銀の煤
龍之介は、恐る恐る通話のアイコンをタッチした。
「はい……」
『もしもし、こちら國林中央警察署の坂本と申します』
「……警察?」
突然の電話に、胸の奥がざわつく。
嫌な予感が、胃のあたりに重くのしかかる。
『突然のお電話で申し訳ありません。結代綾さんのご家族、またはご関係の方でしょうか?』
「あ……あぁ、そう……ですけど」
不安が一気に膨れ上がる。
『実は……本日夕方、國林地区の山間部にて交通事故が発生しました』
「事故……?」
『その事故で、お亡くなりになった方の身元を確認したところ、結代綾さんである可能性が高いと判断されました』
——は……?
龍之介の思考が、そこで止まる。
何かの聞き間違いかと思ったが、警察の声は淡々と続く。
『申し訳ありません……ご遺体の損傷が激しく、身元確認にはDNA鑑定が必要ですが、現在、仮の身元として照合中です』
『詳細については、直接お話しさせていただきたいのですが、お時間よろしいでしょうか?』
「……」
何かを言おうとするが、喉がひどく乾いて、声が出ない。
『もしもし?』
「そんな……嘘だろ……」
それだけが、かすれた声で漏れる。
『大変申し上げにくいのですが、タクシー会社の記録、現場の状況から、乗客は結代綾さんである可能性が極めて高いと判断されております』
喉の奥が詰まり、呼吸が浅くなる。
『詳細については、國林中央警察署までお越しいただけますでしょうか?』
——何かの間違いだ。
そこからのやり取りは——よく覚えていない。
気が付いたら、警察署へ向かうタクシーの中にいた。
外の景色が流れていく。
だが、龍之介の頭の中は、ひとつの考えがぐるぐると回るばかりだった。
(綾が……そんなはずない)
(きっと人違いだ……)
何度もそう思い込もうとする。
だが、不安は消えてくれなかった。
——その時、運転手が小さく声を上げた。
「うわっ……ここか……」
何気ない一言。
龍之介の視線が、窓の外へと向かう。
——そこには、道路に規制線が張られ、警察が交通誘導をしている光景があった。
通り過ぎざまに、目に飛び込んできたのは——
散乱するガラスの破片。
黒く焦げた路面。
深く刻まれたブレーキ痕。
一瞬、呼吸が止まる。
胸が強く締めつけられ、鼓動が耳の奥で響いた。
(まさか……まさか……)
喉が張りつき、声にならない。
(あそこが……)
息が詰まる。
視界が揺れる。
窓の外の景色が、にわかに遠のいていくように感じた。
「なんか、すごい事故だったらしいですよ」
運転手が、少し浮ついた調子で話しかけてくる。
まるで他人事のように。
まるで、“ただのニュース”のように。
——やめろ。
——やめろ……やめてくれ。
龍之介は、耳を塞いだ。
運転手の声が、遠くなっていく。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
さっきまで”疑念”だったものが、今、“現実”になろうとしている。
——いや、もうなってしまったのかもしれない。
指先が冷たい。
喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
不安と絶望が、黒い霧のように、龍之介を包み込んでいく。
音が消えた。
ただ、静寂だけが、そこにあった。
***
警察署に着くと、すでに舞が待っていた。
龍之介の姿を見つけると、舞は静かに口を開く。
「龍之介……」
だが、龍之介はほんの少し目を向けるだけで、何も応えなかった。
その目は、どこか焦点が合っていない。
舞は短く息を吐き、「……こっちよ」と促す。
龍之介は無言のまま、舞の後について署内へ入った。
——坂本と名乗る男に、小さな部屋へ案内される。
机と椅子が並ぶ簡素な部屋。
書類が積まれ、壁際には資料棚。
坂本が、静かに口を開く。
「事故の概要を説明させていただきます」
だが——龍之介の耳には、何も届かなかった。
目の前で、坂本が話している。
舞が真剣な表情で聞いている。
それでも——
断片的な言葉だけが、頭の中をぐるぐると回る。
「車両は炎上し……」
「運転手は即死で……」
——(綾が……?)
何かが頭の奥で、鈍く軋む。
舞が何か言った気がする。
だが、その声は、遠い。
坂本が書類をめくる音だけが、妙に大きく響いた。
「ご遺体の損傷が激しいため、顔での確認は難しく、一部の所持品を見ていただく形になります」
その言葉が、どこか遠くの出来事のように聞こえた。
まるで、自分には関係のない話のように。
視界の隅で、資料棚の隙間に置かれたカレンダーが目に入る。
何気なく、「今日の日付」を探す。
けれど、脳が拒絶するように、焦点が合わなかった。
「では……こちらへ」
坂本の言葉に促され、龍之介はゆっくりと足を動かす。
奥の扉の向こう——
そこに、布がかけられた遺体があった。
足が、止まる。
舞が隣で小さく息を吐く気配がした。
「……ご遺体の損傷が激しいため、お顔での確認は難しい状態です」
坂本の声が、遠く響いた。
「体格やシルエットで、ご確認いただければ……」
龍之介は、拳を握りしめた。
足が震える。
ゆっくりと前へ進んだ。
布の下から見えたのは——
痩せた手首。
火傷の跡が残る腕。
小さな指。
一歩、後ずさる。
鼓動が、耳の奥でやけに大きく響く。
——違う。違う。違う。違う。
これは、違う——
「結代綾さんで、お間違いないでしょうか?」
——頭が真っ白になった。
「ちがい……ます」
かすれた声が漏れた。
龍之介の唇は震えていた。
——違う。
多分——違うはずだ。
(あれは綾の手じゃない)
(あれは……あれは違う……きっと……)
坂本の筆記音が、静かに響いた。
「そう……ですか」
坂本の声は、変わらず淡々としていた。
「遺留品も何点かありますので、確認していただけますか?」
その言葉に、龍之介はぎゅっと歯を食いしばる。
坂本の案内で、別室に入る。
部屋の中央には、一つのテーブル。
その上に、いくつかの遺留品が置かれていた。
携帯、財布、鍵。
どれも、焼け焦げ、原型を留めていない。
黒く炭化し、触れれば崩れそうなほどに。
そして——
龍之介の息が止まる。
坂本が静かに言った。
「そちらは、ご遺体の右手に握られていた物です」
鈴だ。
煤けてはいるが——それは間違いなく、龍之介が綾にあげた銀の鈴。
「ああ……」
龍之介の喉が震える。
「ああああ…………」
力が抜け、膝が崩れ落ちる。
——綾だ。
あれは、綾だ。
胸の奥で、何かが砕ける音がした。
隣で、舞が声をあげ泣き崩れている。
龍之介は、震える手で鈴を掴んだ。
カロン——
煤けた金属がわずかに揺れた。
——だが、あの凛とした音は、もう響かない。
聞こえない。
何も。
龍之介は、深く深く、底の見えない穴へと落ちていった。
終・黄昏・完




