちは、当然のように首を横に振った。
「……すまない。病院も今は手一杯なんだ」
「は?」
「この状況じゃ、入院できる人数にも限りがある。搬送できるのも、本当に必要な患者だけだ」
「だから綾は連れて行くんだろ!?」
「そうだ。だからこそ、余分な同行者を乗せる余裕がない」
喉の奥が熱くなった。
沸騰するような感情が、胸を突き上げる。
「ふざけんなよ! 俺が綾を看るんだ! 俺も行く!」
その声に、大人たちの顔色がわずかに曇る。
だが、返ってきたのは、申し訳なさそうな拒絶だった。
「分かるよ、君の気持ちは。でも、本当にギリギリなんだ」
ギリギリ?
そんなの知るかよ。
奥歯を噛み締め、拳を握る。
体の奥から湧き上がる焦燥感。
怒りと、恐怖と、どうしようもない無力感。
──どうすればいい?
何か、何か手はないのか……?
「俺だって……!」
叫びかけたその時、ポケットの中で、指が何かに触れた。
──そうだ……!
取り出したのは、舞の名刺だった。
一瞬、龍之介は息を呑む。
けれど、すぐに顔を上げ、勢いよくそれを突き出した。
「これを見ろよ!」
ほぼ怒鳴るように。
医療班の大人たちは、名刺を受け取ると、ピクリと動きを止めた。
空気が変わった。
「……アルカディア?」
誰かが小さく呟く。
周囲のスタッフが、目配せしながら小声で言葉を交わす。
龍之介には、その内容は聞こえなかった。
けれど──
何かが変わったのは、はっきりと分かった。
──なんなんだ?
一人のスタッフが、名刺を持ったままどこかへ走り去る。
龍之介は、その背中を睨むように見つめた。
「なんだよ……」
ただ待たされる時間が、無性に長く感じる。
隣では、綾の荒い息遣いが耳に刺さる。
──時間がないのに、なんで待たなきゃいけないんだよ……!
イライラが募る。
名刺を渡したことで、確かに流れは変わった。
でも、まだ何も分からない。
数分後。
戻ってきたスタッフが、息を整えながら言った。
「先方と連絡が取れた」
龍之介は、思わず息を詰めた。
「綾さんと君を、アルカディアの施設で受け入れるそうだ」
その言葉は、やけに遠くで響いた。
二時間後。
遠くから、ヘリのローター音が聞こえた。
空気を震わせる低い響きが、ゆっくりと近づいてくる。
龍之介は、待ちくたびれたように立ち上がった。
すぐ隣で座り込んでいた綾も、薄く目を開け、かすかに顔を上げる。
その時、舞が乗るヘリが視界に入った。
機体の側面には、英字のロゴがある。
「Arcadia Industries」──アルカディア。
その名を目にした医療スタッフの一人が、ぽつりと呟いた。
「アルカディア……」
ヘリが着地すると、舞がすぐに降り立った。
以前会った時と変わらない軽やかな足取りで、龍之介の前まで歩いてくる。
「役に立てたみたいね」
そう言って、舞は微笑んだ。
けれど、その笑顔はどこか気まずそうで、ほんの少しだけ、無理をしているように見えた。
「綾ちゃんの容態はどう?」
「いいから……早く乗せてくれ!」
龍之介の言葉に、舞はひとつ頷いた。
「分かったわ。すぐに運ぶから、待ってて」
舞が医療スタッフに指示を出すと、二人のもとへ数人が駆け寄る。
「綾ちゃん、ゆっくり横になれる?」
龍之介が支えようとするが、綾はほとんど力が入らないようだった。
医療スタッフが優しく声をかけながら、慎重にストレッチャーへと移す。
綾のまぶたがかすかに動き、薄く開いた。
「……りゅう…ちゃん……」
その手を、龍之介は強く握り返した。
「大丈夫だ、すぐに行く」
綾は小さく頷くと、再び静かに目を閉じた。
ヘリの中へと運ばれていくストレッチャーを、龍之介はじっと見つめる。
迷うことなく、その後を追い、機内へと乗り込んだ。
ヘリがゆっくりと上昇していく。
窓の外に広がる風景が、少しずつ遠ざかっていった。
龍之介は、綾の側に座ったまま、ふと窓の外に目を向ける。
その瞬間、視線が、ある一点に釘付けになった。
遠く、霞の向こうに広がる広大な荒野。
「……あれ……?」
思わず、言葉が漏れた。
そこには、何もなかった。
──青波だけじゃない。
かつて青波の隣町だった場所も、さらにその隣町も。
原発を中心に、広範囲にわたってまるごと消えていた。
家も、店も、学校も、道路も。
ただ、焼け焦げた大地が広がるばかりだった。
「……嘘、だろ……」
消滅している。
焦げた地面。
黒く爛れた土地。
わずかに残る瓦礫。
ねじ曲がった鉄骨や、建物の基礎部分すら、そのほとんどが跡形もなく消えている。
──まるで、何もかもを根こそぎ飲み込むような破壊。
原発事故で、こんなことが起こり得るのか?
ただの爆発や火災の跡とは、まるで違う。
何か異質なものが、すべてを消し去ったかのような光景だった。
これが、青波だった場所?
龍之介は、無意識に隣に座る舞を見た。
舞は、窓の外を見つめたまま、何も言わなかった。
ただ、拳をぎゅっと握りしめていた。
龍之介は、もう一度窓の外を見た。
何もない。
それが、すべての答えだった。
舞は知っていたのか?
──いや、知っていたんだろう。
最初から、この景色が広がっていることを。
なのに、あの時、真実を伝えなかった。
「分からない」と言った。
本当に、分からなかったのか?
それとも──言えなかったのか?
龍之介の胸の奥に、じわりと熱がこもる。
怒りとは違う、もっと重く、鈍いもの。
彼女を責めるべきなのか、それとも──。
ただ、やりきれなさだけが残った。
視線が、舞へと向かう。
舞も気づいたのか、龍之介と目が合った。
けれど、彼女は何も言わなかった。
わずかに眉を寄せ、唇を噛み、そして静かに視線を逸らした。
***
青波の残骸が遠くなり始めた頃、龍之介はもう一度窓の外を見た。
──異様なものが見える。
山々に囲まれた緑の中、突如として現れる巨大な建造物群。
無機質な壁、高くそびえるアンテナ、整然と並ぶ区画。
まるで森の中に埋め込まれた異物のようだった。
「……あれは?」
龍之介がぽつりと呟く。
舞が淡々と答えた。
「『Arcadian Luminite Research & Development Institute』──通称、ALRDI」
そして、付け加えるように口を開く。
「私たちはLUXと呼んでいるわ」
「……LUX?」
舞は軽く頷く。
「アルカディアの研究施設よ」
龍之介の眉が、わずかに動いた。
「もともと、この辺りには村があった。でも、高齢化が進んでいて、ほとんどの家が空き家だったようね」
「……村?」
「限界集落ってやつよ。研究施設の建設が終わる頃には、もう誰も残っていなかったみたい」
言われてみれば、施設の周りにぽつぽつと古い木造家屋のようなものが見える。
人の気配は、なかった。
ヘリはLUXを迂回し、さらに奥へと進んでいく。
しばらくして、機体の下に現れたのは、森に囲まれた校舎だった。
山間にひっそりと佇む、古びた建物。
けれど、窓の隙間からはわずかに灯りが漏れている。
舞が、ふっと息をつくように呟いた。
「……あれが、燈の森」
機体がゆっくりと高度を下げ、旋回しながら着陸体勢に入る。
プロペラの振動が、地面へと近づく鼓動のように響いた。
「着いたわ」
舞の言葉と同時に、ドアが開け放たれる。
冷たい森の空気が、肌を撫でた。
「ようこそ、燈の森へ」
一・崩壊・完




