蚊帳の外
避難指示が出され、人気のなくなった研究棟の一室。
翔は壁際にうずくまり、耳を澄ませていた。
「外はどうなっているんだ……」
かすれた声で呟く。
この静けさは、嵐の前のものなのか、それともすでに嵐が過ぎ去ったのか。
息を潜めたまま、ゆっくりと立ち上がる。
——その瞬間、踏み出した足首に鈍い衝撃が走り、思わず顔をしかめた。
「くそっ……」
思ったよりも痛みが引いていない。
逃げる途中で転んだ際に挫いた足が、まだ鈍く疼いていた。
それでも、体を支えながら、そっと窓枠に指をかける。
開け放たれた窓から、冷たい風が頬を撫でた。
外は静かだった。
先ほどまでNoctaの連中が研究棟を荒らしていたが、どうやら姿を消したらしい。
わずかに残る焦げた匂いと、砕けたガラスの破片だけが、彼らの痕跡を示している。
翔は浅く息を吐き、心臓の鼓動を落ち着かせるように胸に手を当てた。
「外は落ち着いたようだな…」
翔は窓の外を見つめながら、小さく呟いた。
風が吹き抜け、破れたブラインドをかすかに揺らす。
(いつあいつらが戻ってくるか分からない…)
微かな緊張が指先に宿る。
このままここにいていいのか——それとも、ARC司令部へ向かったほうが安全だろうか。
考えがまとまらないまま、ふと脳裏に龍之介の顔が浮かんだ。
「あいつは今頃、あの”特別な力”でNoctaと戦っているんだろうか…」
翔は自嘲気味に笑い、窓ガラスに映る自分の影を見つめた。
(僕はこんなところで何をしているんだ…)
拳を握る。
だが、そこには何の力も宿らない。
ただの、無力な手だった。
「ふっ…」
それは諦めにも似た、乾いた笑みだった。
翔は痛む足を庇いながら、壁伝いに歩き出す。
軋む床の音だけが、静まり返った研究棟に響いていた。
***
研究棟の扉を押し開けると、本部の方から鈍い衝撃音が響いた。
「なんだ!?」
翔は反射的に顔を上げる。
本部の方角——しかし、建物が視界を遮り、何が起こったのかは見えない。
周囲は静かだった。
風に乗って、わずかに砂埃が舞う。
「……僕には関係ないか……」
呟き、再び歩き出そうとした、その瞬間——。
藍碧の光が押し寄せた。
本部の方角から、青い波動がゆっくりと広がる。
陽の光が滲むように歪み、空気が波打つ。
それはまるで、目に見えない手が世界の輪郭を乱すかのようだった。
「なんだあれは…!?」
本能的に危険を感じ、翔は身を翻す。
だが——
ズキッ!!
挫いた足に鋭い痛みが走り、バランスを崩す。
膝をついた瞬間、その光が翔の身体を包み込んだ。
「うっ…!」
指先が微かに痺れる。
皮膚がじんわりと熱を帯び、その熱がゆっくりと身体の奥深くへと染み込んでいく。
内側から、何かが揺らぐような違和感。
これは何かが——違う。
ただの光ではない。
「……なんだこれは……」
翔は震える手を見つめた。
指先が微かに痺れ、皮膚の奥に残る じんわりとした熱。
その時——
ガシャッ!
何かが金属にぶつかる鋭い音が、静寂を切り裂いた。
翔は反射的に顔を上げ、音のする方を見る。
視線の先には、転がるペンキ缶。
そして——
その先に、細い影が二つ。
不規則に揺れ動く、歪な輪郭。
人の形をしているが、何かがおかしい。
ゆらり、と動く影の奥で——
赤黒く光る瞳が、じっと翔を見つめていた。
「うわぁっ!」
翔は思わず悲鳴を上げた。
目の前の存在——人間ではない。
だが、適合者とも違う。
(なんだあれは…!?)
異質な何かが、じっとこちらを見つめている。
理屈ではなく、本能が警鐘を鳴らしていた。
「くそっ…!」
咄嗟に背を向け、逃げようとした瞬間——
——ザシュッ!!
灼熱が背中を引き裂いた。
「ぐっ…!?」
皮膚が裂けると同時に、傷口が焼け爛れていく。
鉄を押し付けられたような熱 が、背筋を這い上がる。
「熱っ……!!」
反射的に転げ回るが、皮膚の奥に染み込んだ熱は消えない。
足の痛みも、何もかも忘れるほどの激しい熱が、肉の奥深くまで染み渡っていく。
見上げると、影は細身の男だった。
いつの間にかもう一つの影、背の高い女もその後ろに立っている。
「や、やめろ……近づくな!!」
這うようにして後退しながら、必死に叫ぶ。
だが、二人の瞳はただ赤黒く輝き、冷たく翔を見下ろしていた。
ゴッ
翔の背中が冷たい研究棟の壁に叩きつけられる。
逃げ場がない。
目の前には、ゆっくりと迫る男と女。
細く歪んだ輪郭。
その赤黒く光る瞳が、まっすぐに翔を捉えている。
「来るな……来るな……」
喉が震え、呼吸が浅くなる。
逃げなければならないのに、足がすくむ。
「来るなーーー!!」
その瞬間——
視界が藍碧に染まった。
ボゴッ——!
鈍い音が響く。
二人の足元の地面が沈み込んだ。
「……ッ!?」
二人が動きを止める。
否——動けない。
まるで見えない何かが圧し掛かっているように、足が沈み、動作が鈍る。
「なんだ…?動けないのか…?」
翔は息を飲みながら、目の前の二人を見つめた。
二人は抗うようにもがくが、その身体はじわじわと地面に沈み込んでいく。
足が地に縫い付けられたように、動きが鈍る。
(よく分からないが……逃げるなら今だ…!)
翔は必死で立ち上がった。
足の痛みも感じない。ただ、無我夢中で駆け出す。
背後から、赤黒い瞳が翔の背中をじっと追った。
(とにかく……ARC司令部へ……!)
あそこまで行けば——助けてもらえるはずだ。




