黄昏の帰り道
「お大事に」
受付からの声を背に、綾は自動ドアをくぐった。
ふぅ——
小さく息を吐く。
冬の冷たい空気に、その白い息がすぐに消えていった。
病院を出ると、なぜか歩く足が自然と軽くなる。
手に持ったバッグの中で、ピンク色の冊子が揺れる。
綾は無意識にそれを指でなぞり、ふと、微笑んだ。
「龍ちゃんなんて言うかな……」
少しだけ頬が温かくなる。
自宅から少し離れた街。
たまに龍之介やナディアと買い物に来ることがある場所。
大通りに出ると、陽が沈みかけた冬の空が広がる。
その下で、電飾で飾り付けられた街路樹が煌めいていた。
(綺麗だな……今度、龍ちゃんと見にこよっ)
胸の中で、ふとそう思う。
街の灯りが揺らめくなか、綾の足取りもどこか弾むようだった。
それは、電飾のせいか。
それとも、バッグの中のピンク色の冊子のせいか。
綾はふっと、小さく微笑んだ。
——街が、いつもより少しだけ幸せなものに映った。
街路樹の光を眺めていると、遠くからタクシーが走ってくるのが見えた。
(ラッキー♪)
綾はすぐに手を挙げる。
タクシーはゆっくりと減速し、目の前で停まった。
ドアが開くと、綾は軽く会釈して乗り込む。
車内の暖かさに、ふっと息をついた。
「LUX方面までお願いします」
すると——
運転手は少し嫌な顔をした。
口には出さないが、眉がわずかに寄る。
ほんの一瞬、躊躇するように視線を窓の外へ流した。
それも無理はない。
LUXのある街へ帰るには、小さな山を一つ越えなければならない。
長距離で、人気のない道。
運転手の反応も、仕方のないことだった。
それでも——
綾はそっと肩の力を抜いた。
今日の綾は、多少の嫌なことなら許せる気分だった。
タクシーの窓から、流れる街の景色を眺める。
夕暮れ時の街は、家路を急ぐ人々で溢れていた。
すれ違う車のライト、歩道を行き交う人々の足音、どこかの店から漏れ聞こえる笑い声——
そんな人々の営みを見るのが、綾は好きだった。
人生の半分を燈の森で過ごした綾にとって、多くの人間が暮らす街はまるで宝箱のように見える。
煌びやかなネオンが彩る歓楽街。
様々な店が入ったショッピングモール。
色んな人々が、それぞれの生活を送っているであろう、大きなマンション群。
そのどれもが、綾の好奇心を掻き立てた。
街の明かりがまばらになる頃、タクシーは山の麓へと差し掛かった。
山間の道は明かりが少なく、くねくねとうねっている。
夜になると、さらに暗く静まり返る場所だった。
綾は、車窓の景色を眺めるのをやめ、車内に流れるラジオへと意識を向ける。
スピーカーから、優しいベルの音と透き通った歌声が流れた。
クリスマスソング。
どこか懐かしく、温かいメロディ。
けれど——
この曲を聴くと、少し胸が苦しくなる。
幼い頃、父と母と過ごしたクリスマス。
灯りに照らされた部屋、優しい笑顔、あの温もり——
そっと目を閉じ、流れる音楽に耳を寄せた。
『先日、アルカディアの研究施設で起きた暴動事件ですが——』
スピーカーから流れた言葉に、意識が唐突に引き戻される。
ナディアとの共闘。
ボロボロになった龍之介。
そして——
クロウの最期。
思い出したくない光景が、胸を締め付ける。
(大丈夫……大丈夫……)
そう自分に言い聞かせるように、バッグの中のピンク色の冊子を撫でる。
それでも、不安は消えなかった。
無意識に、胸元の鈴へと手をやる。
——その瞬間。
ラジオの音が、遠のいた。
まるで、水の中に沈んでいくように。
視界が、ぐらりと揺れた。
綾の動きが、一瞬止まる。
沈み込んだ意識の中で、無数の未来が駆け巡る。
次の瞬間——
弾けるように息を吸い込む。
まるで、数分間も息を止めていたかのように。
肺が酸素を求めるように、激しく肩が上下する。
ふと——
綾の頬を、一筋の涙が伝った。
「……ぁ……ま……き……」
掠れた声が漏れる。
「え? お客さん、何か言いました?」
運転手が、ルームミラー越しに綾を見やる。
——その瞬間。
前方から、激しいクラクションが鳴り響いた。
「——っ!?」
山間に響き渡る、鋭いブレーキ音。
タイヤがアスファルトを引き裂くような音がした。
そして——
少しの間を置いて、激しい爆発音が轟く。
炎が弾けるような衝撃。
だが、その音はすぐに——
暗い山間の木々の中へと吸い込まれていった。




